13歳で手にした「不合格」の切符
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【2月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:木暮裕加里(ライティング・ゼミ日曜コース)
「あなたは不合格です。」
と先生に言われた。
幼稚園から7年間も一緒に習ってきた友人も含め、
一緒にバレエレッスンの大人のクラスである
アダルトクラスへの入団テストを受けることになった。
きわめて基本的なテストのはずだった。
同じ年月、同じように練習してきたはずなのに
友人は合格し、私は落ちた。
今まで誰かと比べられることもなく、
ただ楽しく踊っていたはずのバレエが
その日を境に、地獄に変わった。
最初にクラッシックバレエを習おうと
仲のいい友人を誘ったのは私だった。
いつも仲良くバレエに通っていた。
保育園からずっと一緒だった。
飽き性な私のことだからどうせ続かないと母は思っていたそうだが、
大好きな友人が居たことで休むことなく通うことができた。
5歳から始めたバレエも、気がつけばもう中学生になっていた。
バレエ教室は3つのクラスに分かれていて、
私たちはミドルクラス。小学校高学年から中学生のクラスである。
高校生からはアダルトクラスになり、一気にレベルが上がる。
誰でもアダルトクラスに入れるわけではなく、
必ず入団テストを受ける必要があった。
そして、不合格だと言われた後の最初のレッスン。
いつも同じ時間、同じ曜日に通っていたクラスから、友人が居なくなった。
アダルトクラスは大人の方が多いので、
遅い時間からのスタートなのだ。
私たちのミドルクラスが終わった後、
入れ替わるようにアダルトクラスが始まる。
レッスンを控えた彼女と更衣室で一緒になった。
彼女の顔が見れなかった。声もかけられなかった。
恥ずかしいような、悲しいような、裏切られたような、寂しいような。
うつむき、逃げるように教室を後にした。
中学生のころの多感な私には、
目の前が真っ暗になるくらい、心を締め付ける出来事だった。
家に帰り、不合格だったと母に告げた。
そこで母は、予想外の反応をした。
大笑いしたのだ。
不合格だと肩を落とす娘に対し、
母は信じられないくらい楽しそうに笑った。
そして笑いながら明るくこう言った。
「不合格だって良いじゃない! 嫌なら辞めちゃえばいいのよ!」
びっくりした。
きっと責められる、と思っていた私は、
一気に肩の力が抜け拍子抜けした。
そして、悔しさがこみ上げてきた。
「辞めるわけないじゃん! 」と母に強く言い返し、
その時はじめてポロポロと涙が出てきた。
今思えば、母は私のことをよく分かっていたのだ。
気が強く、負けず嫌いの私だからこそ絶対に辞めないと。
落ち込んでいるくらいなら、悔しさをバネに頑張りなさいと
言ってくれていたのだ。
だからこそ、慰めるわけでも、叱るわけでもなく
一歩下がって、笑ってくれたのだ。
そこでもし、「なんで不合格なの」とか
「練習が足りないからだ」と言われていたら
私は頑張れていなかったと思う。
悲しみを悔しさに変えた私は、必死だった。
レッスンの後も、毎日家で練習をした。
何が出来ていないのか、母にビデオを撮ってもらって、
確認しながら練習をした。
とにかく悔しかったのだ。
ここで諦めてしまったら、大好きだったバレエを
嫌いになりそうだったのだ。
その出来事から3年後、私は発表会で主役を務めていた。
友人の顔を見れずうつむきながら
レッスンを受けていた私はもう居なかった。
きっと、あの「不合格」がなければ、この舞台には立てていない。
自分を買いかぶって、大して上達することもなく、
どんどん周りに置いていかれていたのかもしれない。
早々にバレエを辞めてしまっていただろう。
それから14年の月日が経ち、私は社会人として働いている。
多くの人と出会う中で、様々な人間が居ることに気づかされた。
勉強もそれなりに努力してきたと思っていた私よりも、
はるかに頭のいい人が沢山いた。
遊んでいるように自由に生きているのに、
成功をつかんでいる人がいた。
羨ましい、と嫉む感情が無いと言えばウソになる。
でも、ライバルは「他の誰か」ではなく「自分」であることを
13歳の私が教えてくれた。
運命を変えるためには、
自分が行動しなければいけないことも教えてくれた。
だからこそ、私は天狼院のライティングゼミの門をたたいた。
いつか生まれてくる自分の子供にも、
同じように試練がやってくるのだろうか。
もしも子供が「不合格の切符」を渡されたとしたら、
私の母がそうしてくれたように、
そっと見守り、心の中で応援してあげたいと思った。
「不合格だって良いじゃない」と笑い飛ばせるくらいに。