週刊READING LIFE vol.285

ノーベル平和賞は世界を平和にするのか?《週刊READING LIFE Vol.286 》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライティングX」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2024/11/18/公開
記事:ひーまま(READINGLIFE編集部ライティングX)
 
 
今年のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が選ばれた。 ノルウエーの首都オスロで12月10日に授賞式が行われる。 2年前から直接被爆者の体験談を聞かせてもらい、その被爆体験を伝承しようとしてきた私にとって、本当に感激のニュースだった。
 
79年前の1945年8月6日世界で初めて原子爆弾が落とされた広島の街で、生き残ってこられた人たちの事を「被爆者」と呼んでいる。 実際の被爆者の平均年齢はすでに85歳を超えている。
 
被爆者と呼ばれる人たちの数は現在日本全国で106825人。
この数は被爆者健康手帳を実際に持っている人の数だ。
  
「二度とこんな悲惨な体験を世界中の誰にもしてほしくない」
「二度と原子爆弾を使ってはならない」そして、「放射能の影響で苦しむ被爆者を救護するため」にと作られた団体が日本被団協です。
 
私は被爆二世ではないが、父親の転勤で大阪から広島へ2歳半の時に引っ越してきて以来、広島に住む者の責任というのか、使命感のようなものをずっと背負って生きてきたように感じている。
 
世界の恒久平和はどうすれば実現するのか。
なんで世界から戦争はなくならないのか? 一個人ながらいつも胸の中から湧いてくる問いである。
 
そんな思いとは真逆に世界では戦争が無くならず、核兵器はその威力を増すばかり、ついに核兵器と呼ばれる兵器の数は現在世界中に12121発もあるというのだ(2024年1月現在のデータによる)。 いやはやこの現状で核兵器の廃絶を唱えるのもむなしい気持ちになってしまうほどである。
 
そのような具体的な学びをこの2年間少しずつ進めてきたのだが、齢65歳になるまで実は恥ずかしながら、被爆の実相を進んで聞きたい。 と思ったことはないのが正直な話なのだ。
 
広島に住むものとして、世界の平和を野望として持ってきたわたしだが、その被爆の実相を実際に聞いたり調べることはできなかった。
 
あまりにも悲惨な現実が広島には満ちていたからだ。
 
私の主人は被爆二世で、主人の父親は爆心地から2キロ以内の駅前で被爆している。
義父は1945年の年の初めに、9歳年下の当時19歳のお嫁さんと結婚したばかり、広島から30キロほど離れた大竹が自宅だったが、義父は憲兵として広島市内に駐留していた。 ちょうど8月6日に広島市内で待ち合わせをしていて、若い新妻は8時15分のその時刻、爆心地直下の市内電車の中で原子爆弾を受け、その後一切の手がかりもないままにまさに消えてしまった一人になったのだ。
義父はひどいやけどをおいながらも生き残り、主人のお母さんと再婚して今の我が家があり、8月6日になるとその最初の奥さんが原爆で亡くならなければ、我が家はないのだという事実を毎年思うのだ。
 
たった一発の原子爆弾で亡くなられた人は、その年の終わりまでに約14万人と言われているが、その数字は現在もプラスマイナス1万人といわれており、いまも不明者の数ははっきりしない。
 
昨年上映された映画「オッペンハイマー」では原爆開発から投下までの史実に基づいた映画だったが、あの原子爆弾のきのこ雲の下でどれほどの事があったのかまでは描写されなかった。
 
広島、長崎での上映を躊躇したということだったが、それでも原子爆弾誕生の話は上映してくれてよかったと感じている。
人類はまずその事実を知ることから始めなくてはならない。
 
私が被爆体験を伝承しようとしているひとは当時5歳だった人だ。
その人の被爆体験をここに書き留めてみたい。
当時5歳の廣中正樹さんの被爆体験だ。
 
正樹君の家は爆心地から西へ約3.5キロメートルのところ、広島市己斐町にあった。
 
山に囲まれた谷にあり、家のすぐ下には小川がながれていて、田んぼが広がっていた。
5歳の正樹君は、8月6日の朝、沼田から流れてくる川と己斐上から流れてくる川が合流するきれいな川で網を持って水遊びをしていた。
8時15分のその瞬間、空がピカっと光ったかと思うと、一瞬で目の前がオレンジ色に染まった。
正樹君は思わずぎゅっと目をつぶった。 ゆっくり目をあけたところ、花火の後のようなドン!という音が聞こえた。
 
数秒後、川の下流からものすごいスピードでゴーっという地鳴りを響かせながら茶色い爆風が川を駆け上ってきた。
正樹君は爆風に吹き飛ばされて転んで、何が起こったのかわからない。 その爆風で近くの家の窓ガラスが割れる音、瓦が吹き飛ばされる音が聞こえた。
近所の大人たちは大騒ぎで、みんな近くに掘ってあった防空壕に走っていった、正樹君はまだ小さかったので「僕には関係ないや」とそのまま橋の下で水遊びを続けていたところ、お母さんが妹をだいて橋の上から正樹君を呼んだ。「正樹、すぐに防空壕へにげるんよ。お母さんは先にいってまっとるからね」と、タオルを手にまいて防空頭巾をかぶって2歳の妹を抱えて走っていくのがみえた。
 
防空壕は家から100mくらいのところだった。 正樹君はさすがにこれは大変なことがおこったんだ。 と思い、急いで川から上がり、はだしで家に帰ってみると道路に面している玄関や部屋のガラスは粉々に割れていて危なくて家に入ることができなかった。
 
正樹君は急いでお母さんのあとを追って防空壕へ走っていきました。
走っていく途中に山のむこうにみるみる大きくなっていく原子爆弾のきのこ雲が見えた。 きのこ雲のなかには、黒い点がたくさん見え、時折なにか爆発しているのか青やピンクに光っていた。
 
防空壕につくと、もう中に入れないくらいに人がいっぱいで、正樹君は「母ちゃん、母ちゃん」と何回も呼びましたが、返事がありません。 不安になって泣いていたら、それに気づいた近所のおばさんが「お母さんは上のほうの防空壕におるから山を登って横の穴から入ってみんさい」と教えてくれた。
 
言われた通りに登って行くとお母さんと妹に会うことができた。
そのあとは暗くて動くこともできない防空壕のなかで、じっと身をひそめていた、退屈で長い時間だった。
午前11時すぎくらいと思う、防空壕の外の空が暗くなってきてざあーっと黒い雨が降ってきた。 正樹君は防空壕の入り口にいたので黒い雨が黒い水になって流れていくのもよく見えた。
黒い雨は午後3時くらいまで降っていて、消防団の人が「雨も小雨になってきたけえみんな家にかえろう」と言われ家にかえった。
 
やっと自分の家に戻ると玄関があいていて、全身やけどをおった中学生くらいの若い人が、ガラスの破片だらけの場所に2人座ってた。
 
畳の部屋には2人の人が横になっていて、帰ってきた正樹君たちに4人の人が「すみませんが水をください」と言い、お母さんと正樹君は急いで水をあげた。 4人のひとは喜んで何回も何回も「ありがとう、ありがとう」と言われました。 その人たちはひどいやけどで、顔、手、胸、足、髪の毛は焼けて縮れてしまっていた。  いままで見たこともない恐ろしい姿だった。
 
皮膚はひものように垂れ下がっていて、肌が赤く火ぶくれになって、今にも死んでしまうのではないかと思った。
 
お母さんが一人一人に「どちらの方ですか?」と聞くと「この山をこえた沼田です」といいました。 沼田別れから峠を越えて帰る途中だったのです。 お母さんは「もう少しの距離だから元気をだしてかえるんよ」と勇気づけました。
 
家から空を見ると、この日の夕空は、きのこ雲が大きく膨らんで雲の中心から上が西の方角、宮島のほうに長く伸びていました。
山を見ると山の峰が真っ赤にそまって、広島市内が燃えているのがわかりました。
 
お母さんは、顔と手をケガしていた。 お父さんを見送って、鏡の前で化粧をしている時に、爆風でガラスが割れて破片が飛んできたのだ。 妹はお母さんのそばにいたので、幸いかすり傷くらいでした。
 
外が暗くなってきた午後7時ころに、裏の家に住んでいた小学校の先生が「廣中さんのお父さんが己斐小学校におられたけえ迎えに行ってあげんさい」と教えてくれた。
 
お母さんは急いで支度をすると正樹君と妹の手をひいて、家から500mくらい離れた己斐小学校に向かった。
小学校までの下り坂で、すれ違うひとに「お父さんですか?」と声をかけながら歩いていきました。
 
したから登ってくる人はみんな悲惨な姿をしていた。
顔をみても誰が誰だかわからない。 小学校に着くまでお父さんには会えませんでした。
 
小学校の屋根も飛ばされていた。 校庭は負傷した人と家族を探すひとでごった返していて、お母さんは正樹君を校庭の前の山すその防空壕の前に連れていき「お母さんが帰ってくるまで絶対にここをうごいちゃあいけんよ」と言って妹を抱いてお父さんを探しに校舎の中へ入っていきました。
 
校庭も校舎も人でいっぱいです。 防空壕の中はケガをした人の救護所になっていて次々と担架でけが人が運ばれてきます。
しばらくするとお母さんが戻ってきて「どこを探してもお父さんがみつからんけえもう家に帰ろう」と言いました。
夜の8時になっていました。 暗い坂道を今度は登りながら、道に座っている人や歩いている人に「お父さんですか?」と声をかけながら帰りました。
 
ところが家についてみると、明かりのない暗い台所にお父さんが座っていた。 お母さんと正樹君は本当にびっくりした。 いったいどこですれ違っていたのかわからない。
 
家の中は真っ暗で、ろうそくをつけてお父さんを見ると、お父さんは頭から背中を大火傷していて、ズボンもボロボロでした。
 
お母さんはお父さんの身体を濡れたタオルで冷やしながら泣いていました。 お父さんの姿はただ事ではありません。 かなり弱っていました。 「早く横になりたい」と二階に上がる途中にお父さんは正樹君を呼んで「正樹、お父さんの背中に突き刺さっとるガラスを抜いてくれ」と言いました。
 
階段の一番上に座ったお父さんがローソクを持って、背中を照らすと、お父さんの背中には1センチくらい頭をだしたガラスがいくつもささっています。 ガラスはお父さんの背中に深く食い込んでいます。正樹君は右手でガラスの先をもって引き抜こうとするのですが、筋肉まで深く刺さったガラスは指がすべって簡単には抜けません。
 
「父ちゃん、なんぼ力をいれても僕にはとれんよ」と正樹君がお父さんに言うと、お父さんは「じゃあ正樹、ペンチを持ってこい」と言いました。 正樹君は物置からペンチを持ってくると、ガラスを挟んで何回も力を込めて引っ張りました。 一生懸命にお父さんの背中に刺さったガラスをぬこうと頑張りました。
5歳の正樹君の小さな手ではペンチが大きすぎて力が入らないのでした。 上のほうの何ミリかが割れて取れたのですが、それ以上は無理でお母さんに代わってもらいました。
 
正樹君のお父さんは8月6日の朝、いつものように家を出ると己斐駅を8時に出発の広電の市内電車に乗って宇品に向かっていました。
原子爆弾が炸裂した8時15分、今の原爆ドームに近い紙屋町付近の電車の中でした。 「通勤電車の中でピカドンにあい、熱い熱い熱線と爆風で電車のガラスが吹き飛んで背中に突き刺さったんじゃ」とお父さんが話してくれました。
 
お父さんは爆弾のショックで電車の中で気を失っていました。 気が付くと電車の中は気を失った人、亡くなっている人たくさんの人が倒れていたそうです。 気を取り戻したお父さんは激しいやけどの痛みを近くの川につかって冷やし、長い時間をかけて3キロ離れた己斐小学校までたどり着いたのでした。
 
8月の強い日差しのなか、広島市内は原子爆弾の熱風でつぎつぎと火事がひろがっていっていました。 全身大やけどの人たちが逃げられたのは川しかなかったのです。 川の中は水を求める人でいっぱいだったと聞きました。
 
翌日の8月7日、2階は暑いのでお父さんは一階で寝ていました。
お母さんがお父さんになにか話しかけながらお粥を食べさせていました。
お父さんはものすごく苦しそうでした。 1階も2階も窓のガラスはみんな割れてしまって外がよく見えました。
お母さんはお父さんの身体を冷やしながら、合間に障子を張っていました。
8月7日午後3時ころ、お母さんが「お父さんが弱って苦しそうにしとるから正樹もここにきてお父さんのそばにおりなさい」と言いました。 お父さんの死が近づいているのを感じたお母さんは町内会長さんを呼びに行きました。
 
お母さんに言われて、正樹君はお父さんのそばに座っていました。苦しんでいるお父さんの姿をみると涙が出そうになって、ぐっとこらえていました。 お母さんが町内会長さんと戻ってきたとき、正樹君は涙をこらえきれなくなってその場をそっと離れました。
 
「正樹、はよここに来なさい」
お母さんが何度も呼ぶ声がきこえてきます。 それでも正樹君はお父さんのそばに行くことができませんでした。 正樹君は涙があふれて止まらず軒下から動くことができませんでした。 小さいながらも人前で泣くのが恥ずかしかったのです。
正樹君は軒下の柱に頭をつけてしくしく泣きました。 涙は次から次にあふれて止まりませんでした。
お父さんとわかれることがこれほど辛くて悲しいものかと思いました。
 
しばらくしてお母さんが「正樹、お父さんが亡くなったよ」と
言うのを聞いて、家に入ると、お父さんの顔に白いハンカチがかけられていました。 お父さんのそばに行って手を握ると、お父さんの手はまだ温かくお母さんと声をあげて泣きました。
 
お父さんの顔はいつもの優しい顔に戻っていました。
お父さんの年は37歳でした。
 
翌日の8月8日の夕方、お父さんの遺体をリヤカーに乗せて、町内の火葬場まで運びました。 あまりにも原子爆弾の犠牲となった遺体の数が多いので、一晩で亡くなった人を火葬するのにそこには3列の壕が掘ってありました。 
一度に15人から20人の遺体を火葬するためでした。 遺体がよく焼けるようコモをまいてもらって、一番左の端にお父さんを置いてもらいました。
 
火葬場は遺体でいっぱいでした。 運び込んだ家族が火葬の薪に火をつけなければなりませんでした。
「正樹、お前がお父さんに火をつけなさい」そうお母さんに言われて正樹君はお父さんの遺体にマッチで火をつけました。
 
8月9日の朝、火葬場へお父さんの骨をひらいに行きました。
白い朝霧が静かに漂っていました。
 
お父さんはきれいに焼けていて骨を拾うことができましたが、5、6人のひとはまだ半焼けでした。
正樹君は恐ろしくて見ることができませんでした。 人間が半焼けなどという姿はほんとうにあってはならないことだと思いました。
お父さんの遺骨は骨壺一杯に拾うことができました。 その時に嗅いだにおいは今でも忘れることができません。
 
原子爆弾が落ちてから4日目にお父さんの勤め先に行きました。
川の中はまだ黒焦げの遺体が流れていました。 原爆投下から4日後でしたが、広電の市内電車が走っていました。
まだ学生のような若い女性が鉢巻をして電車の運転をしていました。
己斐駅に近づいた川土手のところで数人の兵隊さんがトラックにつまれた遺体を並べ、油をかけて焼いていました。 この様に焼かれていたのは身元不明の人たちだったと思います。
 
あの姿はよう忘れられん。 遺体とはいえ人間をあんなに粗末に扱うなんて本当にむごい姿で、恐ろしかった。 カギ棒の先に人間をひっかけて引き寄せる。 炎天下の中放置された遺体はもう腐ってきていてウジ虫がわいていた。 正樹君は電車のなかからその様子を見ていました。 電車は遺体を引かないようにゆっくり走っていました。
 
これが5歳10か月の正樹君の、原子爆弾が落とされてからの4日間の体験です。
 
今回のノーベル平和賞の受賞理由に「核のタブー」という言葉が何度も出てきました。 「核兵器は絶対に使われてはならない」というタブーです。 そしてそのタブーが破られないためのキーが被爆者の語る被爆の実相だ。 ということでした。
 
核兵器はなくすことはできないかもしれない。 だけど「核兵器を絶対につかってはいけない」この強い信念を人類はいまこそ持たなくてはならないのだと、5歳の正樹君の体験を聞いて思うのです。
 
被爆者がまだ生きているうちに多くの人に聞いてもらいたい。
悲惨だから、怖いから、ではなくノーベル平和賞を本当の世界平和につながる確実な一歩にしていきたい。 広島の祈りが世界に届きますように。 世界が平安でありますように。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
ひーまま(READINGLIFE編集部ライティングX)

大阪生まれ。2歳半から広島育ちの現在広島在住の65歳。2023年6月開講のライティングゼミを受講。10月開講のライターズ倶楽部に参加。様々な活動を通して世界平和の実現を願っている。趣味は読書。書道では篆書、盆石は細川流を研鑽している。

 
 

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2024-11-13 | Posted in 週刊READING LIFE vol.285

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