週刊READING LIFE vol.298

母の死とロックンロール《週刊READING LIFE Vol.298 ロックンロール》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2025/3/3/公開
記事:パナ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
霊柩車の後部に腰をかがめて乗り込み、母の入った棺に手をかける。走り出した車の窓の外に広がる空は、どこまでも突き抜けるような青さだった。
 
母(享年56歳)が亡くなったのは私がまだ27歳の時だ。
仕事もお友達と遊ぶことも大好きで「明朗快活」を絵に描いたような母は、社交性の高さや人のことを放っておけないお人よしな面も手伝って、常にお友達に囲まれていた。
 
接客業が性に合う母は、長年めがね屋さんで働き「お客さんの話を聞いて似合うメガネを提案するのって本当に楽しいのよ~」とイキイキしていた。ただ話を聞くだけでなく、ここぞという時には確かな強さでお勧めするブレない姿勢がお客様にも受け入れられたのか、売り上げも上々だったらしい。
 
中学生や高校生の頃の私が帰宅すると、日替わりで誰かがあがってお茶していたりして、あまりの頻度に(サロンかよ)と言いたくなる時もあったが、母は気にせず「ほら、ご挨拶しなさいよ」とにこやかに笑った。しまいには、「発表会の前に〇〇さんに見てもらいたいから」としっかり着物を着て踊り出す強者も登場したりして私を笑わせた。大らかな母はそんな客人にも動じることなく「あら~上手よ~」などと日本舞踊のにの字も知らないくせに適当な合いの手を入れた。客人が満足して帰っていくと「面白い人でしょ」とウインクでもせんばかりの笑顔でそうのたまうのだった。
 
また母は「ダイスキ妖怪」としても知られていた。人をつかまえてはすぐに「あなたのそういうとこ、ダイスキ」と言って回るのだ。
 
新しく仲良くなったお友達にも、まだ小さい姪っ子たちにも、もちろん私にもその手をゆるめることはなかった。「やっだぁ~」と日本人らしく強烈な照れで返す者、はにかむ者、わかりやすく笑顔になる者、反応はさまざまだったが褒められて嫌な人なんて結局いないのだ。
 
「あんたは本当においしそうにご飯を食べるねぇ」
「元気のいい挨拶だったわぁ」
 
私にもたくさんのハートマークを、目を細めるようにしながら与えた。
ダイスキ妖怪は、周囲の人間たちが発する、母に対する「ダイスキ」も回収することになった。
 
また、人に何かをプレゼントすることも好きだった母は、お返しで何かを頂く機会も多く(お金という概念がない時代なのか?)と思わせるほど物々交換で互いを潤したりもしていた。
 
部屋の隅々まで綺麗にお掃除をするような几帳面なタイプではなく、四角い部屋は張り切って丸く掃くタイプだし、家庭訪問の時なんて「先生、これね、私が作った紅茶ゼリー! ね! おいしいでしょ!?」と笑顔で脅迫したりしていたが、どれもこれも『チャーミング』という鎧で全てをねじ伏せるような強さがあった。
 
ある意味バランスの取れていないデコボコな人間ではあったのだが、好きなことには一生懸命に力を注ぐその姿は、まさに「生(せい)」のエネルギーの塊! という感じであった。
 
そんな物語が突如急展開を迎えたのは、母がもうすぐ54歳になろうとする夏の事だった。
お友達との温泉旅行に出かけるため、玄関でいそいそと靴を履こうとしていた母の下腹部にツンッとした痛みが走った。結局そのまま約束の旅行には行ったものの、あの一瞬の痛みに違和感しかなかった母は旅行から戻りすぐに受診した。
 
にわかには信じがたい結果だった。
卵巣がんがだいぶん進行していたのだ。
 
卵巣がんの特徴として、初期ではほとんど症状がない。だが、進行するとお腹全体が張ったりお腹にしこりを触れたりする。よくある健康診断では卵巣がん検診がメニューに組み込まれていない事が多く、自発的に検査を受けなければ初期発見が難しい病気だ。
 
早急にセカンドオピニオンも済ませ、進行中の卵巣がんということで間違いないという所見になった。あまりの急展開に頭の整理が追いつかない家族に対して、母は超がつくくらい気丈に振る舞う。もし私に同じことが起きたら同じように振舞う自信はない。それくらい堂々としていた。まさか、これから迎える戦いに『チャーミング』の鎧は効果を発揮しないだろうが、母はたくさんいるお友達に一件一件電話をかけ明るい声でこう言った。
 
「私ね、がんになっちゃったの。入院して手術してくるからね!」
きっと突然の宣告に戸惑ったお友達が泣いたりしているのだろう。母は「ばっかねぇ! 泣かないの! 手術したら治るんだから」と笑いながら励ましたりしていて、もはやどっちが病人だかわからない。
 
誰に電話するかのリストを横線引いてチェックし終わると、4つ離れた姉に向かって言った。
「ちょっと、こっちに来なさい」
さっきまでの笑いはどこに行ったのか、母の眼差しは真剣そのものだった。
「今から、通帳とか保険とか、色々大事なことを教えておくから」
父だけでは不安だったのか、しっかり者の姉にも託そうとしたらしい。
 
「イヤだ! そんなこと聞きたくない!」
姉は珍しくわんわんと泣きながらどうしたって受け入れられない現実を振り払おうとしていた。私はいうと、母の言葉を鵜吞みにして(そんな大袈裟な~、だって手術すれば治るんでしょ?)などと高を括っていた。何もわかっていないのは私の方だったのに。
 
それから亡くなるまでの三年間、私は強い緊張と緩和の繰り返しを強いられることになった。母の手術は無事成功し、悪い部分は全部取り除いたとされたが、もちろん転移などの心配がまったくないとも言えなかった。残念ながら転移や再発もありつつ、数値を見ては入院する日々を送っていた。
 
それでも自宅療養を許されていたある日の晩、母の急変に気付いた。夜、リビング横の和室で、すでに眠っていたはずの母の様子がおかしい。うんうんと唸り寝苦しそうで「ちょっと」と呼ばれた。近づいてみると何だか視線がぼんやりしていた。
 
あっ、これはおかしい。
父にすぐ報告し、家の車でいつも入院している病院まで、夜の高速を走った。今思えば救急車を呼べばよかったのだが、後部座席にぐったりとする母とそれを支える父、私は慣れない父のクラウンを一生懸命安全運転でそれでも少しは速いスピードで高速を走った。
 
病院に着くとやはり血圧が下がり過ぎているということで、即入院となった。
真夜中の病院に母を置いていくのは忍びなかったが、父も私も明日からの仕事を休むわけにもいかず、自宅へとまた戻った。
 
帰り道、疲れた父に代わり、やはり私が運転を担った。
私はカーステレオに手を伸ばすと、音楽を大音量でかけた。何をかけたかまでは正直覚えてないが強力なリズムでどちらかというとガンガン頭に響いてくるようなやかましい音楽だった。
美しい旋律のクラシックでもなく、心を明るくするポピュラーでもなく、それはロックだった。
 
父がふっと笑いながら言った。
「お前、やけに威勢がいいな」
「まあね」
私はあえて軽い調子を意識して応えたが、本心は全然違っていた。
 
違うんよ、お父さん。
ねえ、今さっき恐くなかった!?
もしかしたらお母さん死ぬかもって、思わんかった!?
私めちゃくちゃ恐かったんよ。死んだらどうしようって!!
 
私は大きくて真っ黒な荒波みたいな不安に自分の体がさらわれないように、必死に地に足をつけようとした。心を奮い立たせるカンフル剤みたいな役割がロックンロールだった。口に出したら本当になってしまいそうな不安と戦うために大音量のロックが必要だったのだ。こうして私たちはその場にうずくまることもなく無事に自宅に戻った。
 
 
 
あの晩、一命を取り留めた母だったが、初めての告知からちょうど三年が経つ夏の日、母は家族に見守られながら息を引き取った。
 
母からの最期のプレゼントだったのだろうか。
斎場の空きの都合で、本来ならその日の晩、もしくは翌日の晩には通夜が執り行われるところ、なんと母は丸二日以上安置されることになった。
 
思いがけず告別式までゆったりとしたスケジュールになってしまったおかげで、遠方からも母のお友達がわざわざ飛行機の距離を来てくれたりした。私たち家族はというと、もう確かに息はしていないのに、母の体がそこにあるというだけで変な話嬉しく、一緒に記念撮影をしたりした。肉体が死んでいても、母は母なのだ。
 
無事に告別式までが終わり、いよいよ火葬場に行く段取りがなされた。
「おい、お前、お母さんについてやってくれるか?」
父の言葉で、家族のなかでもなぜか私が大役を仰せつかることになった。
もうすぐ本当のお別れがやってくる。たとえ棺に入っていても一番近くで母を感じていたい。
 
参列者が見守るなか、火葬場まで先頭を走る霊柩車に母の棺が乗せられ、続いて私も後部座席に座った。
 
パ――――――――――――――ッ。
クラクションの音が響き渡る。みんなが頭を深く下げているところ、車はゆっくり走り出した。
 
私は愛しい気持ちで棺に左手をかけた。右側の窓の外には夏らしい青が広がっている。
なんだか不思議な気持ちだった。
 
今まで散々泣いたのだ。今さら(受け入れられない、いやだ)というのも違っていた。
その時だった。
私の頭のなかにハッキリとした一曲が流れてきた。
ロックバンド くるりの「ジュビリー」という曲だった。
 
姉の影響で聴く事が多かったくるりだったが、この時の心情にあまりにもピッタリ過ぎて他の曲じゃダメで、今の私を説明するならこの曲しかない。そんな感じだった。
 
静かな入りの割にどんどん壮大さを見せるこの曲は、サビのあたりで聴く者を温かく優しい光で包み込む。喪失と再生を謳う歌詞は、離れ離れになってもそこに絶対残る何かがあることを教えてくれるのだ。
 
これは母の闘病に真っ向から向き合い、不安も怖さも受け止め乗り越えた先にしか見えなかったギフトだった。
 
母も辛い状況からもう卒業できるんだ、いいじゃない。みんなそれぞれ頑張ったし。
強がりでもなく心の底からそう思った。
さみしいけれど、これで終わりじゃない。母と私の関係はこれからも続くし、これまで母が遺してくれた形には見えないものの大きさを今一度噛みしめた。
 
母が亡くなる二ヶ月前にリリースされたばかりの新曲だった「ジュビリー」は、私が新しい一歩を踏み出していけるように用意されたのかもしれない。図々しいがそんな事も思った。
 
対象への思い入れが強ければ強いほど、それを失った時の喪失感は想像を絶するほど深い。
しかし、深い分、周囲に与える光は強いのかもしれない。
 
母と交わした言葉の数々、抱き締められた時の忘れがたい温もり、私を見つめる時の愛おしそうな眼差し。母に愛されていた実感が、私という人間を確立し、これから先も生きていくんだというエネルギーを与える。
 
くるりの歌は、そんな事を教えてくれた。
 
高速を走った時の大音量のロックは私を励まし、母との別れの痛さを軽減するためにロックは鎮静剤にもなった。
 
人生を支えるロックンロールがあってよかった。
私はロックンロールを聴いて今日も自分を励まし、癒す。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
パナ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

鬼瓦のような顔で男児二人を育て、てんやわんやの日々を送る主婦。ライティングゼミ生時代にメディアグランプリ総合優勝3回。テーマを与えられてもなお、筆力をあげられるよう精進していきます! 押忍!

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2025-02-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.298

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