人生を変える割烹

おふたりめ 自己破産寸前、妻と3人の子持ちパパ、ヤマオカ《 小説連載「人生を変える割烹」》


記事:ギール里映(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 

「もう少しワインをお召し上がりになりますか、ヤマオカ様」
 
そういってソムリエは、秘蔵のワインリストを差し出した。
白金台にある小じんまりしたフレンチレストランは、ヤマオカが初めて妻をデートに誘った思い出の場所だ。心地いい距離感のサービスが気に入っていて、折りに触れ妻と訪れるのが習慣になっていた。
 
「ありがとう、頂くよ。そうだね、ランシュ・バージュの2000年があるじゃないか。これを頂こう。これに合うチーズは、そうだね、ブリー・ド・モーだな。ブリーと、ミモレットも少し切ってもらえるかな」
 
ヤマオカは妻の顔を見てにこりとはにかみながら、お気に入りの赤ワインと、それに合うチーズを注文した。無類のワイン好きである夫を、少し困った顔をしながら見つめてはいるものの、妻の目は優しかった。
 
「あなた、本当に好きよね。ワイン。またこんな風に2人で飲める日がくるなんて、ウソみたい」
「本当に、そうだよね。5年前のあのころは、まさかこんな日が戻ってくるなんて夢にも思っていなかったね……」

 

 

 

ヤマオカは、メガバンクに勤める銀行員だ。個人資産の運用から法人営業までを幅広く経験し、現在は融資課長として企業の資金コンサルティングを行っている。金融関係の資格も多く持ち、何億、ときには何百億もの資金を扱うお金のプロだ。
 
しかしその経歴は、ヤマオカの未来を約束するものではなかった。
 
ある日のランチタイムに同僚とラーメンを啜っていたときのこと、テレビで流れてきたニュースに、2人は釘付けになった。
 
「おい、ヤマオカ、ライブドアの株価が急落したぞ。証券取引法違反らしい」
 
「それ、本当か?!」
「ああ、ニュースで言ってるんだぞ、本当に決まってるじゃないか」
 
「うわ、俺の人生は、もう終わった……」
 
ヤマオカはニュースを見ながら凍りついた。2006年1月16日、ライブドア・ショックだ。
 
当時株の取引でえらく儲けていた友人を横目に見ながら、これなら俺でも楽に儲けることができると考え、株を買い漁っていたのだ。なんといっても俺は銀行マン、お金のプロだ、失敗するはずがない、と自信もあったし気楽に考えていた。加えて老後の不安もあり、3人の子どもたちの学費や生活費もばかにならない。ヤマオカにはお金が必要だった。
 
しかしこの事件を境に、ヤマオカは全財産を失ったばかりか、莫大な借金まで背負うことになってしまったのだ。
 
「妻に、なんて話せばいいんだろう……」
 
そもそも株を買うこと自体に反対していた妻サオリの、呆れて怒る顔が目に浮かぶ。食べていたラーメンはすっかり冷めて伸びてしまっていたが、もはやヤマオカはその味などさっぱりわからなくなっていた。

 

 

 

案の定、妻のサオリは真っ青になり、唇を震わせて言った。
 
「どういうこと? 全財産を失ったって? まだ子どもも小さいのに、一体どうするのよ?」
 
「いや、本当に、すまない。とにかく、不幸中の幸いでまだ仕事は失ってはいない、銀行マンとしての給料は入ってくるから」
 
「でも、一体どうするつもり? そんな膨大な借金、どうやって返すの?」
 
「こうなったら、恥も外聞もない、とりあえず、僕の両親やきみの両親から、借りられるだけ借りよう」
 
お金のプロだというのに、まず思い浮かんだ解決策がこれしかなかったというのも情けない。しかし、銀行マンと言えどもサラリーマンである。どの袖を振ってもお給料以外の収入などは入ってくるアテはない。できることといえば、お金があるところから借りてくることと、出るお金を減らすこと。そこからヤマオカ家は文字通り、爪に火をともすような生活が始まった。

 

 

 

「すみません、今日のお迎え、少し遅れるので、延長保育をお願いします」
 
ヤマオカの妻サオリは、スマホを片手にパソコンの電源を落として机を片付けはじめた。今日は珍しく仕事が長引いてしまった。派遣社員として半導体メーカーの事務員として働いているものの、半導体にはまったく興味がない。派遣社員としての時給がよかったことと、家から通いやすい場所だったことから、一番下の子が2歳になったタイミングで働き始めた。
 
「お迎えが18:00を過ぎてしまうんですが、すみません」
 
そういってスマホを切り、慌ただしく支度をして地下鉄に乗り込んだ。保育園は職場と自宅のちょうど中間ぐらいにある。もっと自宅から近いと楽なのだが、なんせそこしか入れなかったので仕方ない。
 
上の子は小学校2年生、真ん中が5歳、一番下が3歳で、下の2人は保育園に通わせている。本当はもっと早くから働きたかったのだが、なんといっても東京の世田谷区は保育園の激戦区、申し込んでから1年かかり、やっと入ることできたのだ。それにしても下の2人が同じところに入れたことは奇跡に近い。
 
入れたのはよかったが、保育料は決して安くはない。
なぜならヤマオカはメガバンクの銀行員だからだ。給料は普通のサラリーマンの中ではかなりいい部類に入るから、シングルマザーや低所得者たちが受けることができる優遇措置はまるでなく、保育料の区分も最高ランクだ。こんなところで最高であることは、今のヤマオカ家には重荷でしかない。
 
「あ、ヤマオカさん、今日はめずらしく遅いんですね」
 
18時を少し過ぎて保育園にたどり着くと、同じクラスにいるタカやんのママ、ユミコが話しかけてきた。
 
「そうなんです、めずらしく残業になっちゃって」
「あ、うちもです。いつもタカやんと仲良くしてくれてありがとうございます」
 
保育園ママたちは、普段仕事をしているママたちばかりなので、なかなかゆっくり話をする機会がない。幼稚園ママのように、ママ友たちとの値踏みランチや公園デビューなどの洗礼はなく、みんなとてもさっぱりしている。なかでもユミコは最近、息子のタカやんが発達障害と言われたことに悩んでいたが、どうやらそれもふっきれたように見えた。
 
「何か、あったんですか」
ユミコは遠慮がちにサオリに声をかけた。
 
いつも身ぎれいにしていたサオリが、なんだかこの頃おかしい。
着ているスーツは数年前の形で、袖口が擦り切れてきている。以前はきちんとしていたメイクも、この頃はほとんどすっぴんに近いナチュラルメイクだ。手に持っているスーパーの袋は、以前の成城石井ではなくハナマサだ。
 
サオリはまさか夫が破産寸前になっているとは言えず、ユミコの不意打ちを食らってなんて答えたらいいのかわからなくなり、つい目が泳いでしまった。
 
「あ、大丈夫です、詳しくお話しをしてほしいというわけじゃないんです。ただなんとなく、元気ないかなって。
それでちょっと、もしかしたら、サオリさんにこれをお渡ししたらいいんじゃないかと思って」
 
ユミコはかばんの内ポケットから、扇子を取り出した。
 
京都の、先斗町の女将からもらった1本の扇子だ。必要な人に渡してほしいと言われて手渡されたが、そこには何も書いてなかったと記憶している。
ならば、誰に渡してもいいじゃないか。
 
まだ遊びたい様子の2人の子どもを横目にみて、話す余裕が少しあることがわかると、ユミコはサオリに京都であった出来事を話し始めた。

 

 

 

「人生が変わる料理屋?」
ヤマオカは妻の顔をまじまじと見つめた。
サオリはどちらかというと現実主義で、目に見えないものを一切信じようとしない。好きな言葉は安心、安全、安定。そのために銀行員であるヤマオカと結婚したぐらいだ。投資やらギャンブルといった不確定要素が多いものも嫌いで、ましてや食事をしただけで自生が変わる料理屋みたいな話を、なぜ真に受けてきたのだろう。
 
「保育園のママ友ユミコさんが、行ってきたらしいの。それでね、彼女の変化が本当にすごくて、保育園中で話題になっているぐらいなのね。
 
それで女将に、お誘いしたい人にこれを渡して欲しいと言われて、この扇子をもらってきたんですって」
 
ヤマオカは恐る恐るその扇子を手に取り、ゆっくりと開いてみた。
するとそこには、075で始まる電話番号が書かれていた。
 
「電話番号? 京都なのか……」
 
料理屋で一度だけ食事をする、それだけで人生が変わるなんて、そんなうまい話はあるはずがない。しかしヤマオカは、もうこれ以上失うものは何も無い。身の回りのもので売れるものは全部メルカリやヤフオクで売りはらった。また収入を増やそうと思ったら、ヤバい仕事をする以外にはなかった。銀行という職場で、毎日お金に囲まれて仕事をしていると、ちょっと操作すればそのお金を横流しできるかもしれないが、すれば間違いなく塀の向こう側にいくことになるだろう。そうなると妻も子どもたちも、一生犯罪者の家族として生きていかなければならない。
 
それを思うと、たった一度京都の料理屋で食事してみることなど、簡単なことじゃないか。
 
「わかった、サオリ、一緒に行こう。一人じゃなんだか緊張する」
 
そう言いながらヤマオカは、震える指でスマホから電話をかけ始めた。

 

 

 

「おいでやす、ヤマオカはんどすな。今日はようこそ、いらっしゃいました。
こちらは奥様やね、遠いところ、おおきにおおきに」
 
白い麻の着物には花火の絵柄、帯には大文字の模様が描かれていた。8月のお盆の時期は、大文字焼きをみるために観光客でごったがえす京都だが、先斗町の路地を入った女将の店からは、その喧騒はまったく聞こえない。
 
ふんわりと、お香のいい香りがする。
 
「ヤマオカはんは、運がよろしいな。今日はいい稚鮎がはいったさかい、ちょっとめずらしいのお出ししますね」
 
女将は2人が脱いだ靴を揃えながら、にこにこと話し始めた。食べ物の話をするときの女将は、笑う目尻に小じわがよって、それがかなり色っぽい。美味しい食べ物は人を美しく、そして魅力的にする。
 
女将の年齢はまったくわからない。
確実に二十代、三十代ではないだろう。あの貫禄と迫力は年齢を感じさせるものだが、ふとしたときに見せる笑顔は少女のようで、そのギャップに客はどぎまぎしてしまう。
 
「ほな、お支度しますさかい、こちらでしのいでおくれやす」
 
そう言って女将は奥に消えたかと思うと、すぐにガラスの器に盛られた先付けをもって戻ってきた。
そこには2種のチーズ、白カビチーズの女王ブリー・ド・モーと山のチーズミモレットが盛り合わせてあった。
 
ヤマオカもサオリも目を見開いて、その器を覗き込んだ。
 
「ここ、和食のお店だよね。なんでフランスのチーズが……」
「しかも、これは僕のお気に入りの、ボルドー地方のチーズじゃないか」
 
「お飲み物はどうしはります? ボルドーの赤もよろしいけど、京都のこの季節は暑いさかい、キリッと冷えた白のほうがよろしいと思います。めずらしいボルドーの白、レスプリ・ド・シュヴァリエ・ブランが入ってますよ」
 
確かに和食と白は合う。
しかも女将は破産寸前のヤマオカを気遣ってかどうかはわからないが、べらぼうに高級なワインを勧めているわけではなかった。
 
株が大暴落してから初めて、ヤマオカは大好きなワインを妻と味わいながら、我が身に起こったことを振り返っていた。
 
女将の料理屋は一見さんお断り。もちろんお値段もそれなりにする。一見さんがふらりと来て払える金額ではなく、お酒も入れると一人5万円をくだらない。しかしどうだろう、出てくる料理、一品一品に、ものすごい手間ひまがかかっている。
 
女将が日本各地をまわり、厳選して仕入れてきた野菜や魚介類にはじまり、普通には流通していない希少部位やお酒までが、客をもてなすために集められているのだ。
 
料理が上手い、下手だけではない、そこに宿る女将のおもてなし魂があるから、この5万円は決して高いと思わない。むしろ、安いとすら感じる。
 
「そうか、そういうことだったんだ……!」
 
稚鮎の唐揚げを指でつまんで口に入れながら、ヤマオカはサオリに向かってまくしたてるように話しかけた。
 
「そうだよ、そういうことだったんだよ。俺は、お金をただ儲けようとしていた。自分のために。だけどお金って、そうやって手に入れるものじゃなかったんだ。
 
お金というのは、感謝の気持ちなんだ。
 
人は感謝するからその代償としてお金を支払う。それも喜んで。
だけど、俺はどうだ?
株で儲けたって、誰のことも幸せにしていない。誰にも感謝されていない。だからうまくいくはずなんてなかったんだ」

 

 

 

お腹も心もすっかり満足した2人は、料理屋をあとにした。
 
「今日はおおきに、ありがとうございました。お食事はいかがどしたか?
 
もし今日のお食事がお口に合うたようでしたら、またどなたか、ご紹介くださいね。その方に、この手ぬぐいを渡しておくれやす」
 
女将はまた例の笑顔で2人を送り出しながら、ヤマオカにすっと手ぬぐいを差し出した。するとサオリはすかさずその手ぬぐいを掴んで、自分のカバンにそっと入れた。
 
「あなたが持ってたら無くしちゃうから。私があずかっておくわね」
サオリはやっぱりしっかりしている。
 
そうして東京に戻った2人には、相変わらず破産寸前という現実が待ち受けていた。ただし一つだけ、違うことがあった。
 
お金の正体に気づいたヤマオカは、サオリを社長にして会社を立ち上げ、そこで新しい事業を展開していった。副業で不動産業をたちあげたのだ。
 
銀行員は副業が禁じられている。そのため下手にアルバイトもできなければ、ましてや起業などとんでもない。しかし妻が社長になることで会社の副業規制にもひっかからないし、なんといってもメガバンクのサラリーマンであるヤマオカのマネジメント力と、敏腕主婦であるサオリのチカラを合わせれば、不動産業は面白いようにうまくいった。
 
夫の信用で銀行から融資をうけ、ボロボロのアパートを買い取って2人で掃除してリニューアルをしていった。入居者に喜んでもらえるような最新の設備には惜しみなく投資をし、借りる人たちが暮らしやすく、居心地がいい空間に創り上げたら、あっという間に満室になった。まさに、人に喜んでもらうからこそいただける報酬が、手に入るようになった。
 
ヤマオカの顔に笑顔が戻り、サオリのスーツは新しくなった。
新しい物件を買っては貸し出し、あっという間に6つの物件を持つオーナーになった。
 
5年の月日が流れ、借金はすべて返済した。
その上、毎月定期的に入ってくる収入のおかげで、ヤマオカはセミリタイアを考えるまでになった。
 
そして手元には、女将がくれた手ぬぐいがまだ残っている。
これを見る度にヤマオカは、真夏の京都で味わった不思議な料理を思い出すのである。
 
「あのときの稚鮎は、美味かったな」
 
 
<<第3話に続く>>

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女将のお懐紙レシピ
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ヤマオカの借金が消えた!
ココロをほぐして感謝を受け取る稚鮎の唐揚げと
ほんまもんのごま豆腐
 
ココロをほぐして感謝を受け取る稚鮎の唐揚げ

(材料)
稚鮎(京都、和知産)食べたいだけ
本葛粉(奈良、吉野産) 適量
ごま油(山田製油)と菜種油(滋賀県菜ばかり)
 
(作り方)
1 葛粉はオーブンシートにはさんでめん棒でのばし、粉状にしておく。
2 稚鮎はわたをとらずにそのまま、葛粉をつけておく。
3 180度のごま油と菜種油で、こんがりと揚げる。
4 揚がったらすぐに半紙に包み、そのまますぐに食べる。
 
ほんまもんのごま豆腐

(材料)
白ごま(国産白ごま)30g
本葛粉 30g
昆布出汁 420cc
 
(作り方)
1 白ごまはゆっくりじっくり炒る。
2 1をすり鉢ですり、ペースト状にして裏ごしする。
3 葛粉はオーブンシートの挟んでめん棒でのばし、細かい粉状にする。
4 2と3をよく混ぜ合わせる。
5 4に昆布出汁を加えてよくまぜ合わせる。舌触りをなめらかにしたい場合は、これをさらに漉し器で濾す。
6 土鍋に入れて火にかける。熱が入ってきたら急に固くなり始めるので、そこから1時間ゆっくりと加熱しながら練り上げる。火加減に気をつけないとだまになる。また沸騰してしまうと食感がわるくなるので、沸騰させないように気をつける。
7 できあがったら流し缶に入れて冷やし固める。

*この物語はフィクションであり、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
*レシピの効果には個人差があり、効果・効用を保証するものではありません。

 
 

◻︎ライタープロフィール
ギール里映(READING LIFE編集部公認ライター)

食べかた研究家。京都の老舗料亭3代目として生まれ、現在は東京でイギリス人の夫、息子と3人ぐらし。食べることが好き、が仕事になり、現職は食べるトレーニングキッズアカデミー協会の代表を勤める。2019年には書籍「1日5分!子どもの能力を引き出す!最強の食事」、「子どもの才能を引き出す!2ステップレシピ」を出版。

 
 
 
 
http://tenro-in.com/zemi/97290

 


2019-09-30 | Posted in 人生を変える割烹

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