私の罪悪感は、母を神だと信じたことから生まれた《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:中村 美香(プロフェッショナル・ゼミ)
「小さい時に夢中になったことを思い出してみるといいよ!」
ライティングの講義で、本当に好きなことや興味があることのルーツを、幼少期の自分の中に探るというヒントをもらった時、私は、困った。
記憶力が悪さからか、小さい時、例え、周りの誰が止めても夢中でやり続けていたことや、どうしようもなく好きだったことを思い出せなかったからだ。
そればかりか、頑張って思い出そうとしていたら、物心がついた頃から、「今、私は、何をすべきか?」と自問自答し、行動してきたような気がしてきたのだ。
そんなに厳しい親だったの?
そう思われてしまうかもしれないけれど、そんな記憶もない。
優しい父と母と、2歳年上の兄との4人家族で、貧しいながらも仲良く暮らしていた。
愛されていたと思う、充分……。うん、多分。
だけど、家庭内で揉め事はあった。だいたいが、兄のことだったけれど……。
兄が、学校の友だちと揉めたという日には、本当にその友だちが悪いのか? 兄にも非があったんじゃないか? ということを大声で、話し合っていて、私も、その輪に入れられた。
「美香はどう思う?」
「黙ってないで何とか言ってよ」
時には、親と兄との言い争いの仲裁をしたり、情報を整理したりもした。
「今、自分は関係ないと思っているだろう?」
兄にそう八つ当たりされて、その通り、と思いながら
「そんなことない」
と言ったことも何度もあった。
今年で、結婚して、実家を出て、12年になる。
今は、優しい夫と息子と3人で仲良く暮らしている。
これは、本当。
あ、「これは、本当」って、言っちゃった……。
正直言って、今の方が楽だ。
実家は、家族みんなが機嫌がいいと楽しかったけれど、揉め事がある時は息苦しかった。
次の日に、朝早く学校に行かないといけないから、早く寝たかったのに、夜遅くまで、話し合いにつき合わされたことも、結構ある。実際、私には、一切関係ない話だった。だけど「家族だから……」という理由だけでつき合わされるその時間は、時計をチラ見することすら許されないほどの空気感で、真剣さを求められる緊迫した時間だった。
とても疲れた。
今だって、息子のことで、いろいろ悩むことはあるし、夫の仕事のことも一緒に考えたり、自分の今後のことについて思いを巡らすことはある。
だけど、それらは自分事だと思うし、つらくはない。
ただ、自分が自分のためにやりたいことをやるときに、いつも、うっすらとした罪悪感にかられることを除いては……。
現在、私は、専業主婦で、自分の稼ぎはなく、PTA活動のボランティアをやっている。
そんな立場で、申し訳ないと思いながらも、文章を書くという好きなことが仕事になればいいと思って、天狼院書店の「ライティング・ゼミ・プロフェッショナルコース」を受講させてもらっている。
日曜日の夕方から、夜にかけて、家を空けることは、なんとなく後ろめたく、最初は、都内に住みながらも、通信で受講していた。
だけど、どうしても、店舗で受講したくて、夫と息子に、思いを伝えて、日曜の夜に外出させてもらうことにした。
とても嬉しくて、感謝でいっぱいだったけれど、そこにはやはりうっすらと罪悪感がある。
しかも、さらに「罪悪感にかられて、100%楽しめていない自分」に対しても、二重に、罪悪感にかられてしまう始末だ。
完全にこじらせている。
これは、どうしたものだろう……。
この悩みを、ある信頼する知人に打ち明けたところ
「お母さんとの関係に問題があるかもしれないね」
と、言われた。
母との関係?
そう言われても、私には、ピンと来なかった。
母のことは、大好きだ。愛された実感もある。
その母との関係に問題があると言われると、穏やかでいられない。
だけど、そう言えば……と、少し気になることを思い出した。
いつだったか? 今から、20年くらい前、私が20代半ばの頃のことだったと思う。
何の気なしに、「母と娘」だったか? 「女性の生き方」だったか? そのような本を読んでいた。
なるほど、なるほど! その通り、その通り!
頷くことばかり書いてある本で、共感しながら読み進めた。しかし、あることが書かれているページで、その手が止まったのだ。
そこに書かれていたのは“一卵性母娘”という言葉だった。
“一卵性母娘”というのは、特に思春期以降らしいが、母親と娘の相互依存を表した言葉だった。
私自身は、母と、とても仲が良いと思っていて、そのことを誇りにさえ思っていた。
しかし、その本は“一卵性母娘”という言葉を用いながら、その関係は問題だと言っていたのだ。
喧嘩することもなく、意見も似ていて、気が合っている。これの何が問題なのよ!
憤りながらも、不安になった。
考え方を否定されたような気がして苦しかったけれど、それでも読み進めると、他の部分は、またしても、共感することで埋め尽くされていた。
そこの部分だけ、共感できないということは、やはり、私の考えが間違っているのだろうか?
深掘りしてみようともした。
だけど、仲がいい母娘が、必ずしも“一卵性母娘”ではなく、自立している場合もあるし、問題とは限らないじゃないか! と、都合のいい解釈をして、モヤモヤを残したまま、本を閉じたのだった。
また、こんなこともあった。
結婚してから、時々、私の実家に、夫と遊びに行き、私の家族と一緒にご飯を食べたりして過ごす時間があった。
そんなある日、夫が発した言葉に、私は驚いた。
「お義母さんさ、お兄さんと美香ちゃんに話す口調が全然違うね」
「え? そう? どんな風に?」
「お兄ちゃんには、気を遣っているのか、優しい口調だけど、美香ちゃんには、結構、厳しい口調だと思った」
「へー」
今まで、そんなこと思ってもみなかった。
「私は、ふたりを平等に育てたわ。どっちかが寂しい思いをしないように、それには、すごく気を遣ったの」
そう、母がよく言っていたし、特に、差別された記憶もなかったから、本当にびっくりした。
だけど、言われてみれば、そんな気もする。
「あんた、ちゃんとやんなさいよ!」
そんな風に私は言われるけれど、兄にかける言葉を、母は、慎重に選んでいる。
ある意味、ショックだったけれど、人より少し神経質なところがある兄に対して、私自身も、かける言葉を選ぶから、母のその対応は致し方ないし、むしろ、私には、気を遣わないで話せるなら、それはそれでいいとさえ思った。
「いやぁ、気がつかなかった。客観的に見るとわかるもんだね!」
そう言いながら、ほんの少しだけ、胸がチクっとした。
「お母さんとの関係に問題があるかもしれない」
信頼できる知人に、そう言われても、それでも、私は、母が大好きだから、このままでいいと思った。
だけど、もし、今、ここで考えてみることで、母と、もっといい関係が築けるとしたら……。
大好きだからこそ、今度こそ、逃げずに考えてみようと思って、図書館に行ってみた。
『私は私。母は母。あなたを苦しめる母親から自由になれる本』フェミニストカウンセラー 加藤伊都子・著 すばる舎 という本に出合った。
迷わず……と言いたいところだけれど、本当は、その本を手にすることさえ躊躇した。
[あなたを苦しめる母親]という部分を受け入れることが、怖かったのだ。
もし、今、ここで、この本を手にした私が、ばったり母に遭遇してしまったら、きっと母は悲しむと思った。
だけど、どうしても、[私は私。母は母]という言葉に惹かれて、思い切って、手に取った。
その本には、様々な「母と娘」のエピソードが紹介されていて、母を変えようと苦悩するよりも、うまく距離をとることで、自分自身の人生を幸せに生きていいということが書かれていた。
「母が嫌いだ」と言ってもいい! とも、書かれていて、私は、それとは関係ないと思った。
だけど、なんだか心に引っかかり読み進めた。
そして、ある言葉で、ハッとした。
【他者優先】という言葉だった。
女性は、幼少期から“他者を思いやれること、他者のニーズを読み取れること、他者のニーズを満たすために行動できることが女性として好ましい資質とされ、こうした【他者優先】のトレーニングを受けさせられる”と書かれていたのだ。
子どもの世話を優先して、自分のことを二の次、三の次とする行動様式。
正に、母が、それをしていたからこそ、私と兄は何不自由なく過ごせた。
だからこそ、私も、息子の「母親」となったからには、自分を犠牲にし、子どもを優先するべきだ。
そう、母は、背中で、私に語っているのだ、と気がついた。
だからこそ、息子が生まれた直後に、私がマタニティブルーになり、弱音を吐き、半ば、育児放棄ともとれる発言をしたときに、抱きしめてくれないばかりか、激しく叱ったのだ。
あんたは、「母親」になったからには、もう甘える側じゃないんだ! と言っていたんだ、きっと……。
母自身は、どうだったのだろうか?
母は母で、【他者優先】の行動様式を、幼少期に祖母から引き継がれ、守ってきたのかもしれないけれど、いっさい不満はなかったのだろうか?
あ、そう言えば、まだ、私が、結婚していない頃
「自分の気持ちを、一番に大切にしなさい」
「人のことを考える前に、自分のことを一番に考えなさいね」
とよく言っていた!
母は、言葉では、自分もやりたかったけれどできなかったことを、背中では【他者優先】をと、相反するふたつのメッセージを、私に送っていたのかもしれない!
こうしてみると、私が苦しいのは、母が悪いわけではなく、ましてや私自身が悪いわけでもない気がしてきた。
もしかすると、私が、母のことを「神」だと信じてしまったことが、問題だったのかもしれない。
絶対的で正しい存在だった母の言葉や教えを守りたかった私、そして、母に認めてほしかった私にとって、自分の中に生まれた、母と違う意見や、感情は邪魔だった可能性がある。
そうすると、罪悪感の正体とはなんなのだろうか?
ひょっとすると、自分が母と違う人間だと、薄々、気づき始め、自分の中で、やりたかったことが声を上げ始めた証拠なのかもしれない。
やりたかったことを実行しようとした時、育った環境や自分の作り上げたルールや禁止事項に反することをしているから、罪の意識を感じる。
それが罪悪感の正体のような気がする。
そうか! 罪悪感にかられる時はいつだって、本当にやりたいことをやろうとしている時なんだ!
もう、私は、大人なんだ。
私は私。母は母。
だから、もう自由になんでもやっていいんだ!
母は、神でなかったのと同時に、悪くて嫌うべき人でもなかった。
だたの、ひとりの女性だったんだ。
決して完璧ではなく、未熟な、だけど、一生懸命に兄と私を育ててくれたひとりの母親だったんだ。
だから、母が「絶対」と言ったことが、必ずしも「絶対」ではなくても、母の考えが、私の考えと違っても、おかしくないんだ。
私が、夫と息子と相談して、「いいよ」と言われてことは、我が家ではやっていいんだ。
ようやく、腑に落ちた。
母との関係を問題視することは、すごく怖かった。
それは、母のことを嫌いになったり、悪者にすることが耐えられなかったからだ。
けれど、母との関係を顧みることは、決して、母を悪者にすることではなく、母を理解しようとする作業だった。
「よい母親像」というものは、幻想で、誰も幸せにしないのかもしれない。
私は、私なりに、今回、母との関係を顧みて、気持ちが少し楽になった。
私自身ばかりではなく、私の中で、勝手に神格化された母もホッとしているように感じた。
この本の中には、私の知らない様々な母と娘の姿と悩みが載っていた。
「お母さん」といっても、本当にいろいろな人がいる。
確かに考えてみれば、いろんな性格の人がいるのに、子どもを産んだ途端、「母とはこうあるべき」という型に、ぎゅっと押し込められてしまうのはおかしなことだ。
人の数だけ、親子の組み合わせだけ、それぞれの形があるはずだ。
お母さんが嫌い。お母さんが好き。
大人になっても、母親というのは、何かと大きな存在だ。
だからこそ、自覚があっても、なくても、自分の心の安定と関連している可能性があるのだと思う。
もし、気になったらば、一度、母親を、ひとりの女性として客観的に見てみるのはどうだろうか?
人によっては、母親と物理的、精神的に距離をとる必要がある人もいるだろうし、関係を顧みる作業自体がつらい作業になるかもしれない。
そんな時、この本は、そっと肩を抱いて、「あなただけじゃないよ」と励ましてくれるだろう。きっと。
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