赤いマフラーを渡さなかったのは《週刊READING LIFE vol.109「マフラー」》
2021/01/19/公開
坂東愛(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
どうして彼女と出会ったんだっけ? と、思い出をたぐり寄せてみた。
真っ先に浮かんだのは、ただただうらやましいという感情だった。少しでも、知りたくて、彼女と会ったんだった。でも、実際に会ってみると、どこまでが本当でどこまで作り話なのかわからなくなってしまって、自分から距離を置いてしまった。距離を置くも何も、はじめから彼女は自分の都合の良いときだけ私に連絡してきていた。そして、そのときに垣間見せる彼との付き合いが、私のファン心理をくすぐったのだ。
今思えば、連絡先を交換しなければよかったのだ。これまでも、ライブに行ったとき、隣の席の人と話す機会はいくらでもあった。取り立てて彼女と会場を出たあとまで交流する必要なんてまるでなかった。彼女自身について興味を持ったことも一度もなかった。ただ彼女が「推しの幼なじみで元カノ」だったから、興味本位に何度か会ってみたのだ。思い返すと、それすら本当のことか怪しかった。どうして私は彼女と関わろうとしてしまったんだろう。彼女との思い出は理解不能のまま、抜けなくなったトゲみたいに、時折私をチクチクと刺した。今でも私は冬になると、赤いマフラーを目にするたび、遠くなりゆく記憶をなぞってしまう。
あの日は、推しのミュージシャンのツアー初日だった。とりあえずファンクラブ先行でチケットを押さえたものの、2階の中段というあまりよくない席で、ひどく気が滅入っていた。また別日にチケットを取り直して、今日はまったり参戦しよう。そんな風に思っていた。
いざライブが始まってみると、2階席のわりに周囲の客はノリが良かった。ライブの序盤から、おそらく私よりも少し年齢が高めの人たちがオールスタンディングで踊っている。私みたいにのんびりと席に座っている人間は視界に入ってこない。
ステージを見下ろしている席は、前の人がスタディングすると、なにも見えなかった。序盤からこんなに飛ばすのかと思いながら、重い腰を上げて、なんとか推しの姿を見ようとつま先立ちになりながらステージを見た。あまり期待はしていなかったのだが、ことのほかこの会場は音響が良かった。いつしか私はグルーヴに乗って、曲に集中していた。そこで、隣の誰かがしきりに私の肩をつついてくる。なんだろう? と、上がってきたテンションが下がるのを感じながら、私は隣の彼女を見た。
「双眼鏡、お貸ししましょうか?」
こちらの空気も読まずに、話しかけてきたのが、後に「推しの元カノ」と自称する彼女だった。
暗がりでよく見えなかったけれど、彼女は小さな子どもに向けるような眼差しで私を見ていたんじゃないかと思う。あとになって「本当に熱心に見てるなぁと思って」などと、彼女は言った。当の私本人は「今いいところなのに、なんで話しかけてくるんだろう。別に私は推しの顔をはっきり見たいんじゃなくて、どんな風に演奏しているか見たいだけなのに」と、思っていたのだ。正直推しは私のタイプの容姿をしておらず、あくまで音楽性が好きなだけなのだ。だから、別にステージに上ったときに「きゃー」と歓声をあげるわけでもない。私は推しがステージのどのあたりにいて、どんなパフォーマンスをしているかにしか興味がないのだ。いちいち、そんなことを見ず知らずの人に言うつもりはないが、説明してもわかってもらえないのだろうな、などと考えていた。
「いえ、大丈夫です!」
そう言うと、彼女はライブ中、それ以上話しかけては来なかった。
彼女に再び話しかけられたのは、ライブが終わり客席にライトが点灯されたあとだった。「さっきは話しかけてごめんなさい」という主旨のことを言われたように思う。はっきりとした記憶はないが、なんとなく話しながら、一緒に駅へ向かって歩いていった。
「実はね」と、彼女に告げられたのは駅で別れる間際だったと思う。「私と彼は幼なじみで、昔は付き合っていたんだ」どうしてそんなことを私に言い出したのかは今もわからない。ただ私は人に知られてはいけない秘密が、自分だけに明かされたような気がして、ドキドキしてしまった。彼女は「彼の音楽を好きでいてくれて、ありがとう」と言った。社会的に不祥事を起こしていた彼だったので、その言葉に私は重みを感じずにはいられなかった。
それから、彼女からは時折、連絡が来て、何度か食事やお茶を一緒にした。彼女が連絡してくるときは、ミュージシャンの彼の同席も匂わせていたが、いざ約束の日時が近づくと、「彼は仕事が入ったから、来られない」と言われた。
たまにこちらから彼女に連絡を取ろうとするときはいつも、「おかけになった電話は……」とアナウンスが流れるのだった。そんなことを数回繰り返し、気がつけば連絡がつかなくなってから2年近くの月日が流れた。
すっかり忘れていた彼女から連絡があったのは、クリスマス間近だったと思う。彼は新しいアルバムのリリース前だったのだが、なんとか時間を見つけて同席すると言う。どうせ、また、直前にキャンセルになるに決まっていると思いながらも、私は彼の新曲にちなんでプレゼントに赤いマフラーを予約注文した。
何度もだめになっていたからこそ、今度こそはと思ってプレゼントも用意したのだけれど、私がプレゼントを用意したことを告げておいたところ、今回はわりと早めに期待は裏切られた。「今回も残念ながら」というメールの文字を見た瞬間、私は迷わず予約していたマフラーの注文をキャンセルした。
こうなってくると、彼女からの誘いが私の静かな日常を揺るがす、津波になりつつあった。彼女さえ私に声をかけてこなければ。私の日常は波ひとつ立たない静かな入り江のようなものなのだ。入り江からの海の眺めはとても良くて、彼の音楽があればごきげんという毎日はすっかりどこかに消えてしまう。
落胆してなんなら怒りの感情もあるにはあったけれど、せっかく誘われたのだからと、彼女の家に行く約束だけは果たした。ここまで裏切られているのに、それでも私は彼の日常がどんなものか知りたくて、自分でもどんだけミーハーなのか、もうあきれるしかなかった。
彼女の家は、おそらく昭和に建てられたものと思われる、木造の古いアパートだった。玄関を開けるとすぐに、急な階段が目に入る。階段の横にキッチン、奥にお風呂があり、部屋は2階にひとつという見たことがない間取りだった。
12月ということもあり、1階の床はひんやりとしていてとても冷たかった。彼女が手料理をふるまってくれるというので手伝ったのだが、水道には湯沸かし器もついておらず、私は手がちぎれる思いをしながら、じゃがいもを洗った。そして、彼女はその間、ガラケーでまだどこにもオンエアされていないはずの彼の新曲を流してくれた。なんで私はこんなところで手がかじかむ思いをしているのだろうと思ったけれど、彼の音楽は今回も私の好みだった。
「そうだ、せっかく来たのだから泊まっていったら」と彼女は言った。彼女の家は駅からはバスに乗らないと帰らないほど遠く、郊外のため終バスが早かった。夕飯をごちそうになることが決まった時点で、私はひそかにバスの時間を気にしていたのだ。金曜の夜で、翌日は休みだったから「そうさせてもらうね」と、私は迷いながら答えた。
そうだ、もう今回で彼女と会うのは終わりにしよう。せっかく好きな音楽が久しぶりに見つかったのだ。これ以上、楽しめない要素があるのはごめんだ。
別に私は彼の熱いファンではないし、他にもライブに通う推しアーティストが何人かいる。彼の音楽が聞けない、彼の音楽が好きだと口にするのがはばかれる時期もあったけれど、今では別に好きなアーティストを聞かれて黙ってしまうほど、彼が好きではない。だからこれ以上彼女の話に付き合ったところで、何もメリットはないじゃないか。
そう心のなかで言い聞かせてみるけれど、やっぱり、彼の音楽とか歌詞の世界観にある背景とか、もう少しちゃんと聞いてみてもいいかなと思ってしまう。
でも、どこかで彼女の話は作り話かもしれないと私は疑っていた。
やはりライブ会場で彼女と連絡先を交換してしまったのは失敗だったなあ。幼なじみで元カノというのはウソかもしれないけれど、未発表の音源を持っていたり、公式サイトよりも早くテレビの出演情報を教えてくれたり、彼に近い関係者なのは間違いないようにも思われる。まだ頭の中ではぐるぐると、迷いが洗濯機のように回り続けている。
そんな私も心の声を見透かすように、「内緒なんだけど」と彼女は小さな声で話し始めたのは、食事が終わり、お風呂も頂いて、並んで部屋敷かれた布団に入ったあとだ。もしかすると、1時間、2時間以上彼女は話し続けていたかもしれない。悪い冗談にしては度が過ぎている話に、どうして彼女は私にこんなことを打ち明けているのだろうと、モヤモヤした。
見せられた写真と彼の直筆のイラスト。「おやすみ」と彼女に言われ、目をつぶっても、その画像が鮮明に浮かんでしまう。とにかく、明日、家に帰ってから考えよう。そう決めて、私は眠りについた。
次の日目を覚ますと、時計は昼近くを指していた。私は彼女の用意してくれたごはんを食べ、彼女の家をあとにした。天気のいい昼間なのに、どこか見える景色には暗いフィルターがかかっている感じがした。ああ、やっぱり私は昨夜の話に衝撃を受けているのかもしれない。
彼女の話はこうだった。
彼女は私と連絡を撮らないあいだに、彼と寄りを戻していた。そして、彼との間に双子の子どもを身ごもった。見せてくれた写真には大きなお腹の彼女が映っていた。そして、ファンクラブでよく目にするタッチで描かれた、2人の赤ちゃんと名前が書かれた色鉛筆のイラストも見せてもらった。
けれども、妊娠7ヶ月に入り、彼女にガンが見つかった。治療をするには、子どもをあきらめるしかない。2人は泣く泣く子どもをあきらめた。
その後、彼女が闘病生活を送っている間、彼は公の場で「二度と関わりを持たない」と宣言したある人物と、仕事上でパートナーシップを組むようになった。その人物は神主の修行をしており、以前の彼とはちがうからと、ミュージシャンの彼は言ったが、彼女はそれが許せずに、絶縁状態が続いているのだと言う。このことがあきらかになったら、多くのファンが離れていくだろうと。彼女は言った。
その後、私は彼女からの連絡に応じることはなかった。メールに返信をしない私に業を煮やしてか、1時間に10回以上も電話をかけてきたが、私は出なかった。そして、彼女は、「私のことは嫌いになっても、これからも彼のファンでいてね」というメールを最後に、連絡をよこさなくなった。
今でも、冬になり赤いマフラーをしている人を見かけると、私は彼女のことを思い出す。
あの頃私は、幼すぎた。彼女の言っていることを疑っていたとしても、あんなふうに人間関係を断ち切るべきではなかった。
なぜなら……
今年になって、彼女の言っていたことが明るみになったからだ。彼女が反対していたように、彼がパートナーシップを組んでいた人物は再び逮捕され、彼もまた逮捕されたからだ。
最後に見た彼女は、あまり元気そうではなかったけれど、元気にしているだろうか。
道行く人がマフラーをしはじめ、私は懺悔の気持ちで遠くの空を見つめる。
もう冬だ。私もそろそろマフラーをしよう。もう二度と冷えた心で、誰かの心を傷つけないように。
□ライターズプロフィール
坂東愛(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
茨城県生まれ。家族の転勤、自身の転職により13回の引っ越しを経験。
書店アルバイト、図書館司書、地方公務員を経てライター。公務員時代から書籍、雑誌で執筆をはじめ、近年は某オウンドメディアで執筆した記事が3年にわたりGoogle検索1位をキープしている。知識や実用的な内容を伝えるだけではなく、自分の言葉で語れるライターを目指し、2020年より天狼院ライティング・ゼミ、ライターズ倶楽部に参加。
小学生女子の育児と格闘するシングルマザー。時々、アロマテラピーアドバイザーとしても活動中
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