書くことは、終わりのない旅《週刊READING LIFE vol.131「WRITING HOLIC!〜私が書くのをやめられない理由〜」》
2021/06/07/公開
記事:西野順子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
先日テレビをつけた時、軍事政権下で市民の自由が奪われたミャンマーから来たサッカーの選手たちが、非常に複雑な思いをして試合を戦っている、というニュースをやっているのを見ながら、ふと、以前にミャンマーに行った時のことを思い出した。あのとき会った人たちは今どうしているのだろうか?
今から20年ぐらい前にミャンマーに行ったことがある。その頃のミャンマーは軍事政権下に置かれていたとはいえ、アウン・サン・スーチーさんも、確か毎週のように市民の前で演説していたし、その演説は観光客でも聞きに行くことができた。私の周りにはミャンマーに行ってきた、という友人が何人かいて、ミャンマーは人も優しいし、すごく良かったよ、と口をそろえて言っていたので、じゃあミャンマーに行ってみようと思ったのだ。私には珍しく、全く行程を決めない旅だった。
関空からバンコクに行き、ヤンゴンで飛行機を乗りついで、美しい古都のマンダレーに向かう予定だった。ヤンゴンの空港でマンダレー行きの飛行機を待っていたのだが、もう出発時刻を過ぎているというのに飛行機も見えないし、案内もない。私は、ここで待っていていいんだろうか? と心配になって、横に座っていたチャイナドレスを着た女性に、「マンダレー行きはここでいいんですよね?」と、おそるおそるたずねてみた。彼女はカラカラと笑って「大丈夫よ。あなた日本から?」と日本語と答えてくれた。
なんだ、彼女は日本人だったのか。私とは対照的に、彼女はとても落ち着いている。ミャンマーに住んでいるのだろうか? 自分の知らない土地で日本人に会うと、ものすごく親近感を覚えるものだ。私はうれしくなって彼女といろいろと話をした。彼女はみちこさんといって、ミャンマーが好きで何回も行っていて、マンダレーには友人もいるという。彼女は「私の友人がホテルをやっているの。私もそこにいくからよかったら一緒に行らっしゃらない? 」と誘ってくれた。
その時は私も特にホテルも決めていなかったので、一緒に行かせていただくことにした。マンダレーの空港に着いた私は、迎えに来てくれていた彼女の友人に会って驚いた。なんと、若いお坊さんだったのだ。目鼻立ちのキリッとした精悍な顔をして、東南アジアの僧侶がよく着ている、えんじ色のふわっとした袈裟を身につけている。彼は、みちこさんのことを「シスター」と呼んでいて、2人は気の置けない友人同士といった感じだった。お坊さんに連れられて車に乗って、彼の親戚がやっていると言うホテルにお世話になることにした。
若いお坊さんは、みちこさんと私をマンダレーの王宮やシュエナンドー僧院などに連れて行ってくれた。彼が道を歩いていると、彼の姿を見た通りすがりの人たちは立ち止まって両手を合わせて頭を下げる。ミャンマーでは、僧侶はとても尊敬されているのだ。日本では絶対に見られない光景に、私は目を丸くしていた。
彼がいろいろ連れて行ってくれたので、地元の人しか行かないような場所にも行き、一人だったら絶対に乗らないような、住人向けの小さいはしけのような渡し船にも乗った。小さい船にあまりにも多くの人が乗っていて、川の中に出るのに後ろから押してもらわなければならず、本当に大丈夫なんだろうか、ひっくり返ったらどうなるんだろう? とちょっと心配になったこともある。
ホテルは家族経営のようで、そのお坊さんの親類らしいミャンマー人の若い女性がいろいろと世話をしてくれた。彼女はちょっと淋しげな顔立ちの美人で、茶色っぽい地味なロンジーとというミャンマーの民族衣装を着ていたが、ぴったりとした衣装が彼女のスタイルの良さを際立たせていた。彼女の喋るミャンマー語は、響きが柔らかくてとても美しい。彼女はよく何か話しかけてくれようとしたが、残念ながら言葉が全く理解できず、なんとか身振り手振りで頑張って話をした。私は優しい彼女が好きだったし、女どうしということもあって、言葉は通じなくても何か通じあうものがあるような気がしていた。
一度、若いお坊さんをすごく怒らせたことがあった。マンダレーのシュエナンドー僧院へ行った時、あまりにも暑いので何か飲もうという話になって、寺院の近くの茶店に入った。彼は、自分は僧侶なので昼間は食べ物や飲み物を口にしない決まりだと言って、座って休憩していた。みちこさんはジュースを注文したが、ギラギラした炎天下でずっと歩いてきた私は恐ろしく喉が乾いていて、ジュースぐらいでは収まりそうになく、昼間からビールを注文した。
一口ゴクリと飲むと生き返る思いだ。やっぱり暑い日にはビールよねえ、と幸せを噛み締めながら、今日は暑いわね、と座っていた彼に話しかけたが、彼は返事をしない。見るとものすごく怒っているようだ。何があったんだろう? さっきまで、あんな饒舌にいろんなことを熱っぽく話していたのに、今は額に青筋を立てているように見える。一体何が起こったんだろう? 訳がわからなかった。青空がいきなり土砂降りになったような彼の豹変ぶりに私は面食らっていた。
みちこさんも彼の突然の変化に驚いたようで、「どうしたの?」と話しかけていたが、 彼はうんともすんとも返事をしない。 しばらく気まずい沈黙が続いた後、彼はみちこさんを促して、離れたところへ行ってしばらく二人で話していた。遠くからでも、 彼がかなり腹を立てているのが見てとれた。みちこさんもムキになって言い返しているようだ。私は訳が分からないまま、私たちは無言でホテルに戻った。
しばらくすると、みちこさんが私の部屋にやってきたので、私は聞いた。
「何があったんですか? なんで彼はいきなりあんなに怒り出したんですか?」
実はね、とみちこさんは、彼との話をかいつまんで説明してくれた。
「ミャンマーでは、女性がビールを飲むことは、非常にはしたないこととされていている。だから女性は人前ではビールなんか絶対飲まない。一方自分はミャンマーでは最も位の高い僧侶という身分で、若くても周りのみんなからも尊敬されている。人を教え諭す立場である僧侶の自分が、昼間からビールをガバガバ飲んでいる女性と一緒にいたら、周りの人がなんと思うか? 示しがつかない」
そう言って、彼は頭から湯気が出るほど怒っていたそうなのだ。
思いもよらぬ言葉に私は仰天した。言われてみれば、確かにミャンマーに来て、女性がビールを飲んでいる姿を見たことがな。知らないこととは言え、つい日本にいるようなつもりでビールを飲んでしまった。それがもとで、親切にしてくれた彼に迷惑をかけるようなことになったら、本当に申しわけないことをした、と心から思った。自分の常識をうっかりそのまま持ち込むとトラブルになることもあるのだ。風習や文化って本当に違うんだなぁと、しみじみ思ったのだった。
「でも、日本人の私たちがそんなことを知るはずもないのだから、怒るのは筋違いよ、と彼には言っておいたから、あなたが気にすることないわ」と、みちこさんは慰めてくれたのだが、それでもやはり、親切な彼に、悪いことをしちゃったなあと気持ちが晴れなかった。
翌朝彼に会ってすぐに謝ったら、彼はいつものようににこやかに、「いいよいいよ」とは言ってくれたのだが、その時の彼の腹立たしさを思うと、やはり申し訳なくて、知らないというのは怖いことだなあと思った。
数日後に私はマンダレーを離れて、ヤンゴンへ行った。マンダレーが京都のような事なら、ヤンゴンは東京のような近代的な都市だった。さっそく観光客でも聞きに行けるというスーチーさんの演説を聞きに行くことにした。ホテルで行き方を聞いて、駅前からバスに乗って人がたくさん降りるところで降りてみる。
言葉が通じなくてもなんとかなんとかなるもんなんだなあと思いながら、ちょっとドキドキしながら人混みの中で待つ。周りにはミャンマーの人ばかりではなく、私と同じような観光客もたくさんいた。しばらくすると、スーチーさんが現れて、力強く話し始めた。もちろんミャンマー語なので何を話していらっしゃるのかはわからない。思っていたより小柄で、こんな小柄な女性のどこにあれだけのすごいパワーがあるんだろうと思わせられた。
スーチーさんのスピーチが終わって、さて帰ろうと思ってはたと困った。来たのははいいが、帰り方がわからないのに気がついたのだ。とりあえずヤンゴンの中心部まで出たらいいのだが、どのバスに乗っていいかが分からない。人に聞こうにも日本語も英語も通じないので、よくわからない。それにしても、あれだけいた外国人観光客はいったいどこに行ってしまったんだろう?
まずい。帰りのことを考えなかった自分の浅はかさを呪いながら、とりあえず周りにいた人たちに「ヤンゴン」「ヤンゴン」と言い続けた。ミャンマーの人は優しくて、私のことを気にかけてくれているようなのだが、言葉が通じないのがなんとももどかしかった。
なんとなく「これに乗れ」と言われたような気がして、横にいた人に指さされた小さいバスに乗り込んだ。もう既に多くの人がぎゅうぎゅう詰めに乗っている。ミャンマーの人たちばかりのようで、さきほどまで演説を聴いていた、外国人旅行者らしい人たちの姿は全くない。私は不安になった。本当にこれでヤンゴン市内に帰れるのだろうか? 全然知らない場所に着いたらどうしよう? 頭の中が不安でいっぱいになり、それ以外の事が考えられなくなった。そこで、持っていた地図を見せて周りにいる人に聞いてみるが、みんなわからない、という顔をする。それでもミャンマーの人の人なつっこい笑顔、優しい態度は、私を少し落ち着かせてくれた。バスの中でずっと不安だったが、バスが止まってドキドキしながらバスを降りたら、ヤンゴンの中心の景色だった。あーよかった。
旅の疲れが出たのか、食べたものが悪かったのか、私はその日の夜に熱を出し、翌朝になっても熱が引かず、体が火照っていた。その日は日本に帰る日だったので、チェックアウトの時刻ギリギリまでホテルに寝ていて、チェックアウトをしようと受付に行くと、そこにはマンダレーでお世話になった若いお坊さんが立っていた。彼もまた学校に行くためにヤンゴンに戻って来ていて、私にさよならを言いに来てくれたのだった。彼の顔を見た途端にほっとした。「今日はいつもとちょっと感じが違うけど、調子悪いの?」と聞いてくれた、彼の優しさが無性に嬉しかった。彼とは少し話をして空港バスの乗り場で分かれ、私は日本へ帰ってきた。
あの時に出会った人達はもうみんないい年になっているだろう。今はみんなどんなふうに暮らしているんだろう?
こうやって当時のことを振り返ってその時の出来事を書いてみると、その時に出会った人々や、その人たちの顔、表情、着ていた服、その時の会話、そしてその時自分が感じたことなどが、まるで走馬灯のように鮮やかに心の中に浮かんでくる。
書くことは、タイムマシンに乗って昔の自分に会いに行くようなものだ。自分の心の奥底の棚にしまわれたセピア色で古ぼけた絵が、当時のことを思い出して言葉にしていくことで、だんだんと輪郭がはっきりし、新たな色鮮やかなクリアな絵として目の前に現れる。
心の奥底の方に眠っていた一つ一つの出来事が、まるで昨日の出来事のように浮かんできて、その時あった人々の優しさに感謝の心が湧き上がる。
コロナの影響で旅に出ることができなくなった反動かもしれないが、この3ヶ月間は、昔の旅行のことを思い出し、訪れたいろいろな場所、そこで会ったいろいろな人について、何本かの記事を書いた。
その時々のことを思い返しながら書いていると、今まで心の奥底の方にそっとしまわれていた思い出を覆っていた布が一枚一枚めくられていくかのように、いろいろな経験がまるで昨日のことであるかのように後から後から思い出されて来た。 旅ごとに、いろんな事が起こり、多くの人たちに出会ってきた。今の自分は旅で出会った多くの人たちに支えられて生きているのだと、感謝することも多かった。
書くこともまた旅である。リアルな旅が自分の知らない場所や人に会いに行くことならば、書くことは自分の内側のまだ知らない世界の扉をそっと開くことだ。そうやって、私は忘れかけていた自分の姿に出会い、その時の自分の感情に改めて向き合うことになった。その幸福な経験は私の人生に彩りを与えてくれ、熟成されたチーズのように深い味わいで、私のこれからの人生を支えてくれる。
私はこれからも書き続けるだろう。自分の中の未知の自分に出会うために。
□ライターズプロフィール
西野順子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
神戸出身。電機メーカーで人材開発、労務管理、採用、システム開発等に携わる。2020年に独立し、仕事もプライベートも充実した豊かな生活を送りたい人のライフキャリアの実現を支援している。キャリア・コンサルタント、社会保険労務士、通訳案内士
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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