プロフェッショナル・ゼミ

国際化に対応できる人になりたいと思った時に、英語よりおススメの言語《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:相澤綾子(ライティング・ゼミ プロフェッショナルコース)

 
 
国際化、といえば、やっぱり英語だろうか。
英語はものすごく苦手だ。努力はしたけれど、身につかなかった。どうにか受験は乗り越えたけれど、今では全然自信がない。できれば、外国人と話す機会は避けたいと思っていた。就職をしてからは、英語を話す機会などほとんどなく、どんどん忘れてしまった。今では、中学英語さえ、危うい気がする。
国際化なんて、私には縁がない。別に英語なんて話せなくてもいいと思うようになっていた。
 
でも気づけば、少し気持ちが変わっていた。ここ数年で、ぐんと街で見かける外国人が増えてきた気がする。こちらから積極的にならなくても、じわりじわりと世界が生活の中に染み込んできている。子どもの保育所でも、スペイン語や中国語を話している人がいる。保育士の先生とも、たどたどしいながらも日本語で会話している。
私はもちろんスペイン語や中国語は話せないので、「おはようございます」や、「こんにちは」などの挨拶を交わす程度だ。
でも、なんとなく気になっている。
子どもたちがもう少し大きくなって、生活に余裕ができたら、ラジオやテレビの講座でスペイン語か中国語を勉強して、少し話せるくらいにはなってみたいな、などと思うようになっている。
 
これは多分、日本手話を勉強したからだと思う。
 
今から12年前、私は日本手話を習い始めた。職場に同い年のろう者がいた。彼女は2、3歳の時に聴覚を失い、小学校から聾学校に通っていた。自分のことを「ろう者」と呼んでいる。そして日本手話の講師の資格を持っていた。
それまで私は、手話について全く知らなかった。まず、手話は世界共通だと思っていた。彼女は「違う」と言った。彼女たちは、日本で話されている手話を日本手話と呼んでいる。では、点字が日本語の五十音に対応しているように、手話も対応しているのかと思った。彼女は「それも違う」と言った。日本語を覚えて話すことに慣れた後で、聴力を失った場合には、日本語対応手話という手話を話す人もいる。けれども、彼女たちのように、生まれつきか、日本語を話すようになる前に聴力を失った人は、独自の文法を持った言語を使っているという。語順も日本語とは違う。手の形だけでなく、動き、まゆの上げ下げ、顎の上下など、様々な要素から成り立つ言葉だ。それが日本手話だ。
彼女はもちろん日本語にも慣れていたので、最初はいろいろ筆談で話をした。問題なく筆談で会話していたので、当然のように、日本語で考えているのだと思い込んでいた。でも私が少し考えてから答えなければならないような質問をした時には、彼女は確認するような表情で、自分の手を動かしていた。私は驚いて尋ねた。
「もしかして、手話で考えているの?」
彼女の方もびっくりした顔をして、それから笑いながら、
「当たり前」
という手話表現をした。
何かを考えるときに頭の中で日本語の音を思い浮かべることがある。声に出して言いながら考えることもある。それと全く同じように、手を動かしたり、頭の中で手を動かしたりしながら、彼女たちは手話で考えるのだ。
私たちにとって、日本語は道具ではない。何かを考える時にもう絶対に必要なもので、もし日本語がなかったとしたら、全てがぼやっとして、何も考えられなくなってしまう。それと同じように、彼女たちは、日本手話で全てを理解するのだ。どちらかといえば、日本語が、ノートやパソコンに記録したり、筆談するために使う道具ということなのかもしれない。
 
日本手話があれば、ろう者たちは、コミュニケーションの問題など全くなかった。
もう今ではそういう場所はなくなってしまったのだけれど、アメリカのヴィンヤード島では、過去に300年にわたり、みんなが手話で話をしていたという。遺伝性の聴覚障害によって、島の人口のかなりの割合をろう者が占めるようになっていた時期があったという。そこではみんなが手話を使うことができた。聞こえる人どうしが話をしていたとしても、そこにろう者がやってきたら自然に手話に切り替えるという慣習があった。みんなそれを当たり前のことと考えていた。
手話さえあれば、耳が聞こえないことなど、大して気にしたりせず、暮らしていけるのだ。何しろほぼ生まれた時から耳が聞こえない世界で生きてきて、代わりに目で見たり、振動で感じたりして生活してきたから、コミュニケーションさえ取れれば、自由なのだ。
 
日常会話が徐々にできるようになって、私は彼女に誘われて、ろう者のイベントにちょくちょく顔を出すようになった。ろう者の歴史について勉強するものや、演劇、手話についての勉強会など、様々な内容があった。
今でも印象に残っているのは、ろう者の朗読劇のようなものだ。手話でろう者が考えた物語を話すのだけれど、それがとても美しかった。無駄のない手話になっていて、意味が分からない部分でさえも流れるように感じられた。ろう者たちには、日本手話によって発展してきた文化があるのだ。
勉強会の方は、手話について研究している言語学者たちの講演などだった。ほとんどのテーマが日本手話は言語であるということを証明するものだった。手話の文法的な面から分析したり、手話を使っている人の脳の動きを医学的に分析したものなどもあった。
そういうイベントに参加する時は、かなり手話に慣れていたとはいえ、やはりネイティブのようにすぐに理解できたりするわけではない。私がきょろきょろしていると、手話があまり分からない人ということに誰かが気付いて、言い換えて説明してくれたりした。みんなとても優しかった。私はそんな風に助けられるのは、気持ちの良いことなのだということを知った。彼らは手話のレベルを下げて説明したり、表現を変えて説明したりするのがとてもうまかった。分からない時は、
「分からないから教えて欲しい」
と、積極的に訊くことができるようになった。
不思議だった。学生の頃などは、分からないことがあってもそのままにしてしまうか、あるいは、授業が終わってから休み時間に先生のところに言って、こっそり訊きに行くなんてことをしていた。でもろう者たちは分からない時は、その場で分からないと質問したりしていた。当たり前のことだけれど、以前の私にとっては勇気がいることだった。
それどころか、分からないのに分かったふりをするのは良くないことのような気がするくらいだった。いつの間にか、ろう者の世界にどっぷり浸かって、楽しむことができるようになっていた。
 
手話を習い始めて6年目くらいの頃、ろう者のお手伝いをしたことがある。彼女の知り合いの高齢のろう者から、新しい携帯電話に変えてから、請求額がすごく高くなってしまったので、一緒に携帯電話のショップに行って欲しいと頼まれた。通訳者に頼んでいる時間もないので、どうしても、ということだった。いつも話し慣れている友人が来てくれれば不安は感じなかっただろうけれど、彼女は仕事が終わらないから行けないと言った。迷った。でも、最後には、彼女が、私でも大丈夫と判断したから、私に頼んでいるんだろうと考えて、受けることにした。
親戚の若いろう者も一緒に来てくれることになり、少し安心した。高齢のろう者の手話は、手話に慣れている人にとっても、読み取りにくいことが多いので心配だったのだ。多分、方言がきつくて、話が分かりにくい高齢者がいるのと同じだ。
約束した時間にショップに行くと、すでに本人と親戚は来ていた。私は店員に相談内容を告げた。
すぐに店員は利用状況を調べてくれて、データ通信料が大きいということが分かった。原因はテレビ電話だろうと思った。そのろう者は日本語が不得意なので、メールのやりとりは苦手だった。確認すると、新しい電話に変えてから、テレビ電話が使えるようになったので、頻繁に使っていたとのことだった。使用履歴では、夜中数時間つないだままになっていたこともあった。その時に、話が終わっても回線がきちんと切れていなくて、いつまでも課金されてしまったのではないかと店員は言っていた。
それを私は本人に伝えなければいけない。
そこにいるのは、本人以外は、対応してくれている店員と、他2名の店員、そして若いろう者と私だけだった。3名の店員は日本語を話せるが、日本手話はできない。本人と若いろう者は日本手話を話せるけれど、日本語は聞こえないし、話せない。この中で、日本語も話せて、日本手話もできるというのは私しかいなかった。私が何とかしなければいけないのだ、と今さらながらに気付いた。
とても緊張した。まずは、いつも友人に話しているような感じで話してみた。とはいえ、データ通信とか回線の話など、手話で話をしたことはない。友人なら私の手話を見慣れていることもあり、読みとって理解してくれた。けれども、高齢のろう者はもちろんのこと、若いろう者の方も意味が分からないようだった。
後で店員に言われたことを友人に伝えて、友人から伝えてもらえればいいじゃないか、という考えが頭をよぎった。私の手話の能力が足らないのだから、仕方がないじゃないか。もし必要ならまた後で彼女と一緒に来て、店員に質問して、それを友人に伝えればいい。
高齢のろう者は携帯電話を左手に握りながら、浮かない顔をしていた。当たり前だ。新しい携帯に変えて、急に料金が増えて、大金を払わなければいけない。さらに理由が分かるまでは安心して使うことができない。やはり今日できるところまでやらなければいけないと考え直した。
いつも自分がろう者のイベントの時などに、みんなが助けてくれたことを思い出した。私もやらなければと思った。表現を換えたり、少し身振りも加えたりして、なんとか伝えようとした。若いろう者もフォローしてくれて、少しずつ本人が理解したようだった。最後には、ほっとした表情をしていた。
私もほっとした。
 
帰りの車を運転しながら、ろう者のイベントの時のことを思い返していた。内容が分からない私のために、一生懸命言い換えてくれたりして説明してくれようとしたろう者たちの顔が浮かんで、じんわり気持ちが温かくなった。私が分かった時は、ろう者たちの方も嬉しそうだった。一緒に勉強したり、自分の生徒だったりすれば、私の手話のレベルが分かる。でも数回しか会っていない私がどんな表現なら分かりそうかということは、簡単には想像できない。どんな風に表現すれば伝わるか、いろいろ試してみなければ分からないはずだ。この人は手話がまだ分からない、耳の聞こえる人だから、ほっておこう、ということだってできたはずだ。でもそんな風にはしなかった。何とかして伝えよう、コミュニケーションを取ろうとしてくれた。それはすごくありがたいことだったし、なかなかできないことだと思った。
彼女たちは、ほとんど聞こえる人達の中で生きていて、毎日の生活の中で、コミュニケーションを取る時に工夫を重ねてきているのだ。耳が聞こえないことは一般的には障がいということになるのかもしれないけれど、同時に、難しい環境の中でもコミュニケーションをとろうとする忍耐力がある。そして、伝えるための色んな引き出しを持っている。それは強みにもなっているのかもしれないと気付いた。
 
国際化に対応できる人になるためには、英語がすごくいいツールにはなるだろう。でも英語を覚えただけでは駄目なような気がする。
私は日本手話を習って、仲間に入れてもらったことで、違う文化の人たちとコミュニケーションを取りたい、という土台みたいなものができた。分からないことは訊こうとする勇気や、何とかして伝えようとするチャレンジ精神は、違う言葉を話し、違う文化を持つ人と交流するのには必要になる。そして何よりもその交流がとても楽しいことだと気づかせてくれたのは、日本手話を話すろう者たちだった。
だから私は、国際化に対応できる人になるためには、英語よりもおススメの言語は日本手話だと考えている。土台がしっかりとできたら、それから、ツールになる英語を学べばいい。
参考文献 ノーラ・エレングロース著 佐野正信訳「みんなが手話で話した島」
 
 
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