鬼はそと~っていわれて、どこにいくの?
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記事:青木文子(ライティング・ゼミ特講)
子どもがまだ3歳の頃。節分の日にこんなことを聞かれた。
「鬼って、鬼はそと~って言われて、どこにいくの?」
「どうして?」
子どもは、友達の心配をするようにちょっと声を小さくしてこう言った。
「どの家からも、鬼はそと~っていわれたら行くところないよね」
私は小さいときに鬼が怖かった。節分の朝は幼稚園を休もうかと思うぐらいこわかった。幼稚園でクラスのみんなと豆撒きをする。そこへお面をかぶった先生が鬼に扮してやってくる。
「鬼は~そと!」「福は~うち!」
豆を鬼にぶつけるよりも教室のあちこちに逃げるのに必死だった。鬼がお面をかぶった幼稚園の先生だとわかっていても、その鬼が怖かった。
「あんなの先生が鬼になってるだけじゃん」とへらへら笑っている友達もいたが、本気でこわい自分は必死だ。はては泣き出してしまってお面をとった先生に慰められている子もいた。
鬼ってなんだろうか。こわいもの。おそれるもの。追い払うもの。
「どの家からも、鬼はそと~っていわれたら行くところないよね」
そう私に言った子どもは、子どもなりに節分の鬼の心配をしているようだった。
私は小さいときに鬼が怖かった。でもこの子にとって、鬼はこわい存在というよりも、もっと自分に近い存在に感じているのだと思った。
思い返してみれば、子どもの頃、確かに鬼は身近な存在でもあった。
かくれんぼの鬼、めかくし鬼の鬼。
節分の鬼は怖い存在だけれど、かくれんぼの鬼は一緒に遊ぶ存在。鬼は自分を捕まえにくるけれど、それは友達。捕まったら笑って、鬼を交代する遊び仲間。いつでも自分と入れ替わりになるものが鬼。
そう考えると、子どもが
「どの家からも鬼はそと~っていわれたら行くところないよね」
と言った気持ちがわかるような気がした。
「うちはとくべつに鬼がきてもいい家にしようよ」
「鬼、怖くないの?」
「う~ん、わかんない。でも、ぼくなら豆をぶつけられるのはいやだもん」
「じゃあ、豆をぶつけるんじゃなくて、豆でなにかおいしいものをつくろうか」
子どもたちと相談して、その夜のメニューは大豆の水煮をいれたミネストローネになった。
子どもは紙をもってきて、私にこう書いてくれと言った。
「いくところのないおにはきていいよ」
「まめのスープがあるよ」
子どもはベランダにはりきってその紙をセロテープで張っていた。
「これで鬼さんたちみつけてくれるかな」
その年から我が家の豆まきの掛け声は変わった。
「鬼も~うち!」「福も~うち!」
その掛け声をかけながら、昔から感じていた一つの気持ちが溶けてゆくように感じた。そうか、怖がらなくていいんだ。追い払わなくてもいいんだ。
「鬼は外、福は内」と声を出しながら豆を撒いて鬼を追い払う。その鬼は、かつて人々にとってなくなってほしい「疫病」であったり、「飢餓」であったり、「不運」であったりした。あなたは自分の中になくしたいものはいくつあるだろうか。私たちは日常の中でなくしたいものをどうするだろうか。隠そうとする、捨てよう、追い払おうとする。
子どもの時に読んだ『ゲド戦記』のラストシーンを思い出す。魔法使いの少年は、自分が優越感にひたりがたいために、使ってはいけない術で「影」を呼び出してしまう。その「影」はゲドを追いかけ、その「影」はゲドをおびえさせる。そしてラストシーン、「影」から逃げ回ることをやめる決心をしたゲドは、その「影」に真正面から向かい合う。実はその「影」は、ゲド自身の一部だったというお話だ。
鬼は私たち自身の中にある「影」のようなものかもしれない。人はその「影」を疎ましく思い、自分の中の「影」を追い払おうとする。しかし、時に追い払おうとすればするほど、私たちはその「影」におびえることになる。
ゲドが気づいたように、その「影」が実は自分自身の一部だとしたら。その「影」を追い払うことは自分の一部を失うことになる。
身の内に鬼がいる。それを外にだす、追い払うというのも一つの考えだ。でももう一つの考えがある。それは、その追い払いたいものをもう一度自分のものとして統合することだ。私の中にあるものは、それがどんなに疎ましいものだとしても、それは私自身の一部なのだ。その鬼はあなたにとってあなた自身の大切な一部なのだ。
「鬼も~うち!」「福も~うち!」
子どもたちが大きくなった今も豆まきをする。大きな声で掛け声をかけながら豆まきをする。掛け声をかけながら思う。私は私の中の鬼を追い払わず、迎えいいれることができるだろうか、と。
目をそむけたいもの自分の一部とみとめることはとても勇気がいることだ。でもその勇気をだして、あなたが追い払おうとした鬼に向かい合ったとしたら。きっとそこには新しい自分が待っているに違いない。なぜならその向こうにいるのは、ゲドが影を抱きしめて一体となったように、あなたがあなたの一部と一体になった新しいあなたかもしれないのだから。
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