週刊READING LIFE vol.299

導かれた海辺《週刊READING LIFE Vol.299 分岐点》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2025/3/10/公開
記事:マダム・ジュバン(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「よし、次の波だ! 来るぞ来るぞ~!」
「キャー!!」
しっかりと両腕でボディボードの端を掴み、私は腹ばいになって波に背を向けた。
うまく乗れたらサーッと気持ちよく波打ち際まで滑っていける。
たったこれだけのことなのに存外難しくて、ひっくり返り水を飲み口の中まで海になる。
「あー全然だめ。難しい……。でも楽しい!」
「どんくさ~」夫が大きな声でからかう。
初老の私たちがこんな風に波と戯れていても、ここでは誰も気に留めない。
湘南の海は今日もおおらかな顔をして私たちを迎えている。
「すまん。そろそろ時間だ。先帰ってるよ」オンライン会議の予定がある夫がビーチを後にした。
 
「ずいぶん楽しそうね」
砂浜に敷いたレジャーシートに戻ると黒い帽子に黒いサングラス、大きなマスク姿の女性が私に声をかけた。
「ごめんなさい。うるさかったですね」
「いえ、いいのよ。あんまり楽しそうだから……」
「ボディボード、初めてなんです。難しいけど面白いですよ」
「そうなの」
会話が続かない居心地の悪さに私は尋ねた。
「今日はご旅行ですか?」
「ええ、まあ、そんなところかしら」
サングラスの奥の瞳が笑っていないのは確かだ。おまけに苦しそうに肩で息をしている。
「大丈夫ですか?」
「ええ……大丈夫」
小さくそう答えると彼女はバッグから小さな吸入器を取り出した。
「シュッ」大きく深呼吸してもういちどシュッと吸い込む。
「ふう……」
やっと楽になれたのか女性は落ち着きを取り戻しペットボトルの水をゴクリと飲んだ。
「あの、失礼ですが喘息ですか?」
「ああ、そうなの。よくわかったわね」
「私も以前それ使っていたから……。喘息辛いですよね。
あの、もしよかったら向こうでちょっと休みませんか?」
私はすぐ傍の白いビーチハウスを指さした。最近の海の家はどこもお洒落で海外リゾート風の店が軒を連ねている。
初対面の女性をお茶に誘うほど私は社交的な人間ではないが、妙にこの女性が気にかかった。
「そう? 嬉しいわ」
胸元に杖を引き寄せ立ち上がり女はゆっくりと砂浜を歩き出した。その姿はまるで10年先の私のようだった。
 
カフェの椅子に坐り、帽子とサングラスを外した女を見て私は言葉を失った。
「!!!!!!!」
そこにいたのは私。
私と瓜二つの見知らぬ女だったのだ。
いや正確に言えば私に似ているがもっと痩せて顔色もよくない。
背中を小さくまるめ坐る姿は明らかに私より老けている。たぶん端から見たら私たちは姉妹に見えるのではないだろうか。
「どういうこと? あなたは私の何なんですか?」
あまりの驚きに私は混乱し大きな声を出した。
(私に姉がいた? まさかそんな……)
「だから、私はあなたなのよ。言ったでしょ。あなたが選ばなかった道を選んだのが私」
そんな馬鹿な話があるものか。
最近世間では詐欺事件が後を立たない。だまされてたまるか。
無言で席を立とうとする私の腕を、細い枝のような腕を伸ばして女が掴んだ。
「あなた私を詐欺師か何かだと思っているの? あなたをだましても何の得にもならないわ。
お願い、聞いて。あなた、2019年に横浜からこの湘南に引っ越しをしたじゃない?
そして職も変えた」
なぜこのひとはそれを知っているのだろう。私は思わず椅子に座り直した。
「あれは最高の決断だったわね」
「え?」
「あなたはここに来る前、喘息の持病をもちながら都心の会社に通勤して、家事も一手に引き受けていた。そうよね」
まさしくそうだ。
夫は優しいが家事をしようとしない人だった。
私は通勤に往復3時間かけ、帰りにスーパーに立ち寄り急いで夕飯を作り、週末は溜まった家事をこなす、そんな生活を送っていた。
(たぶん幸せ。これが私の幸せ)
そんな風に自分に言い聞かせながら頑張ってきた気がする。
でも季節の変わり目には必ず体調を崩し、ひどい喘息の発作に見舞われた。
女は続けた。
「あなたがあのまま横浜に住み続けていたら、どうなっていたと思う?」
「もしかして喘息がひどくなっている?」
誘導尋問にまんまとのせられたように私はそう答えた。
まさか、このひとは、横浜に住み続けたもうひとりの私なの?
「そうよ。2019年以降も私は横浜に住み続けた。仕事を続けながら……。
でも2020年コロナが広がった頃、私はまだ満員電車の中にいた。ワクチンもまだなかったから……あっという間に感染してね……」
女はため息をつくと運ばれてきたレモネードスカッシュを一口飲んだ。
「……そのまま、入院。半年間も。」
「そんなに……」
「長く入院すると筋力が落ちてしまうのね。
退院してからも喘息は相変わらずだし、体調はずっと悪いまま。もう仕事もできない。すっかりお婆さんよ」
女は深くため息をついた。
身体中から人生への諦観が滲み出ている。
しかしこのひとが言うことが本当なら、今ここで暮らす私こそ幻なのだろうか?
ますます頭が混乱してきた。
 
女は続けた。
「私はね、あなたがあの時選ばなかった道を進んだの。
ずっと都会で暮らしていたわ。東京や横浜は便利でなんでも簡単に手に入る。
高層ビル、きらめく夜景、ファッション、よりどりみどりのお洒落なレストランやカフェ……。
でもね健康を失った今は、すべてが色褪せてみえる。
羽ばたけない鳥にとって、都会はただの金色の鳥カゴなのよ。どこにも飛んでいけはしないもの……」
(鳥カゴ……)
彼女が失ったのはきっと健康だけではないのだ。
好奇心や希望、人やモノにときめく心さえも失ったのか、哀しみが張り付いた表情は私までも辛い気持ちにさせた。
 
事実、私たち夫婦は娘たちの独立と介護していた義父が亡くなったことをきっかけに、空気のよい場所への移住を考えた。
私の体調回復のためでもあった。
2019年の5月から、ずっと憬れていた湘南で家探しを始めると運良く3ヶ月ほどで手頃な中古物件が見つかり購入した。
リフォームを終えクリスマスイブの日に転居。段ボールに囲まれた中でクリスマスケーキを食べたのも懐かしい。
そして2020年パンデミックの恐怖が人々を襲った。
もちろんこの湘南でもそれは変わることはなかったが、人が密集する街から距離をおけたことに私たちは少し安堵した。
 
「それにしても昔ダンナは家事から逃げていたよね」
女は苦笑した。
事実、夫は優しいが仕事や趣味の運動で家を空けてばかりで私の不満は積もり積もった。
けれど夫はすっかり変わった。
湘南への移転をきっかけに、夫は家庭という小さな空間を充たすことの幸せに気づいてくれた。
煌めく海とどこまでも続く空、時折姿を現す富士の山、決して便利とは言えない此処での暮らしが私たち夫婦の間にもいい風を運んでくれたようだ。
夫は少しずつ家事をおぼえ私の負担はずっと楽になった。
私は都心の会社を辞め、地元で仕事を見つけ通勤ストレスからも解放された。
「あなた、今はとっても元気そう。いいドクターに巡り会えたんでしょう?」
彼女が眩しそうな顔で私に言った。
なぜこの人は、私がいい医者に出会い、喘息がすっかり改善したことを知っているのだろう?
「あなたはきっと導かれたのよ。ここに来ることは、最初から決まっていたのかもしれないわね」
確かにコロナ渦前のスムーズな移住は、まるで何かに導かれたかのようだった。
「でも誰が私を……」
「あなた気づいていないの?」
女は窓の外を眺めた。
海は穏やかに凪いで静かに煌めいている。
 
その時私の脳裏に突然モノクロ映画のような遠い記憶が蘇った。
夜中に、喘息に苦しむ4歳の私をおぶって走り医院のドアをたたく母。
苦しい息の中でも温かな母の背中が嬉しかった。
小学3年生。激しい発作で苦しむ私。和室に運び込まれた大きな酸素ボンベ。
ただ黙って私の背中を一晩中さすり続けた父。
大人になって結婚してからも母はすぐに体調を崩す私が心配だったのだろう。
「急に寒くなったでしょ? もう冬がけの布団出したか気になって……」
そんな電話をかけてきた。
「子どもじゃないんだから、寒いと思えば布団くらい出すわよ」と心ない言葉しか返さなかった私。
なんて愚かだったんだろう。親の深い愛情になぜ気づけなかったんだろう。
親となった今なら痛いほどわかるのに。
 
「え? まさか父と母が?」
「そうよ。親ってありがたいわよね。あの世でも子どもの事心配してるんだから」
思わず涙が溢れた。
いい歳をしていまだに親に心配をかけていた自分が情けないが、親の深い愛情が心に沁みた。
コロナ渦の直前に、感染リスクの高い都会を離れここに住まいを見つける事ができ、喘息治療に造詣が深いドクターに会えたのもすべて、両親の導きだったのかもしれない。
もちろん湘南へ来ることを決めたのは、自分たちの選択だった。
でも本当はきっと大きな力が背中を押してくれていたに違いない。
 
「じゃあ、あなたは?」
「私は、導かれなかった私。違う道を選んだ私。でも……あなたが元気でいてくれるなら、それでいいのよ」
そう言うと彼女は淋しそうに微笑んだ。
「ひとはいつでも分岐点にいるわ。
どんな子ども時代を送るか、どんな夢を描くか。
何を着るか、何を食べるか、バスを逃すか間に合うか、誰と出会ってどんな仕事をするか、恋をするか、別れるか。
誰と家庭を持つか、ひとりで生きるか、子どもを持つか否か、仕事を続けるか否か。
何処で暮らすか。
ささいな選択も大きな決断もやがて大きな転機となって人生が変わる。
それを選ぶのはあなた。
でもあなたが日々思い描いたことや積み上げた努力が、きっと運を引き寄せてより良い場所へ導いてくれるんじゃないかしら。
もちろんこうしてあなたが幸せに暮らしているのは何よりご両親。そしてそのずっと前から地道に生きてきたご先祖のお蔭でもあるのよ」
本当にそのとおりだ。
私は今あたりまえのように暮らしている自分を恥じた。
「でもやっぱりわからない。教えて。あなたはいったい誰なの?」
今度は私が彼女の細い腕を掴んで尋ねた。
「誰でもいいじゃない。あなたが選ばなかった道を進んだ私はもういないんだから」
ふと気がつくとさっきまでくっきりと見えていた彼女の姿が、少しかすんで見えた。
まるで、朝靄の中に溶けていく人影のように。
「いないって?」
「もういないのよ。この世には……」
彼女の声が、潮風にかき消されるように遠ざかっていく。
最後にくれた柔らかな微笑みももう見えない。
ただ、氷の溶けたレモネードスカッシュがはかない泡を浮かべているだけだった。
 
すっかり陽の落ちた海辺を裸足で歩く。
あれは白昼夢だったのか……。
たとえ夢だったとしても、確かにもし私たちがあのまま同じ場所に住み続けていたら
今の心地いい暮らしはないだろう。
命さえ失っていたかもしれない。
「生きている」のではない。
大きな力で「生かされている」と強く感じた。
60代、いつ途絶えるかもしれない人生の午後で、今の私にできることは何だろうと自分に問いかける。
また新たな分岐点に立っているのかもしれない。
 
「お~い、だいじょぶか~?」
遠くから夫が手を振っている。
私がなかなか帰らないのを案じて迎えに来てくれたらしい。
「だいじょ~ぶ~」
私も大きく手を振って答えた。
もうひとりの私に出会ったことを話したら夫はどんな顔をするだろうか?
きっと夢でもみたんじゃないかと笑うだろう。
でも私は忘れない。
もうひとりの私が教えてくれたささやかな人生の大きな分岐点を。
 
いま静かに燃えながらゆっくりと陽が沈んでゆく。
その向こうで微笑む父と母の陰が見えた気がした。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
マダム・ジュバン(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

本と書店が好きすぎて、とあるブックカフェで働く。
マダム・ジュバンの由来は夫からの「肉襦袢着てるから寒くないよね」というディスリから命名。春になってもジュバンが脱げない60代。

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2025-03-03 | Posted in 週刊READING LIFE vol.299

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