暗闇に灯った小さな光──「君のおかげで、もう少し生きてみようと思う」その一言が、私を救った《週刊READING LIFE Vol,319「私はこの仕事で救われた」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/8/14/公開
記事:内山遼太(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
仕事が、ただ”こなすもの”になってしまっていた頃。心だけが疲弊していく日々に、出口が見えなかった。
毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ場所で同じような作業を繰り返す。それは確かに必要な仕事だった。でも、なぜか心が空っぽになっていく感覚があった。「私は何のために働いているのだろう」「誰かの役に立っているのだろうか」そんな疑問ばかりが頭をよぎった。
そんなとき、ある患者さんの言葉が私の心を照らした。
──「君のおかげで、もう少し生きてみようと思う」
それは、暗闇の中にふいに灯った小さな光だった。
医療従事者として働き始めて数年が経った頃、私は深い迷いの中にいた。学生時代に抱いていた理想と、現実の仕事の間には大きなギャップがあった。
最初は「人の役に立ちたい」「誰かを救いたい」という純粋な気持ちでこの職業を選んだ。しかし、実際の現場では、目の前の業務をこなすことで精一杯だった。患者さんとのコミュニケーションも、決められた時間内での効率的な対応が求められる。一人ひとりとじっくり向き合う時間はほとんどなかった。
同期の友人たちは、それぞれの職場で成果を上げていた。営業の友人は売上目標を達成し、エンジニアの友人は開発したサービスが多くの人に使われている。彼らの話を聞くたび、自分の仕事の成果の見えにくさに落ち込んだ。
「今日も何人かの患者さんと接した。でも、本当に役に立てたのだろうか」
そんな自問自答を繰り返していた。感謝の言葉をいただくこともあったが、それ以上に「もっと何かできたのではないか」という後悔が心に残ることが多かった。
職場の同僚たちは皆、プロフェッショナルとして責任感を持って仕事をしている。でも、私だけが取り残されているような感覚があった。転職を考えたこともあったが、「今辞めるのは逃げることになるのではないか」「中途半端に辞めてしまって良いのか」という思いが胸をよぎった。
そんな状況で、私は仕事に対する情熱を失いかけていた。毎日がただ過ぎていく時間のように感じられ、自分の存在意義さえ疑うようになっていた。
ある秋の日、私は新しい患者さんの担当になった。田中さん(仮名)は60代後半の男性で、病気の影響で身体機能が低下し、リハビリテーションが必要な状態だった。
初めてお会いしたとき、田中さんは窓の外をぼんやりと眺めていた。挨拶をしても、短い返事が返ってくるだけ。表情は硬く、目には諦めのような色が浮かんでいた。
「もう何をやっても無駄だよ」
田中さんは、会話の端々でそう繰り返した。リハビリの説明をしても、「やる意味がない」「どうせ治らない」という言葉が返ってくる。
スタッフルームでは、田中さんについて話し合うことが多かった。「やる気を出してもらうにはどうしたらいいか」「モチベーションを上げる方法はないか」。皆が一生懸命に考えていたが、有効な手立てが見つからずにいた。
しかし、なぜか私は田中さんのことが気になった。彼の言葉の奥に、何か別の感情が隠れているような気がしたのだ。諦めているように見えて、実は助けを求めているのではないか。そんな直感があった。
田中さんの家族の話を聞くと、彼は長年会社員として働き、定年後は趣味の園芸を楽しんでいたという。しかし、病気になってからは、「家族に迷惑をかけている」「もう価値のない人間だ」と言うようになったそうだ。
私は田中さんと真剣に向き合ってみたいと思った。たとえ時間がかかっても、彼の心に届く何かを見つけたかった。
田中さんとの関わりは、まさに手探りの日々だった。毎日少しずつでも接点を持とうと、私は彼の部屋を訪れた。
最初の数日間は、会話が続かなかった。私が話しかけても、田中さんは素っ気ない返事をするか、無言で過ごすことが多かった。リハビリの提案をしても、「やりたくない」「疲れる」と断られることがほとんどだった。
それでも、私は諦めなかった。田中さんの好きだった園芸の話を持ち出してみた。最初は反応が薄かったが、あるとき、私が「この花の名前がわからなくて」と写真を見せると、田中さんの目が少し輝いた。
「これはコスモスだね。今頃が見頃だ」
それは、田中さんが自然な表情で話してくれた最初の瞬間だった。
その日から、私は小さな変化を見つけることを心がけた。田中さんが手を動かしてくれたとき、「今日は調子が良さそうですね」と声をかけた。すると、彼は小さく頷いた。
ある日、簡単な手の運動をお願いすると、田中さんは最初は嫌そうな顔をしていたが、途中で「こんなことができるんだな」と小さくつぶやいた。そして、ほんの少しだけ、笑顔を見せてくれた。
「できた」
その一言は、私にとって大きな喜びだった。田中さんの顔に、久しぶりに満足そうな表情が浮かんだ。
それから、田中さんは少しずつ変わっていった。私が部屋を訪れると、「今日も来てくれたのか」と言ってくれるようになった。その声には、以前のような冷たさがなく、どこかほっとしたような温かみが感じられた。
田中さんと出会って約一ヶ月が経った、ある夕方のことだった。その日のリハビリを終えて、私が帰り支度をしていると、田中さんが静かに声をかけてきた。
「君に話したいことがある」
いつもより真剣な表情の田中さんに、私は椅子に座り直した。
「実は、ここに来る前、もう生きていたくないと思っていた」
田中さんは、窓の外を見つめながら話し始めた。
「病気になって、家族に迷惑をかけて、自分では何もできなくなって。もう価値のない人間だと思っていた。毎日が苦痛で、早く楽になりたいと思っていた」
私は黙って聞いていた。
「でも、君が毎日来てくれて、一緒に花の話をして、手が動くようになったとき『できた』と言ってくれた。そのとき、久しぶりに生きている実感があった」
田中さんは、私の方を振り返った。
「君のおかげで、もう少し生きてみようと思う」
その瞬間、私の心は大きく震えた。予想もしていなかった言葉だった。目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになった。
私はこの仕事で救われた。それは、暗闇の中で、かすかな灯りがふいに灯ったような出来事だった。なぜなら、「死にたい」と繰り返していた患者さんが、「君のおかげでもう少し生きてみようと思う」と言ってくれたからだ。
「田中さん、そんなふうに言っていただけて、本当に嬉しいです」
私は、精一杯の感謝の気持ちを込めて答えた。
「私こそ、田中さんから大切なことを教えてもらいました。毎日お会いできて、本当に良かったです」
田中さんは、初めて見る穏やかな笑顔を浮かべた。
その日の帰り道、私は自分の仕事について改めて考えた。大きな成果や劇的な変化ではなく、こんな小さな瞬間にこそ、本当の意味があるのではないか。田中さんの「もう少し生きてみよう」という言葉が、私自身の「もう少し頑張ってみよう」という気持ちを呼び起こしてくれた。
私は報われた、というより、存在が肯定されたような気がした。迷いや不安で揺れていた心が、やっと落ち着く場所を見つけたような感覚だった。
あの日から、私の仕事観は大きく変わった。
以前は、目に見える成果や数字で測れる結果ばかりを追い求めていた。「もっと多くの人を助けたい」「もっと劇的な回復を支援したい」。そんな大きな目標ばかりに目を向けていた。
しかし、田中さんとの出会いを通じて、「目の前の一人」の存在の大きさを実感した。一人の患者さんの小さな変化、わずかな笑顔、短い言葉。そこにこそ、本当の価値があるのではないかと思うようになった。
田中さんの「もう少し生きてみよう」という言葉は、私にとって宝物になった。それは、私自身の「もう少し頑張ってみよう」という気持ちを支えてくれる言葉でもあった。
仕事に迷いを感じたとき、私は田中さんのことを思い出す。彼が初めて笑顔を見せてくれたとき、「できた」と言ってくれたとき、そして最後に感謝の言葉をくれたとき。それらの瞬間が、私の心を温かくしてくれる。
私は、「この人の『もう少し』を支える」ことが、自分の使命だと思うようになった。それは同時に、自分自身の「もう少し生きてみよう」を肯定する行為でもあった。
毎日の仕事の中で、小さな変化を見つけることが楽しくなった。患者さんが少しでも前向きな言葉を口にしてくれたとき、わずかでも身体機能が改善したとき、そんな瞬間を大切にするようになった。
田中さんのその後の回復は、決して劇的なものではなかった。でも、彼は毎日を大切に過ごしているようだった。退院の日、田中さんは私に言った。
「君と出会えて良かった。これからも、誰かの『もう少し』を支えてあげてください」
今、もし仕事に意味を感じられずに悩んでいる人がいるなら、私はその人に伝えたい。
成果が見えないとき、努力が報われないと感じるとき、自分の存在価値を疑ってしまうとき。そんなときこそ、目の前の小さな変化に目を向けてほしい。
あなたの何気ない一言が、誰かの心を支えているかもしれない。あなたの存在そのものが、誰かの希望になっているかもしれない。
私は田中さんから、人生の大切な教訓をもらった。それは、「生きる意味は、大きな成果や劇的な変化の中にあるのではなく、日々の小さな瞬間の積み重ねの中にある」ということだった。
今日という日を「もう少し」頑張ってみよう。明日という日を「もう少し」楽しみにしてみよう。そんな小さな「もう少し」の積み重ねが、人生を豊かにしてくれる。
あのときの田中さんの言葉が、今も私の背中を押してくれる。今日もまた誰かの「もう少し」のために、私はここにいる。
そして、この文章を読んでくれているあなたにも、きっと誰かの「もう少し」を支える力がある。それを信じて、今日という日を大切に過ごしてほしい。
❏ライターズプロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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