ナミコはホントにかわいいな《週刊READING LIFE Vol.296》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/2/20/公開
記事:後藤尚子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「ナミコはホントにかわいいね」
そう言ってくれるのは娘のマヒロだ。
マヒロは母親であるわたしのことを名前で呼ぶ。幼いころは「かあちゃん」と呼んでいたが、中学生になるかならないかのとき、
「かあちゃんなんてもう恥ずかしい。でも、今更『ママ』とも、『お母さん』とも呼びたくない。だから、名前で呼ぶね」
さらりとそう宣言して、それ以来、人前でも遠慮なく「ナミコ、ナミコ」と呼び始めた。
それがマヒロの呼びたい呼び方なら、と、わたしは自然にそれを受け入れた。
半世紀近く生きてきて、娘から「かわいい」と言われる母親。
はたから見たら、少し奇妙かもしれない。わたしもちょっとこそばゆい。でも、その言葉を否定したくはなかった。さえぎりたくもなかった。
「かわいい」と言われることは、わたしには特別な意味があった。
わたしには兄がいる。
1歳3ヶ月しか離れていない年子の兄だ。幼いころ、わたしにとっては、とても手の焼ける兄だった。
弱虫で、泣き虫で、幼稚園に行かないと言っては泣きわめき、母にしがみつく。困りきった母の手から幼稚園の先生に引き渡される様子は、まるで強制連行だ。かすかに残る記憶。
兄から見れば、わたしは生まれてからたった1年3ヶ月で親の愛情を奪った、憎い生き物だったのかもしれない。よく叩かれて泣かされた。力では絶対優位だった兄は、容赦なくわたしをねじ伏せた。お気に入りの傘も壊された。
だが、おとなの前ではそんな兄が泣きわめいている。わたしに見せる暴力的な態度は一切あらわさず、誰かに寄り添ってもらわないと生きていけない赤ん坊のようにギャーギャー泣いている。それを見ながら、わたしはたぶん冷めていた。胸の奥がひんやりする感覚を今でも覚えている。そして、「ああはなるまい」と、そのとき決めたのだ。
5歳くらいのとき。
母が出かけて二人で留守番をしていたが、さみしさに耐えられなくなった兄が、玄関先でベソベソと泣き出したことがある。「おかーさん、おかーさん」と言いながら、ボロボロ涙をこぼす兄を見たわたしは、「おにいちゃん、大丈夫よ。お母さんは必ずこのうちに帰ってくるのだから、待っていれば大丈夫よ」と言って兄を慰めていた。
この一部終止を近所のおばさんが目撃していて、後日、「ナミコちゃんはしっかりした子ねえ」という言葉とともに、母に報告したらしい。
そう、「ナミコちゃんはしっかり者」なのだ。
もちろん兄より体は小さかったが、近所の人たちは、「ナミコちゃんのほうがお姉ちゃん」と思っていたらしい。いえいえ、妹です。いつの間にか、兄よりしっかりしてしまった妹です。
だが、一度「しっかりナミコ」になってしまった以上、「しっかりしてないナミコ」が存在することは許されなかった。両親が、頼りない兄のサポート役をわたしに期待していたことにもなんとなく気づいていた。
きちんとすること、人に迷惑をかけないこと、さりげなく兄をサポートすること。小学校に入り、なまじっかお勉強のできたわたしは、これに、優等生であること、を加えて、まわりのおとなが期待するナミコ像を作り上げていった。
それがどことなく、つまらない人間であるような気もしていたが、そう自在に自分を豹変させられるわけもなく、「しっかりナミコ」は、クラス委員もし、読書感想文で賞をとり、たまに兄が友だちの家に遊びに行くときも同行した。
「ナミちゃんも一緒に行きなさい」
わたしがいると、母は安心だったのだろう。頼りになる妹は、いつもがんばって、気を張って、自分を「期待されるナミコ像」に縛り付けていた。
そんなわたしが、「わたしへの誉め言葉は、いつも『しっかりしてるね』だな」と気づいたのは、いつのことだったのか。
やさしいね、でも、かわいいね、でもない。
しっかりしてるね。
いつしか兄は、弱虫でも泣き虫でもなくなっていた。自分の気持ちを素直にあらわすことのできる明るい子どもになっていた。ときどきポンコツなことをやらかしても、おとなに叱られても、友だちから好かれ、先生にも目をかけてもらえる。今どきの言葉で言うなら、陽キャというやつだ。
対して自分は、根暗ではないにしても、どこか固くて融通の利かない、魅力に欠ける人間のように感じていた。お勉強はできるし、決まりを守ることもできる。おとなからは一定の評価がある。
でも、自由にのびのびとふるまうことのできない、四角四面で、ただしっかりしている、というだけの人。
かわいげもない。かわいげがない。かわいくない。
かわいいという言葉は、可愛いと書くように、愛されている感じがする。
辞書を見ると、
小さいもの、弱いものなどに心惹かれる気持ちを抱くさま。愛情をもって大事にしてやりたい気持ちをおぼえるさま。いかにも幼く、邪気のない様子で、人の心をひきつけるさま。あどけなく愛らしい。
ほかと比べて小さいさま。
無邪気で、憎めない。すれてなく、子どもっぽい。
かわいそうだ。ふびんである
などの意味がある。
無邪気で、人の心をひきつける。愛らしい。すれてない…か。
計算高く、人からどう評価されるかを基準に生きている自分は、愛らしくもなく、邪気だらけだ。すれまくって、かわいげがない。
実際、子どものころの写真を見ると、わたしはいつも「ぶてくされている」。
ふてくされている、より、ふてくされているさま。それが、わたしの造った言葉「ぶてくされている」。
つまり、全然かわいくない。
だから、誰も「かわいいね」なんて言ってくれない。
でも、本当は言ってもらいたかった。
しっかりしてなくても、がんばってなくても、ポンコツでも、可愛がられたかった。愛されていると感じたかった。かわいい、は、そのままの自分が愛されているという証の言葉。
「しっかりした子ね」なんて評価してもらわなくてもいい。
ただただ、「かわいいね」と言われて、愛されたかった。
「ナミコはかわいいね」と言われたかった。
それから時が流れた。
わたしは母になった。
自分がしっかり者であることを期待されて育ってきて、それが重荷だったせいか、子どもに過剰な期待をかけることはするまい、と決めていた。
そして、しつこいくらい「かわいい、かわいい」と言って子育てをした。
二言目には、「マヒロはホントにかわいいね」。
実際、顔かたちにとどまらず、存在そのものがかわいかった。
なにも言うことがないときでも、「あなたはホントにかわいいね」と言えば、わたしの気持ちが落ち着いたし、叱った後でも「あなたはとてもかわいい子なのよ」と言えば、モヤモヤしたふたりの関係の落としどころが見つかった。
そのせいか、マヒロは自分のことを「かわいい」と認識するようになった。幼いころはそれも気にならなかったが、思春期に入るころ、鏡を見ながら満足げに「マヒロってかわいい顔よね」と言い出したので、わたしのほうがちょっと慌てた。
え? そんな自己認識のままおとなになるのはやばくない? …と戸惑ってしまい、
「う、うん、マヒロはおもしろい顔よね。ファニーフェイス! ほら、オードリー・ヘップバーンもファニーフェイスって言われてたからさ」
と、とってつけたように返したが、マヒロは
「かわいいってことでしょ!」
と、譲らなかった。
そして、
「ナミコもかわいいね」
と言った。
わたしはびっくりした。
初めて「かわいいね」と言われた。
それも娘から。
なぜ、マヒロはそんなことを言ったのだろう?
そうか、かわいいと言われ続けた子は、他者のこともさらりと「かわいい」と言えてしまうものなのか。そうだ、そうにちがいない。
「かわいい」の言葉は、連鎖し、循環していく。
思い返せば、その昔、わたしは他者に「かわいいね」などと言ったことがない。だから、循環が起きなかったのかもしれない。
マヒロは、充分に愛され、愛を感じて育った。自分が可愛がられていることを知っている。他者にも、母親にさえも「かわいいね」の言葉をかけてあげられる。つまりは、愛されていることを感じているから、他者にも愛を分け与えることができるのだろう。それも、なんの邪気もなく。
わたしは、わたしは、どうだったんだろう?
愛されてなかったのかな?
しっかり者を期待されるだけで、愛されていなかったのかな?
いいや、そうではない。そうではない。
愛を感じられなかったのだ。わたしはしっかりすることに必死で、いっぱいいっぱいだった。愛を感じる余裕がなかっただけなのだ。
それは、愛されていなかったということではない。充分に愛されていたのだ。
あたたかい家に住み、毎日食事とおやつを出してもらい、服も買ってもらった。学校にも行かせてもらい、映画やお芝居も見せてもらえた。本もたくさん買ってもらった。父も母も、何一つ不自由しないように、一生懸命わたしたち兄弟を育ててくれた。
父と母が、わたしたちに与えてくれたたくさんの愛。
ああ、そうだ。わたしは愛されていたのだ。
そのことが、胸のなかにスーっと落ちてきたとき、ふと、父が言っていた言葉を思い出した。
「ナミコはホントにかわいいな。な、かあさん。ナミコはかわいいよな」
マヒロが生まれたときも、こう言っていた。
「マヒロはホントにかわいいな。ナミコの小さいときにそっくりだ。な、かあさん」
となりには、満足げにうなずく母がいた。
間違いなく、父も母も、何度もそんな会話を交わしていた。そして、わたしは何度も何度も、その会話を聞いている。
わたしは可愛がられていた。
ただ、わたしが忘れていただけなのだ。
さすがに今となっては、父も母も、半世紀を生きた娘に「かわいい」と言うことはないだろうが、可愛がられ愛されて育った、そのことだけで充分だ。
そして時折、マヒロから「かわいい」と言ってもらえる。この上ないしあわせな母親だ。
ああそうだ、この次に帰省したら、母に「かわいいね」と言ってみよう。
父にも言ってみようかしら。いやいや、それはちょっと恥ずかしい。ここはひとつ、マヒロに協力してもらおう。彼女なら、無邪気に言うことができるだろう。
「じいちゃんも、ばあちゃんも、ホントにかわいいね」
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