失明して見えたものは
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:たかはしにこ(ライティングゼミ平日コース)
「残念ながら手の施しようがありません」
先生は、厳しい表情を崩すことなくまっすぐに私の目を見ながら言った。
「もうほとんど何も見えていない状況です。もう間もなく視力を失います。これからの生活の注意点としては……」
淡々と続ける先生の説明は、私の耳にはなにも聞こえてこなかった。
今自分がどこにいるのかわからなくなるくらい、どこか遠くの音も色もない世界に迷い込んだような感覚に陥った。
<失明>
そんなことが私たちの家族に起こるなんて、今のいままで考えてもいなかった。
私は周りをはばからずに、バス停のベンチで大きな声を出して泣いていた。
どうやって病院を後にしたかは、全く覚えていない。
まるで、生まれたての赤ちゃんがこの世界のリアルさに戸惑ってただ泣くように、空にむかって涙を流すことでしか自分を保つ方法がなかった。
なぜ、うちの子が……。
なぜ、こんなに早く……。
愛犬8歳。我が家に来て8年と1ヶ月。
犬種は、過去10年間の調査でも1、2を争う大人気のトイプードル。
新雪のように柔らかで真っ白な毛とボタンのような大きな目が、まるでぬいぐるみのような様から、あの世界三大美人にあやかり、コマチと名付けた。
私よりも主人のことが大好きで、どこにでも尻尾を振りながらついていくストーカー犬だ。
主人がトイレに行けばドアの前で待ち、お風呂に入れば湯船にダイブするように飛び込んでいく。
子供がいない私たち夫婦にとってコマチは、毎日の生活になくてはならない太陽のような存在だった。
仕事のスケジュールも、旅行の場所も常にコマチが中心で回っていた。
1.8キロの小さな体で、元気いっぱいに走り回る姿を見ていると、自動で顔がほころんで、どんな疲れも飛んでいく。
テニスボールが大好きで、何十分も転がして追いかけて遊んでいたかと思うと、急にパタンと倒れてその場で眠ってしまう。
その姿は、まるで電池が切れた幼児用の動物を模した玩具のようで、夕食後の癒しの時間の風景だ。
「くしゅん」
小さなくしゃみが聞こえた。
涙をぬぐいながらバッグの中を覗くと、コマチが尻尾を振って私の顔を見上げていた。
でも、そのパッチリとした瞳と私の視線が合うことはなく、その視線は私の肩越しの空を見つめていた。
思えば、前兆は数多くあった。
約3ヶ月前から、愛用のボールを追うのが急に下手になった、
主人へのストーカー活動が減ってきた。
おやつをお皿に入れても見つけられないことがあった。
鼻でクンクンと嗅いで確認することが多くなった。
夜道を歩くときに怯えるようになった。
壁やドアにぶつかることがあった。
アイコンタクトが取りにくくなった。
見過ごしたわけではない。
これらの症状に気がついて、すぐにいきつけの近所の病院で診察を受けた。
そこでは、老化による、白内障によるものと診断された。
犬は6歳になると、人間でいうと60歳、シニア期と呼ばれる年齢を迎える。
ゆっくり数年間の時間をかけて進行するが、手術で治すこともできるとのことだった。
目薬で進行を遅くする治療をしながら、手術も視野に入れ観察を続けることした。
それから3ヶ月も経たずに、急激に悪化したのには別の原因があった。
コマチは、進行性網膜萎縮という遺伝性の病気にかかっていたのだ。
急に、目が曇り始め、視線がさまよい、側にいるのに不安から寂しそうに鳴くようになった。
不安になって犬友に相談したところ、眼科専門動物病院を紹介してもらい、急いで受診し検査をして判明した。
しかし、すでに手遅れで治療はできない、という悲しい結果になってしまった。
私の体の一部を失ったように感じて、涙が止まらなかった。
視覚を失うことは、生きる嬉しさが大幅に減るように感じた。
ここ数年で一番、と断言できるほど泣いた。
幸いバス停を利用する人はほとんどいなかった。
現実を少しずつ受け入れるように努力しようと、スマホで病気の情報を集めながらさらに泣いた。
やっと心が定まり、答えを出す。
最初の病院での誤診を恨まない。
犬の目の病気を見つけるのは、とても難しいらしい。
特にコマチのように、白内障と進行性網膜萎縮は症状が似ているので専門病院でないと特定できないことがほとんどだそうだ。
ブリーダーも恨まない。
先生曰く、今の時代はこの病気の遺伝を防げるのだそうだ。
実際、犬に遺伝子検査をして、異常がないことを確認してから交配をしているブリーダーも増えてきているとのこと。
しかし、コマチが生まれた時にはまだこの検査は存在していなかったのだ。
日進月歩で動物医療も進化している。
自分のことも恨まない。
いつだって、できる限りのことをして娘のように大切に育ててきた。
よくやってきた。
そうやって、何度も何度も自分に言い聞かせた。
コマチとの8年間の生活を思い出して、また涙する。
もう目と目で通じ合うことはできないのは本当に悲しいけれど、そのぶん心をつなげばいい。
これから、もっともっと大切にすればいい。
「ペロペロ」
コマチが、涙と鼻水だらけの手を舐めてくれる。
ハッとして時計を見ると、家を出てから8時間が過ぎていた。
病院で数時間、バス停でも数時間を過ごしていた。
主人から、何度も携帯に着信がありメッセージも送られてきていた。
居る場所を連絡すると、急いで迎えに来てくれた。
車に乗り込んで、大きく息を吐いた時の安心感は、今でも忘れない。
愛犬が失明してみえてきたもの。
ずっと大好きな宝物。
ずっと大好きな家族。
そして、ずっとは続かない時間。
3年前を思い出して書きました。
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