嘘のない場所へ―そんなつもりじゃなかったのに《週刊READING LIFE Vol.307 そんなつもりじゃなかったのに。》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/5/5/公開
記事:マダム・ジュバン(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
(この記事はフィクションです)
そんなつもりじゃなかったのに……。
いったいどうしてこんな事になったのだろう。
でも、彼を信じたい。
2024年7月9日。私は今、バスに揺られている。
これから向かう警察署で何を聞かれるのか、不安だけが波のように押し寄せる。
彼が私のことを話したんだろうか。
(これはただの事情聴取よ)
そう自分に言い聞かせながら深呼吸をした。
「ではもう一度聞きますよ。小野寺沙織さん。あなたは7月6日、上村悠一(かみむらゆういち)さんとは会っていないんですね?」
「はい、会っていません」
「ではその日何をしていたか覚えていますか?」
「はい、私生理痛がひどくて仕事を休んで1日家にいたんです」
「そうでしたか」
真っ直ぐに射貫くような目で私を見た刑事は、パタリと音をたてて調書を閉じた。
「わかりました。ご協力ありがとうございました」
「あ、はい」
何がわかったというのだろう。
突然、聴取が終わり私は逆に不安になった。
「あのお……」
「ああ、もうお帰り頂いていいですよ。何かあればまたご連絡しますので」
疲れた……。
警察署にいたのは1時間ほどだったのに、全身が鉛のように重くてたまらない。
私は言えなかった。
あの夜、彼と一緒にいたことを。
ただ、自分があんな夜を過ごしていたなんて、誰にも知られたくなかっただけ。
すがるように私は近くのカフェに入り席に座った。
半年前のあの日彼に出逢わなければ……。
勤務先の図書館で、私は朝から新しく入った本を書棚に並べていた。
ふと窓の外を見れば気が滅入るような無口な冬空が広がっている。
けれどその沈黙を破るような、私を下の名前で呼ぶ声に思わず振り向いた。
「沙織?」
振り返るとそこには昔愛した懐かしいひとがいた。
「悠一……」
彼、上村悠一と私は大学の同じ演劇サークル仲間だった。
「何年ぶり?」
ただの友だちのように明るく声をかける彼にとまどう。
「え? ああ、あれから25年もたつかしら……」
平静を取り繕った私だが、彼のことを忘れるはずがなかった。
あの頃、大学で毎日顔を合わせるたびに視線が絡み、私たちは共犯者のように大学を抜け出して互いの想いを確認し、愛し合った。何度も、何度も……。
やがて私の中に小さな命が宿っていることに気がついた時、嬉しいと言ってくれた彼。
二人揃って私の父に頭を下げた。
「お父さん、沙織さんを……」
皆まで言わないうちに父は部屋を出て行った。
私の母は私が10歳の時に病死した。
男手ひとつで育ててくれた父には申し訳ないことをしたと思う。でも私は彼と、お腹の子と生きたかった。
けれど数日後、私はささいな事から彼と口論となった。
彼の部屋から飛び出したその時、お腹に鈍い痛みが走った。
気がついた時、私は産婦人科のベッドの上にいた。
小さな命は、はかない泡のように消えていった。
軀も心も傷つき立ち直れない私に対して、彼はどうふるまっていいのかわからなかったのだろう。次第に帰りが遅くなり、私たちは顔を合わせれば言い争いをするだけの仲となっていった。
3ヶ月後「もう、疲れた。さようなら」そう書き残し、私は家へ帰った。
父は黙って私を迎えてくれた。
悠一とはそれきり会っていなかった。
彼のことを想うたびに子どもを失った傷みも蘇る。
そして父を裏切ってしまった罪悪感。
暗いトンネルを抜け出したくて、私は大学卒業後父に勧められるまま見合いをした。
そしてそのまま、よく相手のことを知りもしないで結婚。
人生の大切な決断を、自暴自棄になって決めてしまった愚かな私。
夫はいつも何を考えているのかわからない無口な仕事人間だった。
性についても淡泊な夫とは20年以上セックスレスで、子どももできなかった。
私は孤独を抱えたまま40代も後半にさしかかっていた。
彼と再会したあの日。
別れてから25年もたっているのに、まだときめいてしまう自分に私自身が驚いていた。
「仕事5時で終わるの。ここで待っていてくれない?」
思わず私からそう誘い、近くのカフェバーを教えた。
「沙織、お疲れさま。何呑む?」
職場から急ぎ足でかけつけ息を弾ませる私に、彼はそう言いながら隣の席を開けてくれた。
それから私たちは互いの近況を語り合った。
彼は大学卒業後、大手の広告代理店で働いていた。
「沙織、あの時はすまなかった。あれからずっと謝りたかった。でも勇気がなかったんだ」
「もう済んだことよ。それより、あなた今は幸せなの?」
「幸せ、か……。そんなこと考えたこともなかったな。実は妻とはもうあまりうまくいっていない。アイツも仕事一筋でオレとはずっとすれ違いだ。結婚ってなんなんだろうな……」
驚くことに彼の妻は夕方の情報番組の顔でもある人気キャスター、上村涼子だという。
お互い同じように、結婚生活に行き詰まっていることに私たちは苦笑した。
そしてその日を境にまた私は彼と度々会うようになった。
7月6日。朝から暑い日だった。彼から急に「今夜会える?」とLINEが入った。
いつも会うのは私の休みに合わせて水曜の昼間と決まっているのに。
でも嬉しい。夫は幸い何も気づいていない。
急に仕事仲間で呑みに行くことになったと夫に嘘をつき、私は待ち合わせのホテルに向かった。
今思えばその日の彼は何だか落ち着きがなかった。
しきりにネットニュースを見ていたかと思うと、ウロウロと部屋を歩き回る。
そして突然、強く私を抱きしめたり。
小さく震えている彼に「どうしたの? 何かあったの?」と聞いたが答えはない。
彼の腕の中に身を預けながら、私はただ目を閉じた。
それが正しいことなのかどうかは、もう考える余裕もなかった。
7月8日。私はネットニュースで彼の妻、上村涼子が山中で遺体となって発見されたことを知った。
悠一と再び付き合い始めてから涼子の姿をまともに見ることができず、テレビも見ていなかったが、つけてみると各局がトップニュースに掲げている。
恐ろしさに膝がガクガクと震えて止まらない。
涼子は一昨日の情報番組「夕焼けファイブ」を無断で欠席したという。
それは彼と私がホテルで会っていた日だ。
看板キャスターの最悪の結末に局側は騒然となっている。
「いったい上村さんに何があったというのでしょうか?」
沈痛な面持ちのサブキャスターがそう言うと、急に画面が切り替わり悠一の横顔が画面に大きく映し出された。
記者たちにもみくちゃにされながら、硬い表情で彼が車に乗り込もうとしている。
「いったい何があったんですかあ?」
「奥さんとは最近うまくいってなかったんですか?」
不躾に投げられる質問に何も答えず、彼はようやく車に乗り込んだ。
(悠一……)
しばらくすると突然スマホの着信音が鳴った。
「沙織、オレ……」
「悠一、どうしたの? 何があったの?」
「ごめん、今は何も言えないんだ。でもオレを信じて欲しい。それから……おとといオレと会っていたことを警察で証言してくれないか」
私は何も言えず電話を切った。
ひとのいい悠一が事件に関わっているはずがない。ならどうしてあんな事を私に言うのだろう。
私はテレビを消し、事件についてのニュース報道を血眼になって読んだ。
涼子の遺体は検視の結果、死因はロープによる絞殺と判明した。
事件当日の朝、山梨県甲府駅から涼子を乗せたというタクシー運転手の証言が繰り返し放送された。
「ええ、上村涼子さんだったと思います。サングラスかけてたけど、声でわかりました」
「男の人と何か言い合ってたみたいで……」
運転手はカメラを意識したのか、それ以上は語らなかった。
ギクリとした。
もしかしたら私のことが妻に見つかって、彼は問い詰められたんじゃないだろうか。
そして勢い余って妻を……?
彼はアリバイ作りのために私を利用しただけなの?
私は7月6日の夜のことを思い出していた。
あの日、疲弊した表情で現れた彼。
しきりとスマホを見ていたっけ。
(あ……)
私は思い出した。ホテルに着いてすぐ彼は浴室で電話を受けていたことを。
わざわざ浴室で話す彼。きっと奥さんに電話をかけていると思い私はこっそりドアの隙間から立ち聞きしてしまった。
「電話かけてくるなよ。うん、うん……。
それで終わったのか? うん、そうか、じゃ又……」
その時の彼はぞっとするほど冷たい横顔だったのを覚えている。
「奥様?」
わざと尋ねた私をはぐらかすように抱きしめた彼。
あの時の彼は普段とまったく違っていた。
あの電話は誰かに何か依頼する電話だったのだろうか?
愛した男は別の顔を持っていたのだろうか?
私は机に向かい、あの日のことをひとつひとつ思い出してはノートに整理していった。
7月10日。悠一は重要参考人として警察に連行された。
私は自分の心に何度も問いかけてみた。そして……決めた。
翌日私も再び警察に呼び出された。
私はもう迷ってはいなかった。
あの夜、私は確かに上村悠一と一緒にいた。
彼の様子がいつもと違ったことも、あの浴室での電話も……私は全部知っている。
それでも「信じてほしい」と言った彼の声はまだ耳に残っている。
けれどどうしてもあの浴室で見た冷たい横顔が忘れられないのだ。
信じたかった。でも私はもう彼を愛せない。
不倫していたことが知られたら、世間は私を責めるだろう。
家族にも、職場にも、もう戻れないかもしれない。
それでもいい。
私はようやく、嘘のない自分に戻れるのだから。
3時間後、事情聴取が終わり私はようやく解放された。
悠一と不倫関係にあったこと、本当は7月6日の夜横浜駅近くのホテルで会っていたこと、彼は誰かに電話をしていたこと。
洗いざらい話した私に刑事は言った。
「小野寺さん、ご協力ありがとうございます。必要以上のことが外に出ることはありません」
私の不倫が夫や世間に知られる心配はもう無いのだ。
でも私は私を許していない。
夫にはすべて打ち明けよう。それから先のことはわからない。
ただ私はもう自分に嘘をつきたくない。
翌朝、ニュースでは悠一が「殺人の容疑」で逮捕されたと報じられていた。
そしてあの電話は遺体処理の依頼をしていたと後から知った。
とろけるような甘い日々は悪夢だったと私は思い知らされた。
そんなつもりじゃなかったのに。だけど、これが私の選んだ真実。
私の罪も、痛みも、過ちも。すべてを抱えたまま私は生きていくだけ。
少しずつでも光のほうへ。
□ライターズプロフィール
マダム・ジュバン(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
本と書店が好きすぎて、とあるブックカフェで働く。
マダム・ジュバンの由来は夫からの「肉襦袢着てるから寒くないよね」というディスリから命名。春になってもジュバンが脱げない60代。
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