悲劇のコメディエンヌを救ったもの
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悲劇のコメディエンヌを救ったもの
記事:中村雪絵(チーム天狼院)
※このお話はフィクションです。
ゆっくり飲みたかった。
なのに何でこんな思いをしなければならないんだろう。
本当、うるさい。
なるべく若い人がいないところで飲もうと思ったのに、こういう古い居酒屋には、テレビがある。
ああ、本当にタイミングが悪い。
飲んで、飲んで、飲みまくっていろいろ忘れようと思っているのに。
「ちょっとー、やめてくださいよう」
「あははははは」
テレビからは不快なバラエティが流れてくる。しかもボリュームがでかい。
はぁぁ。一番来てはいけないところに来てしまった。
「あ、すみません」
「はいよ」
「えっと、テレビ消してもらっていいですか?」
「……あれ? あの……こえみちるさん、ですよね?」
最悪だ。
私は、顎までおろしていたマスクを急いで上げた。
いや、マスクなんかしたってしょうがないんだけれど。
「うわー! やっぱりそうだ! やべえ! テレビとおんなじだ!」
「あ、あの」
「すげえ! サインもらっていいすか?!」
「あ、えっと、今はちょっと……」
「いやー、間近で見るとマジでけー。さすが、こえみちるだわー」
そう言って、店員さんはパンダを見る子供のように目を輝かせた。
私の名前はこえみちる、だ。
「肥満」と書いて「こえみちる」と読む。もちろん芸名である。
職業はお笑いタレントである。
ただただ太っていることをイジられるお仕事だ。
いつもならここで「いや太ってねえわ!」とボケをかますのだが、今日はそんな気力もない。
「あ、なんかすいません」
私の様子を察してか、店員さんは申し訳なさそうにテレビを消した。
「いや、こちらこそすみません。気を遣わせてしまいました」
「いえいえ、そんな! あ、これサービスです! 食べてください!」
テレビに出ているとたいていこうやって恵んでもらえる。
「あの、こえさん、なんか……あったんすか?」
「え」
「いや、元気ないんで大丈夫かなと思って」
私はそれには答えず、ホタルイカの沖漬けを口に入れた。
こんなときでも、ホタルイカはうまい。
「こえさん、なんかあったんすね」
「すみませんがちょっと放っておいてもらっていいですか?」
「そういうわけにもいきませんよ。この世の終わりみたいな顔してるし」
「まぁ、そんなところですよ」
私はぐい、と麦焼酎を呑む。
こんなときでも、麦焼酎はうまい。
「と、いうと?」
この店員、グイグイ来る。
でもここまで喋っておいて理由を言わないのもダサい気がして私は思わず口を滑らせた。
「逃げられたんですよ」
「え? 彼氏さんですか?」
「そう」
「どうして?」
「わかんない。でも帰ったら家財道具一式ありませんでした。とりあえずポテトフライください」
「ポテトフライいっちょーう! え?」
私はまた麦焼酎をぐいとやる。
「どういうことですか?」
店員くんのお誂え向きなリアクションに、ちょっと喋りたくなってしまう。
「ほら、私、テレビ出てるじゃないですか?」
「はい」
「だから結構近づいてくるんですよね、いろんな男が」
「でもそれは、こえさんが魅力的だからじゃないんですか?」
「わかんない。でも信じた途端にだいたい居なくなるんです」
「え、え?」
今まで何人もの男に騙されてきた。
最初は騙すつもりじゃなかった男も居たのだろう。
でも、結果的にはみんな離れていってしまった。
私がデブだからそうなってしまったのだろうか。
……いや、そうじゃない。
太っているだけならばそういう人が好みの人を探せばいい。
問題なのは私が『公共の電波で笑われている女』であり、なおかつそれで儲けてしまっているということだ。しかもかなりの金額を。
「泣かないでください」
店員くんが熱々のおしぼりを出してくれる。
いつのまにか泣いてしまっていた。
「もうやめたいんですよね」
私はぽろり、と言ってしまった。
「え、引退ってことすか?」
店員くんはさらに神妙な面持ちとなる。
「でも今いっぱいテレビ出てるし、すげえ面白いし。男の芸人より体はってるし、代わりがいない存在じゃないですか、こえさんって。」
確かに代わりはあまりいないのかもしれない。
でもそれは『誰もやりたくないポジション』だから、ということでもある。
特に実力が秀でているわけでもない。
ただただ周りがおいしくしてくれているだけだ。
ちょっと前まではそれで良かったのだけれど、
でも、
「でも、愛されないんです」
「ポテトフライいっちょーう!」
絶妙なタイミングでポテトフライが来た。
いや、でも良かった、かき消されて。
「愛されないって、どういうことすか?」
聞こえていたようだ。
「絶対そんなことないと思います!」
「ははは……ありがとうございます」
私はポテトフライをつまみながら、一生懸命慰めてくれる店員くんをぼんやり見つめた。
「あ、でも……本当にしんどいなら、やめるっていうのも手だとは思いますけど」
私もそう思う。
私がやめたところで、芸能界は普通に回っていくのだ。
「うん、そうですね。ごめんなさい、今日はありがとうございました」
「あのっ、ごめんなさい、こえさん、ちょっとだけ待ってもらえますか?」
店員くんが急にそわそわし始めた。
「どうしたんですか?」
「いや! ほんと1分くらいここで待っててもらえますか?」
どうしたんだろう。
なにかお土産でも持ってきてくれるつもりなんだろうか。
しかし、私の予想は外れた。
1分後現れた彼は、裸だった。
大事なところだけ、ジョーロで隠していた。
何が起こったんだ。
「今からぁ、こえさんのためにぃ、誠心誠意、おどりまぁす!」
口調がおかしい。
え、何この人。
しかしそんなことを考える間もなく、音楽が流れ始める。
彼は躊躇なく踊り始めた。
キレッキレだった。
そして真顔だった。
股間のジョーロを振り乱しながらの、堂々たるダンス。
気がついたら私は、腹痛になるほど笑っていた。
「……なんか、急にすいません、どうしてもやりたくなっちゃって」
「あ、芸人さんだったんですね」
「そうなんです、まだ全然売れてないですけど」
「すいません……なんか、やめたいなんて言っちゃって」
「いえ、そんな! だってわかるんです。ほんと、わかるから。僕もこういう芸風なんで、すごくわかるから。だけど」
彼は顔をクシャクシャにしながら泣き始めた。
ジョーロに涙がポタポタ落ちる。
「お笑いって、ほんと面白いから、やめてほしくないです……。こえさん面白いから……」
私も泣いていた。
……初心を忘れていた。
身を挺しての笑いって、こんなにすごいんだ。
「あの、お名前、何ていうんですか?」
「ジョーロ万次郎です」
「うん、じゃあ、万ちゃん! 仕事終わったら飲み行こう!」
「え……はい!」
「とりあえず生ビールちょうだい!」
「生いっちょーう!」
万ちゃんは、ぱあと顔を輝かせた。
私も、また笑ってしまう。
こんなときの生ビールは、最高に、最高にうまい。
***
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