あの夏、君は小さくうなずいた《週刊READING LIFE Vol.304 恋はいつでもハリケーン》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/4/14/公開
記事:大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
※この記事はフィクションです。
あの日のことを思い出すと、決まって風が吹いている気がする。
神奈川の海沿いにある中学校。潮の香りを含んだ風が、教室の窓からふいに入り込む。中学3年生の夏。僕の初めての告白は、そんな風の中で起こった。
40歳になった今でも、あの日のことを思い出すと、胸の奥が少しざわつく。声をかけるだけでどきどきしていた自分。目を合わせられなかった自分。けれど心の中は波のように揺れ動いていた。あれが、僕の人生初めての大きな感情の揺れだったのかもしれない。
美月さんを好きになったきっかけは、もう思い出せない。
1年のときから同じ学年だったけど、クラスが一緒になったのは3年になってからだった。彼女は静かな子だった。長い黒髪をひとつに束ね、いつもうつむきがちで、声も小さかった。教科書を読むときの声は、風に乗って教室の隅に消えていくような柔らかさだった。僕も似たような性格で、誰かと積極的に話すタイプではなかった。だから、彼女が教室にいると、気づかれないように目で追っていた。
窓際の席だった美月さんは、時々そこから入る光を受けて、ノートに何かを書いていた。それは文字ではなく、時々小さな絵だった。彼女が何を描いているのか、どんな気持ちで描いているのか、そんなことを考えながら、僕は自分のノートの端に意味のない図形を描いていた。
ある休み時間のこと。
窓から入る風がカーテンをふわりと持ち上げ、教室はいつもどおりざわついていた。男子はプロ野球の話で盛り上がり、女子はグループごとに固まって、小さな秘密でも共有するように、時々笑い声を上げていた。僕はいつものように窓の外を見ていた。海からの風は、夏の強い陽射しを少しだけ和らげていた。
ふと黒板の隅に目をやると、小さな猫の絵があった。とても細い線で、丁寧に描かれていた。黒板の端に、まるで誰にも見つからずに、そっと現れて消える猫のようだった。少し前に、美月さんが一人で黒板の前に立っていたのを見ていたことを思い出す。誰が描いたのか、特に言われなくてもわかった。
クラスの誰とも交わらず、風のようにそこにいて、そっと姿を消すような彼女。絵の中の猫と、美月さんの存在がいつの間にか重なって見えていた。
クラスメイトに「これ、美月さんが描いたんだよ」と言った時、自分でも驚くくらい自然な声が出ていた。
そのとき、後ろの席にいた美月さんと目が合った。彼女はほんの一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに、小さく頷いた。その瞬間、何かが始まったような気がした。
その後も授業中、美月さんの存在が妙に気になった。先生の話も耳に入らず、彼女がノートを取る手元や、窓の外を見るときの横顔ばかりを目で追ってしまう。美月さんは誰とでも普通に話すけれど、特別親しい友達はいないように見えた。休み時間には、いつも一人で本を読んでいた。僕はそんな彼女に話しかける勇気がなかった。だから、遠くから見つめるだけだった。
夏休みに入っても、美月さんは美術部で学校に通っていた。
ある日、買い物帰りに自転車を漕いでいると、帰宅中の彼女を見かけた。昼前の暑い時間帯。海に近い住宅街の路地で、美月さんは一人、ゆっくりと歩いていた。白い半袖のブラウスと紺色のスカート。美術部のカバンを肩にかけ、少し疲れたような足取りで歩く後ろ姿。
「よっ」
思わず、声をかけた。美月さんは少し驚いたような顔をして、小さく会釈をするだけだった。それでも、その日は何だか特別な気分で家に帰った。
次の日も、同じ時間にその道を通ってみた。
やはり美月さんは歩いていた。「よっ」と声をかけると、やはり小さな会釈が返ってきた。それがうれしくて、僕はその道を通るのが日課になった。時には彼女が早く帰っていて会えないこともあったけれど、多くの場合、僕らは同じ時間に同じ場所ですれ違った。
「よっ」
「……」
これだけの交流。言葉を交わすわけでもなく、ただすれ違うだけ。でも、この小さな日常が、僕にとっては大切な時間だった。
汗が首をつたって流れ、蝉の鳴き声が空を満たしていた。
窓から入る風が、カーテンを揺らすように、僕の心も揺らしていた。いつか彼女に話しかけてみたい。でも何を話せばいいのか。好きな音楽のこと?学校のこと?それとも彼女の絵のこと?いろんな可能性を考えながら、結局言葉には出せないまま、日々が過ぎていった。
美月さんに「よっ」と言って、頷きが返ってくる。それだけの数秒が、僕の夏休みの全てだった。
お盆の少し前、暑さの厳しい日だった。
朝からずっと湿気を含んだ風が吹き、空には雲が広がっていた。夕立が来るかもしれないと思いながら、いつものように美月さんが通る道へと向かった。
彼女はいつもより少し遅い時間に歩いていた。疲れているのか、それとも考え事をしているのか、いつもよりも歩くペースがゆっくりだった。僕は「よっ」と声をかけ、彼女からいつもの小さな会釈をもらった。すれ違い、自転車で数十メートル進んだところで、僕は急にブレーキをかけた。
「今しかない」
風の音に紛れるくらいの声で、そうつぶやいた。心臓の鼓動が耳の奥に響く。汗と一緒に、いろんな想いが吹き出してくる。周りに人はいないのに、誰かに見られている気がした。でも、このまま何も言わなければ、夏休みが終わってしまう。新学期になれば、また同じ教室で過ごすことになる。そのときに何も言えなかった自分を責めるのは、耐えられない。
僕はハンドルを切って、彼女を追いかけた。
彼女は小さな公園の前にいた。公園の木々が作る影の中に、彼女の姿があった。
「美月さん!」
振り返った彼女の目が、昼の陽射しを受けて少し眩しかった。僕は自転車を止め、両足を地面につけた。それでも心臓の鼓動は収まらず、手に握る自転車のハンドルが震えているのがわかった。いや、震えていたのは自分の手だった。
「あの……」
言葉がつまる。準備していたはずなのに、いざ彼女の前に立つと、心の中が真っ白になった。でも、この場から逃げることはできない。もうここまで来てしまったのだから。
僕は息を整えずに言った。
「ずっと好きだった。付き合ってほしい」
自分でも信じられないくらい、まっすぐな言葉が口をついて出た。
言葉を待つあいだは、実際には数秒だったかもしれないけれど、僕には永遠に感じられた。美月さんの表情を必死で読み取ろうとした。驚き、戸惑い、そして…何か別の感情。
美月さんは、ほんの数秒黙ったまま、そして、ゆっくりと首を横に振った。
言葉はなかった。首を横に振るという、静かな拒絶。それがすべてだった。
「……他に、好きな人がいるの?」
思わず聞いてしまった。美月さんは少し考えるような素振りをした後、静かに頷いた。
「そっか。ありがとう」
僕はそれ以上、何も言えなかった。僕は無理に笑顔を作り、自転車に乗って走り去った。
その時、頭の中には美月さんと一緒に行く予定だった夏祭りのことや、花火大会のことが浮かんでいた。彼女が浴衣を着て、僕と手をつないで歩く姿。屋台でりんご飴を分け合って食べる姿。浜辺で二人、花火を見上げる姿。その妄想がポロポロと崩れ落ちていくのを感じた。
「じゃあ、またね」
再び自転車に乗り、いつもとは違う道を選んだ。
その帰り道、どこを走っているのかもわからなかった。道沿いに生えている木々はいつも見慣れたものなのに、どれも見たことがないように思えた。太陽の位置も、雲の形も、すべてが違って見えた。
スピードを上げると、景色がぼやけた。でも、それは風のせいじゃない。視界が歪むのを感じながらも、ペダルを漕ぎ続けた。
家に帰ろうとした時、偶然、同級生の瑞穂に会った。彼女とは今年からの付き合いだったけど、なぜだか最初から話が合う子だった。部活帰りだったのか、バレーボールを持っている。
彼女は気だるげに手を上げてきた。
「おー、まさし」
「よう」
平静を装ったつもりだったけど、きっと顔に出ていたのだろう。
「なんか今日、妙にテンション高くない?」
瑞穂は少し興味を持ったように首を傾げた。
「まあね」
僕は、笑った。後から考えると、それは変な笑い方だったかもしれない。でも、その時は自然と出てきた笑顔だった。
それだけだった。
なぜか、心は妙にすっきりしていた。告白するなんて思ってもいなかった。けれど、それを言えた自分に、少しだけ誇りを持てた。ずっと閉じ込めていた感情を、誰かに届けることができた。伝えたことで、何かが終わって、何かが始まったような気がした。
「じゃあ、また学校でな」
瑞穂に手を振って別れた。空は、午後の陽射しがやわらいで、少しだけ色を変え始めていた。
夏の風が頬を撫でていく。空は茜色に染まり、日が落ちかけていた。蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。すべてが普通の夏の夕暮れなのに、僕の中では何かが少し変わっていた。
新学期が始まり、また教室に彼女の姿が戻ってきた。
けれど、僕たちはあの日以来、特別な言葉を交わすことはなかった。いつもの「おはよう」とか「さようなら」はあったけれど、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ、彼女の席が教室のどこにあるのか、どの窓から日が差すのか、どんなふうに彼女がノートに絵を描くのか、それだけはいつも自然と目に入ってきた。
クラスメイトたちと笑っている彼女の姿を見るのは、少し切なかったけれど、それでも彼女の笑顔には救われた。彼女は変わらず静かで、優しくて、時々窓の外を見つめるような子だった。
僕たちの間には「何もなかった」かもしれない。
でも、確かに「何かがあった」と、今なら言える。目に見えない、でも確かに存在した何か。それは、告白の返事がどうであれ、僕の心の中にずっと残り続けている。
あれから25年以上が経った。
美月さんが今どこで何をしているのか、僕は知らない。同窓会の案内が来ても、参加したことはなかった。あえて会いたくなかったわけではない。単純に興味がなかった。
ときどき一人で海沿いを歩く。あの頃と変わらない風が吹いてくる。海の色は日によって変わるけれど、波の音だけはいつも変わらない。リズミカルに寄せては返す波は、心の奥底に眠る記憶を静かに揺さぶる。
風の中に、あの夏の匂いが混じっている気がして、胸の奥が少しだけざわめく。大人になった今でも、あの時の気持ちがそのまま残っている。ただ時を経て、少し形を変えたような気がする。
波が砂浜に描く模様を見ながら、僕は昔のことを思い出す。多くの記憶は時間とともに薄れてしまったけれど、美月さんの静かな表情と、あの日の風の感触だけは、鮮明に残っている。
今、あの頃の自分に声をかけられるなら、きっとこう言うだろう。
「よくやったな。その一歩が、お前をずっと支えてるよ」
初めて好きになった人に、好きと伝えたあの夏。
結果なんて関係なかった。大切なのは、心の中にあるものを誰かに届けようとした、その瞬間だった。振り返れば、その時の勇気は、その後の人生のいろいろな場面で活きている。妻にプロポーズしたとき。仕事で大きな決断をするとき。人生の岐路に立ったとき。いつだって、「今しかない」という気持ちが、背中を押してくれた。
夏の終わり、潮の香りの風が吹く海辺の道を歩くと、あの日がふと蘇る。
美月さんとすれ違ったあの細い路地も、公園のベンチも、今は少し変わってしまったかもしれない。
でも、あの風だけは変わらず、どこかから僕の頬をそっと撫でてくる。
「どうかした?」 後ろから声がした。振り返ると、妻が少し眩しそうに手をかざしていた。海沿いのベンチに座っていた僕に声をかけた。
僕は「いや、なんでもない」と笑った。
海風がまた吹いて、髪が少しだけ揺れた。
恋は、いつでも心を揺らす波のようなものだ。
静かに、でも確かに、心の奥に触れてくる。
僕はまた、潮風に吹かれながら、あの夏を思い出す。
揺れて、傷ついて、それでも確かにそこにあった、僕だけの季節を。
□ライターズプロフィール
大塚久(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
神奈川県藤沢市出身。理学療法士。RYT200ヨガインストラクター。2002年に理学療法士免許を取得後、一般病院に3年、整形外科クリニックに7年勤務する。その傍ら、介護保険施設、デイサービス、訪問看護ステーションなどのリハビリに従事。下は3歳から上は107歳まで、のべ40,000人のリハビリを担当する。その後2015年に起業し、整体、パーソナルトレーニング、ワークショップ、ウォーキングレッスンを提供。1日平均10,000歩以上歩くことを継続し、リハビリで得た知識と、実際に自分が歩いて得た実践を融合して、「100歳まで歩けるカラダ習慣」をコンセプトに「歩くことで人生が変わるクリエイティブウォーキング」を提供している。
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