週刊READING LIFE vol.85

難解小説には、他人が淹れたコーヒーを。《週刊READING LIFE Vol.85 ちょっと変わった読書の作法》


記事:佐和田 彩子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
まいった。本当に、まいってしまった。
眼の前にある看板は、どうみても『close』と書かれている。
いつもなら開いているはずなのに。
扉を開けなくても滲み出てくるはずのコーヒーの香りは、どんなに待っても鼻を擽らない。
数ヶ月前はこんなことはなかったはずなのに。どうしてこうなってしまったのだろう?
やっとこの店の営業日と私の休みが交差する日ができたはずなのに。新しく買った小説を持って通う憩いの場への扉は、硬く閉ざされていた。
全世界に蔓延する、コロナウイルスは、私の心のオアシスを枯らしてしまったのだ。

 

 

 

自分で言うのもなんだが、私はとてつもなく難儀な性格をしている。
授業やイベントは生で観ないと、ちゃんと身につかない。
文章を書くときは、お供に砂糖をふんだんに入れたコーヒーでないといけない。
寝るときは、真っ暗ではかえって目が冴えてしまう。
子供染みていると自分でも思うが、どうしても外せない習慣は多い。
その中の一つに、こんなものがある。
小説を読むときは、他人が淹れたコーヒーがお供。酒が入っていれば尚良し。
ここで、一番大事なのは『コーヒー』ではない。『他人が淹れた』の部分だ。
自分でちゃんと淹れることは可能だ。だが、ペーパードリッパーから豆を取り出して生ゴミと一緒にするとき、なぜか小説を読むのに必要な何かも一緒に放り出してしまうのだ。本棚には目次すらめくっていない小説がひしめき合っている。読もう、と思って家に招き入れたはずなのに、私が手に取るのは漫画や雑誌、専門書のみ。
何度か気合を入れて小説の表紙に手をかけてはいるのだが、いつの間にか手の中が活字だけで埋まったページから、絵が主体のページへチェンジしているのだ。
家にある漫画はどれも目を通したものばかりなのに、小説は一向に積み上がったまま。
これではいけない、と文庫本を会社へ連れ出してみたのだが。
揺れる電車の中では吐き気を誘うので開けられない。
休憩中はお局さまの井戸端会議へ強制参加なので開けられない。
仕事中はもちろん論外。
結局、連れ回しただけで、表紙だけがボロボロになるだけだった。
私は、小説を読めないのだろうか?
そう落ち込んでいた私に転機が訪れたのは、偶然だった。

 

 

 

家の近くにあるはずのドラッグストアが見つからない。
いつもなら間違えるはずのない道だったのに、どういう訳か迷ってしまった。
スマホのGPSを起動させる。どうやら一本横に逸れてしまったらしい。
散歩がてらの買い物だ、寄り道だって悪くはない。
どうせなら、と進んだその先に、その店はあった。
絵本から出てきたような緑の扉。それをはめ込んだ漆喰の壁が道路に面している。脇に小さく切り取られた窓には、真っ白なレースのカーテンと小さな写真立てが置いてある。
よく見ると、写真立てには『今月のスケジュール』と書かれたカレンダーが貼ってある。どうやら日付に赤い丸が付いているのが開店日らしい。今日の日付を確認すると、真っ赤な円があった。さらによく見てみると赤い丸が付いている日の方が、付いてない日より少ない。
開店より閉店の方が多い店、なのだろうか?
訝しげながらドアを開ける。
真っ白な外見とは裏腹に、内部は茶色で染め上がっていた。
床も、壁も、机も、椅子も、カウンターも、全て木でできている。
オレンジ色がかった照明が目に優しいし、鼻をくすぐるコーヒーの香りも心地良い。
「いらっしゃいませ」
ほんのりウェーブのついた黒髪の女性がカウンター越しに声をかけてきた。生成りのエプロンも店内によく合っている。
私は、勧められるままに窓辺に設置された長細い机の席に着く。壁にぴったりとくっついたそれは、木の年輪がはっきり見える。一枚板でできているのだろう。座り心地のいい椅子に体を預ける。目の前には、小さく切り取られた四角い窓。その奥に、午後三時の日光を思い切り浴びる新緑が見えた。
ウェーブの女性が、メニューと水を運んできた。彼女が店長なのだろうか?
水だけがなみなみと入っているコップに氷は全くない。だが、ガラスが水の部分だけほんのり露結している。指で触れるとすぐに消える露が心地良い。メニューはバインダーに留まった一枚の紙。そこにはドリンクだけがゆったりと書かれていた。
「ケーキは、こちらをどうぞ」
店長らしき女性が指す方へ目を向けると、カウンターの上にA4サイズの黒板が置いてある。そこには二つ、ケーキの名前が書いてある。どうやら、食べ物は日替わりのケーキしかないようだ。私はちょっと悩んでからラム酒入りカフェラテとラムレーズンケーキを注文する。
店内に似合う笑顔を見送って、窓の外を眺める。初夏の日差しは暑そうだが、空調の効いた店内には無関係だ。茶色の枠に収まった眩しい緑がまるで絵画のようだ。
聞こえてくるBGMは海外のものだろうか? 歌詞のないゆっくりとした曲に耳を傾ける。
少し酷使した足を伸ばしていると、早速注文の品が届く。
カップは真っ白な泡で中が見えない。この下に、ミルクで柔らかな色へ染まったコーヒーが入っているのだろう。緩くホイップした生クリームが添えられたパウンドケーキの切り口には、レーズンがちらほら顔を覗かせている。
カップに口を付けると、少し熱めのコーヒーが流れ込む。
香ばしい香りと一緒に濃厚なラム酒の香りが鼻を抜け、喉に酒気がわずかなちょっかいをかける。ミルクでまろやかになっているはずなのに、隠れているわずかなアルコールが心地良い。
生クリームを乗せたケーキは噛むたびにレーズンが歯に当たり、甘くてほんのり苦いラム酒がじわりと染み出してくる。
 
美味しい! こんな店が家の近くにあったなんて!
 
もう一口、もう一口が止められない。だけど、欲望のままにがっつけば、空の器を見た喪失感に襲われるだろう。お代わりをしたくても、生憎、財布にはこれ以上の注文ができる余裕はない。
仕方ない。何かで気を紛らわせよう。
おいしいものはゆっくり食べると、さらにおいしい。死んだ祖母が、そう言っていたはずだ。
スマホは位置特定のGPSでかなりの電池を喰ったのか、残量が心許ない。携帯バッテリーはお留守番。僅かな電池を無駄にするわけにはいかない。
他に気が紛れるもの、と探すと、通勤電車で一緒にもみくちゃになった小説が転がり落ちてきた。
大正時代に興味があって買ったこの小説は、まだ数ページしか進んでいない。キャラクターと時代背景を重んじた素晴らしい作品、という触れ込みに釣られて買ったのだが、現代では用いない表現や用語のオンパレードでストーリーを追いかけることができなかったのだ。再チャレンジしてみようか?
どこか懐かしい感じのする店内と、美味しいコーヒーとケーキでゆるんだ頭なら、多少の引っ掛かりをすっ飛ばして読めるかもしれない。
せっかく買った小説なのだ。読破、は難しくても、せめて第一章は読み解きたい。
私は、もう一度、表紙をゆっくりめくった。

 

 

 

「すいません、閉店です」
いきなりかかった声に私はびっくりした。閉店?
「あ!」
慌てて、活字から目を離す。声をかけられた方を向くと、申し訳なさそうな顔で店長らしき女性がこちらを見ていた。
そうだった! ここ、家じゃない。カフェだった!
私はすぐに謝りながら机の上を見る。
カフェオレも、ケーキもまだ半分以上残っている。カップの中身はすでに冷め切っていたし、生クリームの山がちょっとへたっていたが、おいしさは健在。惜しみながら食べきる。
鼻に抜けるラムの香りが疲れた頭と目に優しい。
ふと、小説に挟んだしおりを見る。
「あれ?」
私は、目を疑った。
半分、いや、三分の二、読破してるじゃないか!
頭の中で読んだ内容を思い出す。すると、全く分からない時代風景で苦戦していたはずなのに、ストーリーをちゃんと理解できていることに気が付いた。
私、ちゃんとここまで読めたんだ!
全く読んだことのないジャンルだけど、読めたんだ!
「ありがとうございます! おいしかったです!」
代金を支払うときに投げつけたお礼の音量がいつもより大きくなってしまったのは仕方ないだろう。
クスクスと笑われながら見送られるのは、ちょっとこそばゆい感じがした。

 

 

 

その後、読めなかったり、途中で止まってしまった小説を持ち込んでは、彼女がふるまうケーキとコーヒーと一緒に堪能した。
何度も通う内に、店長らしき女性が、本当に店長だということを知った。
そして、この店は彼女の家の蔵をリノベーションしたものだということも。
日常から少し遮断された空間で、文字と甘未、両方堪能する幸せ。
そして、読めなかった文章を制覇できた達成感。
その二つが心地よくて、また私は本を持って扉をくぐる。
コロナウイルスが世界を征服するまでは。
もう、お店はしないのだろうか?
個人で、自分ができるペースで開いている、と彼女は言っていた。
今は緊急事態の真っただ中。誰にも余裕がないのは分かり切っている。
だけど、もう一度、おいしいコーヒーを飲みたい。
もう一度、おいしいケーキを食べたい。
そして、それのお供に、小説を読みたい。
だから私は、性懲りもなくあの店へ通う。
例え、開いてなくても、窓辺に置かれた写真立てがある。毎度訪れる度に違うメッセージが書かれているそれは、店長と私をつなぐたった一本の線。
今日は、何が書いてあるのだろう。そっと覗いてみる。
そこには、こう書かれていた。
『7月再開します。ご不便をかけますが、よろしくお願いします』
「こちらこそよろしくお願いします!」
うれしくて、つい、大声をあげてしまった。
あの味と雰囲気、そして感動を体験できる日は、もう遠くない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
佐和田 彩子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

埼玉県生まれ
科学、サブカルチャーとアニメをこよなく愛する一般人。
科学と薬学が特に好きで、趣味が高じてその道に就いている。
趣味である薬学の認知度を上げようと日々奮闘中。

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2020-06-29 | Posted in 週刊READING LIFE vol.85

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