週刊READING LIFE Vol.347

空白の受験番号 《週刊READING LIFE Vol.347「誰にも言わなかった小さな決断」 》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2026/03/12公開

 

 

記事:回復呪文は使えない(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

中学三年の5月。

中間テストが終わって、進路調査の用紙が配られた。

 

机の上の白い紙は、まだ何も書かれていないのに、やけに重たく感じた。

「そろそろ真剣に考えなきゃいけないな」と考える。

 

教室のあちこちで「どこにする?」「やっぱりあそこかな」と声が弾む。

窓の外には、川向うの田園風景が見えている。

田植えを終えたばかりの、まだ淡い緑が風にそよいで揺れていた。

 

「ねぇ。進路、どうするか決めた?」

 

不意に声を掛けられて顔を上げる。

私が好きだった、あの子だった。

 

小学校の頃、よく一緒に遊んだ。私が授業中に作った紙の迷路を、彼女は家に持って帰ってまで遊んでくれた。そんな彼女と話すと、世界の輪郭が少しだけ明るくなる気がした。

 

中学になり、クラスが離れ離れになった。マンモス校だったから、一緒のクラスになる確率は1/13。気が遠くなるような数字だった。

 

中一も中二も、遠いクラス。廊下ですれ違うことすらない。彼女の存在は、いつの間にか「思い出の中の人」になりかけていた。

 

そして、中3になった始業式の日。祈るような気持ちで見上げたクラス表。一緒のクラスに、あの子の名前があった。こんなにうれしかったことは、その後の人生でもなかなか無い。

 

「高校、かぁ」

 

私は少し言いよどんだ。私は、学力でちょっと高望みになるが、J高校に行きたいと思っていた。模試の判定は悪くない。けれど問題は、内申点だった。

私は普段の行いがあまり良くなかった。提出物を忘れる。プリントをなくす。先生の目は、そういうところを見ている。テストの点数より、内申が低い。目に見えないところで負けている。そういうタイプだった。

 

「H高校……、かな……」

 

口から出たのは、J高校よりワンランク下の高校だった。

内申点が足りないのは同じ。でも、絶望的ではない。ギリギリ、手の届く高さ。

 

言った瞬間、心臓が少し遅れてドクンと鳴った。

いまのは、逃げだったのか。妥協だったのか。いや、正直に言えば、彼女の反応を見たかったのかもしれない。

 

「え? ほんと!? 一緒じゃん!」

 

彼女が笑った。

誰にも言わなかった一つ目の小さな決断。

その瞬間、紙の上の進路が、ただの進学先じゃなくなった。

 

「一緒に行こうね!」

 

そう言って、彼女は廊下へ走っていった。

私は返事をするタイミングを失い、しばらくその背中を見送っていた。

こうして、私の第一志望は決まった。

誰にも相談しない、誰にも言わないまま。

 

そして、第一志望を決めたことで、次なる決断をしなければならなくなった。

 

私は、内申点が足りない。なにしろ、圧倒的に足りない。この問題を解決できなければ、あの子と同じH高校には行けない。

正常な思考回路であれば「よし、猛勉強しよう」となるところだが、私はあの子から声をかけられたことで舞い上がっていた。「確実にH高校に行きたい!」という思いが強くなり過ぎたのかもしれない。

 

普段の行いが悪すぎる私にとって、今から勉強で挽回するのは効率が悪すぎる。

だから、戦略を考えた。

一つだけ、裏技のような方法があった。その案を採用すれば、勉強を捨てる代わりに、肉体的な地獄を見ることになる。

二つ目の誰にも言わなかった小さな決断。

その決断を下すかどうかが迫られていた。

 

2学期。

「各高校のパンフレットを進路室で配布する」というアナウンスがあった。進路室は結構遠い。もう第一志望は決まってるんだから、取りに行くのも面倒だな、と思った。

 

昼休み。パンフレットの事などすっかり忘れて教室で友達と話し込んでいると、あの子が教室に駆けこんできた。そのまままっすぐ私の元に来る。

 

「はい。パンフレット、一緒に持ってきてあげた」

 

「あ……、ありがとう……」

 

思いがけなかった。うれしさも、照れくささも、プラスの感情が一斉に湧き上がってくる。また脳がビジー状態だ。動作が鈍っている私をちらっと見て、あの子は再び駆け去っていった。少し照れくさくて窓の外を見た。

 

9月はまだ夏の空だ。川向うの田んぼは、太陽に照り付けられて人影もない。

 

絶対にH高校に行こう。

 

私は決意を新たにした。もうすぐ体育祭。内申点を上げるためには、体育祭にすべてを賭けるしかない。3年生1学期の内申点は、さらに下がってしまった。やはり、もう正攻法は通用しない。

 

体育祭、私は1500mに出場することが決まっていた。私は陸上部員では無かった。しかし、ここで並み居る陸上部員を押さえて勝つ必要があった。内申点のために。あの子のために。

 

その日から、狂気のトレーニングが始まった。

毎日、あえて家を出る時間を遅らせた。母に怒られながら、時間ギリギリまで家で粘った。そして、家を飛び出て学校まで走った。一歩間違えば遅刻だ。荷物を背負って、毎日。毎日。あの坂、この坂。そして学校直前の急こう配。ペース配分を間違えば歩いてしまう。でも遅刻というリスクを賭ければ、それはただの通学ではなく「命懸けのトレーニング」になる。何しろ必死だ。私は死ぬ気で走った。

 

結果として、数回やってしまった遅刻が内申点に悪影響を及ぼしたかどうか、今となってはもう分からない。

 

体育祭。

1500mの号砲が鳴る。私が飛び出す。先頭だ。

出場選手の中には、県大会で優勝しちゃうようなヤツがいる。でもそんなこと関係ない。ここで勝たなければ、あの子と一緒にH高校に行けないのだ。

無我夢中で走った。途中で県優勝の彼に抜かれた。

「いっとけーーーーー!」 心の中で叫ぶ。

迷いはない。ただひたすら食らいついた。

 

半分を過ぎた。目の前が白くなってきた。耳が、とても遠くなった。着地するたび「ぼわんぼわん」鳴る。応援の声も聞こえない。そして、膝から下に力が入らなくなった。夢の中で走っているみたいだ。これは、明らかに体がヤバい……。

 

「ひょっとしたら棄権するレベルかも知れない」

 

そんなことが頭を過る。でも、そんなことしたら、あの子と一緒にH高校に行けないのだ。

気合いと根性で誰にも負けてはいけない!

膝下に力は入らないが、バランスさえ取れれば……。

転ばずにゴールまでたどり着ければ……。

とにかくやるしかない!

 

どこをどう走ったか。なんとかゴールにたどり着いた。

2位だった。

ゴールラインを越えると、私は膝から地面に突っ込み、そのまま倒れこんだ。数分後、全員がゴールするまで、私は同じ場所で倒れこんだままだった。

レースは終わり、退場しなければならない。いや、退場したいのだが、どうにも足に力が入らない。立てない。

なんとかがんばって、バランスだけ取り、立ち上がって、よろけながら校舎脇の水道まで行く。

頭から水場に突っ込んだ。何とか蛇口をひねって頭から水をかぶった。そして盛大に嘔吐した。

 

先生に見つかったのは、しばらく経ってからだ。

私はそのまま保健室に運ばれ、以後の行事はすべて欠場した。

 

「すべてはうまく行った」

ベッドの上で、私は不思議なくらい満たされていた。

 

翌日。陸上部の顧問の先生に呼び出された。

 

「これこれ、これですよ。私が待っていたのは!」

 

計画通り、駅伝部へのスカウトだ。私の通う中学校は駅伝に異常なほど力を入れており、全校体制で取り組んでいた。陸上部以外から声がかかることは稀だが、体育祭で好成績を残せば「駅伝部」にスカウトされるのだ。

駅伝部に入れば、地獄のような練習と引き換えに、内申点の上積みがもらえる。

 

これで、あの子と一緒にH高校に行ける! 私の目は希望で輝いた。

 

駅伝部の練習が始まった。私は、うちの中学校が強いとは聞いていたが、全国大会出場の最有力候補だとは知らなかった。とんでもない所に来てしまったのかもしれない。でも、ここでがんばればがんばるほど内申点をくれるかもしれない。あの子と一緒にH高校に行くためには頑張る以外の選択肢はない。

 

私は明らかにハングリー精神旺盛だった。きつくても心が折れなかった。いざというときの補欠要員として私は招集されていたはずだった。しかし、すぐにAチーム(レギュラー)に昇格した。来る日も来る日も走った。練習はきつかった。

 

ある日の練習前、急にとんでもなく膝が痛くなった。「今日はこれで休める」と思った。顧問の先生が来て、「ああ、これか」という。救急セットからテーピングを取り出すと、手際よく私の脚に巻いてくれた。

「これで大丈夫だ。立ってみろ」

立ってみた。悔しいが、大丈夫だった。私はその日も走った。あの子のために。

 

市内大会は、独走で優勝した。

地区大会は、私が4区でトップに立つと、そのまま逃げ切って優勝した。

そして県大会。ここで優勝すれば北海道で全国大会だったのだが、3位に終わってしまった。こんな大きな舞台で3位なのに、こんなに悔しいものなのかと不思議な気持ちになった。

 

大会が終わってしばらくして、陸上部の顧問の先生に呼ばれた。

 

「J高校に推薦で押し込んでやる」

 

推薦……、は考えてなかったな……。悔しくて忘れていたけど、県3位だもんな。

 

戸惑いが押し寄せる。あの子との約束が無ければ願っても無い話。目の前にぶら下がった大きな獲物。最初行きたかった、あの高根の花のJ高校!

しかし、ここで私は三つ目の誰にも言わなかった小さ……、くはない決断を下す。

 

「私は、H高校と心に決めています。一度決めたことです。H高校に行きます」

 

即決だった。顧問の先生は、「正気か?」という顔をした。少し引き留められた。

それでも、断った。

 

だって、「あの子と一緒にH高校」。それには代えられないっしょ!

あの子がパンフレットを差し出した時の、手と手が触れそうになったあの温度が、まだ残っている気がした。

 

12月。

駅伝の日々は夢みたいに遠ざかり、受験が近づいた。川向こうの田んぼはすっかり茶色い地面だけになっていた。

 

「ねぇ、面接の練習、やってる? 帰りに一緒にやろうよ」

 

そんな会話が増えていった。

 

受験が終わったら、告白しよう。

いや、今すぐでもいい。でも、受験の邪魔になったら嫌だ。

私はずっと、先延ばしにした。

 

窓の外の空はすっかり日が短くなり、川向うの田んぼに夕日が赤く落ちていくところだった。

 

 2月。推薦入試。

私も彼女も、不合格だった。

「一緒に帰ろ?」

そう言われて帰った。いつもの帰り道。いつもの並木道。

なのに、色が薄く、音が少し遠かった。

 

 3月。一般入試。

受験番号は一つ違い。彼女は後ろの席だった。時々、咳をしていた。鼻もかんでいた。

「大丈夫?」

「ちょっと風邪ひいただけ。大丈夫だよ」

彼女はそう言って笑った。

その笑顔が、やけに頼もしく見えた。

 

合格発表の日。

H高校の中庭に掲示板が立っていた。人だかりの中をかき分けて、自分の番号を探す。

 

あった。

 

息を吐いた。

次に、視線が勝手に動く。受験番号が一つ後ろの、彼女の番号。

 

——ない。

 

番号が一つ空いて、その次があった。

空白が、あまりにも大きく見えた。

 

合格したのに、足元が崩れそうだった。

世界が一段、暗くなった気がした。

 

肩を、ポンと叩かれた。

 

振り向くと、彼女だった。

「おめでとう」

 

精一杯の笑顔だった。

私は「ありがとう」も「ごめん」も言えなかった。

声が、喉から出てくれなかった。

 

「じゃあ……、私、行くね」

 

彼女はゆっくり去っていった。

私はその場に固まったまま、動けなかった。

 

叫んで走り出したい衝動が、胸の内側で暴れていた。

「わーーーーー!!」

でも、声は出なかった。

 

「不合格の人よりも暗い顔で歩いてるんだろうな」

そんなことを思いながら、家まで歩いて帰った。

 

 4月。

H高校の生活が始まった。

「自分だけ受かっても、意味ないじゃん」

そんな言葉が何度も頭をよぎった。

 

家でも、愚痴をこぼした。

「高校、間違えたかもしれない」

未来が暗く見えて、何も手につかなかった。

 

だけど、ある時ふと思い出したセリフがある。

手元にないからうろ覚えだけれど、たしかこうだ。

 

「間違って買ったクソゲーを、学校で毎日毎日不満を言うようになったら、それはもうハマる寸前だ」

 

不満を言うほど、その世界を見ている。

見ているほど、やれることが増える。

やれることが増えるほど、運命は少しずつこちらの手に戻ってくる。

 

私は陸上部に入った。

 

入部した翌日が大会だった。新1年生は競技場に午前2時に集合だった。

 

「正気か?」と思いながら嫌々行ってみた。相手が誰だかわからないけど、とにかく誰かと話した。見えないから、昨日初めて会ったヤツでも構えず話すことができた。楽しい仲間が一気に増えた。

もっとも、部員の中で一人交通検問のお巡りさんに補導されたようで、大問題化。翌年からはこの風習は廃止となってしまった。

 

結局そこからは、毎日部活をしに行くような毎日。教科書を全部忘れて部活の用意だけ持って学校に行ったこともあった。

 

中学の駅伝部は強制的に「テスト週間無し」だったが、高校の陸上部では自主的に「テスト週間無し」で練習していた。仲間を誘って。母には「高校にはテスト週間なんて無いんだよ?」といったら、まんまと騙されていた。H高校って、母の母校でもあるはずなのだが……?

 

結局、ここで思うのは、「間違えたかな?」って思っても、「選んだあとで正解に変えれば百発百中」だってことだ。

 

今の私は、「そんなことってある?」という展開で、ある日突然妻の実家のお寺を継がなければならなくなった僧侶見習いだ。

 

そして、住職の資格を取るため、大学の通信制仏教学部で仏教を学んでいる。「仏教って、人生でいかほど役に立つ?」といつもぶつくさ言っていた。

 

でも——不満を言っている時ほど、実はその運命(クソゲー)にハマる兆候なのかもしれない。

 

今では、大学の仏教学部で参考文献まで買い揃え、

『欲を実現させるために欲を捨てられるか? 〜仏教と投資における意思決定〜』

なんていう卒論テーマを掲げて、前のめりで張り切っている。

 

だから私はこれからも、誰にも言わない小さな決断を下すだろう。

そして「こんなはずじゃなかった」と文句を言いながら、

「行っちゃえ」と飛び込んだその道を、全力で正解に変えていくのだ。

 

 

ちなみに、先日両親にこの三つの決断の話をした。さすがにもう時効だろう。しかし、二人とも椅子から転げ落ちんばかりに驚き、呆れ、怒っていた。たまには相談することも必要かもしれない。

 

 

 

 

 

【ライターズプロフィール】

回復呪文は使えない(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

「そんなことってある?」という展開で、ある日突然妻の実家のお寺を継がなければならなくなった僧侶見習い。髪はまだある。本業は財務コンサルタントと金融投資業。煩悩の象徴、お金を扱う本業と、煩悩を断つ使命を帯びた僧侶の両立に悩む。

 

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2026-03-12 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.347

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