野球部の明美ちゃん《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:関谷 智紀(プロフェッショナル・ゼミ)
※この記事は事実をヒントにしたフィクションです。実在の個人・団体とは一切関係ありません。
日差しが暴力的なまでに照りつけてくる。
吹奏楽部の全員でデザインを考えて揃えた学校名入りの白いTシャツ。背中に青い筆文字でプリントされた「挑戦」の文字は、びしょびしょになって部員の背中にぴったりと張り付いていた。
指揮棒を持った部長が手を上げた。次の応援曲はピンクレディーの「サウスポー」か。
前奏を吹こうと、ヒザに置いていたトランペットを手にする。
そのとき、先端の広がった部分を無意識に触ってしまった。
「熱っ」と思わず声を上げてしまう。やけどしそうだ。
夏の日差しに負けないように、タオルを掛けてトランペットをいたわっていたつもりだったけど、「猛暑日になることは間違いなし」って朝の天気予報でも言っていたもんなぁ。
首に巻いたタオルは私の汗で湿っている。時折、ビルの間から吹いてくる風も熱風のようだ。
2018年7月20日の金曜日、午前11時過ぎ。
立川北高校ブラスバンド部は神宮第二球場の1塁側スタンドにいた。
この日は全国高校野球選手権大会西東京予選の準々決勝だった。
目の前のグラウンドでは、野球部のメンバーがユニフォームを泥だらけにしながら、必死に戦っている。
私たちの学校、都立立川北高校の野球部はこの年、まったくノーマークだった下馬評をことごとく打ち破ってベスト8まで駆け上がっていた。
でも、この日の試合は劣勢だった。1回表にキャプテン、祐輔のタイムリーヒットで2点を先制したものの、その後ピッチャーの恵太が踏ん張ることができず、相手の4番にホームランを打たれたりして逆転されていた。
いま試合は8回の表で2アウト、立川北は2−4で負けているが1塁にはランナーがいる。
グラウンドを見ていた部長がおもむろに振り返り、指揮棒を大きく振る。
そう、ここはチャンスだ。私は肺が焼けるかと思うくらい熱い空気を大きく吸ってから、力一杯トランペットを吹き、フォルテシモでメロディーを繰り出した。
「かっ飛ばせー、たっかっのっ!」
9番バッターの信次は思い切ってバットを振り、カキーンと金属バット特有の快音を残して打球は大きく舞い上がった。
しかし程なくして「ああ〜っ」とスタンドから声が漏れる。白いボールは急に勢いをなくして落下し、相手のセンターが構えていたグラブに収まった。
悔しそうにうなだれながらベンチに戻る信次に、声が掛かる。
「まだまだ大丈夫だよ! たったの2点差。まずは守りから。全部出し尽くして絶対逆転しよう!」
球場にこだましたのは明美ちゃんの高い声だった。
制服姿の明美ちゃんは、ベンチから2mほど飛び出して選手達に声を掛け、右手に握りしめたスコアブックで信次のお尻をたたく。頭には「TK」の文字が入った紺色の野球帽。明美ちゃんは、3年生最後の夏となるこの大会、記録員としてベンチ入りしていた。
2年前、
「なんて日焼けした女の子なんだろう」
入学式の日に、初めて明美ちゃんを見た時そう思った。
教室の席が近かったこともあって、明美ちゃんとはすぐに仲良くなった。
「ねえねえ明美ちゃん、部活どうするの?」
そう聞くと、明美ちゃんは
「じつはもう決めてあるんだ。先生に聞かないと入れるかどうか分からないけどね」と言って、くりっとした大きな目をウインクしてはにかんだ。
金髪がかった髪の色といい、明美ちゃんはまるで南の島から来たお姫様のようだった。
次の日、職員室前の廊下で、明美ちゃんは切羽詰まった表情で社会科の今井先生に必死に頭を下げていた。
「うん、わかった。なんとか聞いてみるわ」と今井先生が頷くと、明美ちゃんは「本当ですかぁ。やったぁ!」と大きな目を丸く見開いて今にも飛び跳ねんばかりに喜んでいた。
その時は、何を今井先生に相談していたのかまったく見当も付かなかったけれど、2週間後、吹奏楽部の練習を終えて下校しようとしたとき、その理由が分かった。
野球部がノック練習をしていた。
「ヘイ! 次ライト行くぞ、しっかり取れよ!」そんな大きな声が校庭中に響く。
部員達に交じって、真っ白なユニフォームを泥だらけにした明美ちゃんが、いた。明美ちゃんは大きく飛んだフライを全力で背走しながら追いかけ、キャッチする。「パシッ」とボールがグラブに収まる乾いた音がする。
すると男の子達から「OK、ナイスプレー」と声が飛ぶ。明美ちゃんは満面の笑みでグラブを高々と掲げた。
そうか、明美ちゃんが言っていた部活って野球部だったんだ……。だからあんな
に日焼けしていたんだ。先生に頭を下げていたのも、きっと前例のない女子の野球部員を認めてもらおうと御願いしていたのだ。今井先生が当時の野球部部長だったということを後で知った。
その日から2年間、髪をばっさりショートにした明美ちゃんは、放課後いつもグラウンドにいた。男の子に交じって、白いユニフォームを泥だらけにして。日焼けした顔からちらっと白い歯が見えるととっても可愛かったっけ。
お昼のお弁当を一緒に広げながら、明美ちゃんに聞いたことがある。
「どうして野球部に入ったの」
すると明美ちゃんは、“よくぞ聞いてくれました”とばかりに身を乗り出して、ほんとうに嬉しそうに話し始める。
7歳の時に学童クラブで男の子に交じって野球を始めた日のこと。
お父さんと毎晩庭でキャッチボールするのがとても楽しかった思い出だということ。
そして、アメリカから日本に留学していたお母さんが、大学時代に野球部だったお父さんに恋して結婚したこと……。
「ホームラン打った時ってねえ、バットにボールが当たる感覚って全然ないんだよ。本当にすうーって感じでボールが飛んでいくの」
「外野が芝生の球場って最高だよ。試合が始まって走って行くと、草の香りがず包んでくれて迎えてくれるんだ。さあ、今日も締まって行くぞー、って気になるよね」
「ホームに返ってきて、ベンチでハイタッチ。これが最高に気分がいいんだぁ」
吹奏楽部のこっちにはまったく分からないけれど、野球のことを話す明美ちゃんは本当に嬉しそうだった。「明美ちゃんって本当に野球が好きなんだね」と言うと、「そう! もう野球以外のことなんて考えられないよ」って間髪入れずに返ってくるくらい、彼女の野球愛は徹底していた。
でも、100年の歴史を誇る日本の高校野球は、甲子園につながるような公式戦の選手登録は『男子生徒のみ』というルールが存在する。
それは明美ちゃんも分かっていたはずだ。それでも男子と一緒に白球を追いたい、一緒に甲子園という目標を追いかけたい、という思いは充分すぎるほど伝わってきた。
ある雨の日、明美ちゃんが教室でひとり机に座り、顔を覆っていたことがある。
「どうしたの?」と声を掛けると明美ちゃんは顔を上げた。泣きはらしたのか、目は真っ赤に腫れていた。
「B組の杏奈に言われた。『アンタ、野球部の祐輔と一緒にいたり、話したいから野球部にいるんでしょ、って。うちの野球部はマネージャーいないから、彼を狙ってるんでしょ、って』。私、そんなつもりじゃないのに……。ただ、野球がしたいだけなのに」
初めて見た明美ちゃんの涙だった。
「大丈夫、私は明美ちゃんが野球大好きなことよく知ってるから。あんなに頑張っているじゃない」
思わずB組の教室にダッシュしていた。友達とだべっている杏奈を見つけると正面に立ち塞がってまくし立てた。
「あんたに明美の何が分かるって言うの! あんなに野球に真剣な子はいないよ。明美に今度変なこと言いふらしたら、私が許さない! 明美は絶対に野球部の救世主になるんだからね」
実際その後、彼女はそうなった。
朝練も絶対にサボらず、自分の練習を全うするかたわら、明美ちゃんは毎週ビデオを片手に有力校の練習試合を視察していた。今井先生とピッチャーの恵太、キャッチャーの義弘と一緒に毎晩遅くまでそのビデオを見ながら激論を交わす。
私立有力校の主力打者の配球を研究して弱点をノートにまとめるのは彼女が率先して進めていた。
その甲斐もあって、この春から立川北高はどんどん力を付け、快進撃を続けるようになった。
この夏、準々決勝に進めたのも絶対に彼女のおかげだ。
記録員の仕事が多くなってユニフォームより制服を着ることの方が多くなったけど、明美ちゃんはやっぱり野球が大好きな明美ちゃんのままだった。
準々決勝の試合は8回裏に入っていた。
恵太は連日130球を超える球数を投げ、体力の限界を迎えているようだった。
相手チームの強力打線に捕まり、フォアボールも与えて2アウトながら満塁のピンチ。点差は2点、これ以上点を取られたらもうガラガラとチームが崩れるのは目に見えていた。
自分たちのチームが守備の時は、ブラスバンドでの応援はできない。
時折、「頑張れー」の声が挙がるなか、タオルをギュッと握りしめて座っているほかなかった。
「タイム願います」グラウンドで声がした。
ベンチから監督の指示を伝えるために「伝令」という選手が飛び出す。その時、私は目を見はった。制服姿の明美ちゃんがベンチから掛け出すと、一塁の白線のところで一礼し、マウンドの恵太の所へ駆け寄った。
球場は少しどよめいた。
明美ちゃんは、恵太はじめナインが集まった輪に加わると、部員達全員の目を見ながら声を掛けていた。そして、輪の中心に向かって右手を突き出した。明美ちゃんの拳の上に、恵太、祐輔、信次、義弘、徹……9人の拳が重なった。
「絶対勝つぞ!」
「オイッス」
明美ちゃんのかけ声に合わせて拳が振り下ろされた。
スタンドから大きな拍手が巻き上がった。
その回、恵太は最後の力を振り絞り、2アウト満塁のピンチをダブルプレーで切り抜けると、1塁側立川北高の応援席は沸きに沸いた。
9回表、立川北の最後の攻撃。
私は、ありったけの思いを込めて、トランペットを吹いた。
「アフリカンシンフォニー」、「ルパン三世のテーマ」「チャンスのテーマ」
少しでも打席に立つ選手に届けとばかりに、吹きに吹いた。
もう熱射病で倒れてもいい、そう思った。
2アウト2.3塁。ヒットが出れば一気に2点が入って同点になるシチュエーション。キャプテン祐輔が打席に立った。
キーン。
乾いた金属音が球場にひびいた。
打球はレフトの後方へ弧を描くように飛んでいく。
一瞬沸き返るスタンド。
吹奏楽部の面々も得点を喜ぶチャントに切り替えようと、楽器を握り直した瞬間だった。
レフトの選手が白球に向けて思い切りジャンプすると、グラブの先っぽにその球を収めた。
その瞬間、立川北高野球部、そして明美ちゃんと私の夏は終わった。
選手達が試合終了の挨拶をしている間、明美ちゃんはスコアブックを大事そうに抱えながら、すっくと背筋を伸ばして立っていた。
顔の近くにキラリと光る何かが見えたようにも思えたけど、スタンドからは遠くて分からなかった。
試合後、父兄や応援団への挨拶を終えた、明美ちゃんが私の方に歩いてきた。
明美ちゃんは、私ににっこり笑いかけたけど、その後すぐに顔をくしゃくしゃにして抱きついてきた。
「まあちゃん、応援ありがとう……」と言ったあと、明美ちゃんのはもう言葉にならなかった。
私も明美ちゃんを抱きしめながらつぶやいた。
「大丈夫、今日のことは絶対に忘れないよ」
「そうだね」
明美ちゃんからは、シャンプーの混じった汗とグラウンドの土のにおいがした。
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