ピーキーな世代には刺さる、最後の夜明け《週刊READING LIFE Vol.308 夜明け》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/5/12/公開
記事:山田THX将治(天狼院・ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
「まさか忘れちゃいないだろうな。
俺達の青春が帰って来たぜ」
このセリフと共に、或る夏の夜明けを想い出す。
“忘れられない”と表現する方が、的確かも知れない。
先程の台詞は、映画のラジオスポット上で流れた。1980年のことだ。
BGMは、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツの名曲『ロック・アラウンド・ザ・クロック』だ。
その時私は思わず、
「忘れる訳無ぇーよ」
と、ラジオスポットにツッコミを入れていた。
当時の私は、このスポットを珍しく感じた。
何故なら、この作品はロードショー(封切り)では無く、リバイバル上映だったからだ。
しかも、通常リバイバル上映は、封切りから数十年後に行われるものだったのに、この作品に限っては、ロードショーから6年しか経っていなかったのだ。
当然ロードショーで観賞していた私は、勿論、リバイバル上映も観に出掛けた。
この映画の題名は、
『アメリカン・グラフィティ』
と、謂う。
この作品が初公開されたのは、1974年の年末だった。
当時私は、高校一年生だった。
昔から付けていた観賞ノートを見返すと、私は『アメリカン・グラフィティ』を同年9月に先行試写で観ていた。
更に、ロードショー初日(12月21日)に今は無き‘有楽町スバル座’で再観している。それ程までに、『アメリカン・グラフィティ』に感動していたのだ。
ロードショー公開当日は二学期の終業式で、帰り道に当時のカノジョと待ち合わせて観賞したと記録(観賞ノート)に残してあった。
『アメリカン・グラフィティ』は、『スターウォーズ』シリーズで知られるジョージ・ルーカス監督の、劇場公開二作目だ。
『スターウォーズ』前だったルーカス監督(当時30歳)は、私達映画ファンの目線からすると未だ、有望な新人監督と謂った感じだった。
『アメリカン・グラフィティ』の日本に於ける世間一般の評価も、“(アメリカの)高校生が過ごす、夏の一夜”と謂った感じで、高評価と迄は行かなかった。
しかし、当時の高校生(1956〈昭和31〉年4月~1959年3月生まれ)にとっては、憧れのアメリカの高校生活、それも卒業式当日が舞台だったので、カルト的な人気となった。
加えてそこには、当時の時代背景があった。
同(1974)年8月に、“ウォーターゲート事件”に端を発し、現職のリチャード・ニクソン米大統領が辞任した。多感な高校生にとっては、‘現実にこんなことが起こるのか!?’と謂った感覚だった。
米ソ冷戦が緊張感を増し、マスメディアの外電のトップは、必ずと謂っていい程、アメリカ関連の報道だった時代だ。
若者が読む雑誌でも、何かというとアメリカ関連の特集が組まれていた。その代表的例として、『アメリカン・グラフィティ』日本公開後、1年半に“アメリカ建国200周年(1976年)が迫って居たことも有る。
東京中のメンズショップには、建国200周年を記念した、星条旗やリバティ・ベル(自由の鐘)、アメリカの国鳥である白頭鷲(ボールド・イーグル)をあしらったTシャツやグッズが溢れていた。
子供の頃からアメリカに憧れを抱いていた私は特に、そうしたグッズを買い集めたものだった。
私服は全て、‘星条旗入り’と謂った感じだった。
これは、日本だけの特徴かも知れないが、当時は一種の‘アメリカ・ブーム’だったと謂えよう。
来年、建国250周年を迎えるに当たり今年は、何とは無く1974・75年に似ていると思うのは、私だけではあるまい。
映画『アメリカン・グラフィティ』は、低予算で製作(新人監督なので当然)されたものの、本国アメリカでは大ヒットした。
しかし、日本でのロードショーは、然程のヒットとは為らなかった。
しかし、私達高校生には、熱狂的に迎えられた。
何しろ私の友人の一人は、この『アメリカン・グラフィティ』を観て、登場人物の様にアメリカの大学へ進みたいと言い出し、本当に夢を叶えた程だ。
『アメリカン・グラフィティ』の内容はこうだ。
1962年、カリフォルニア州のモデストと謂う田舎町が舞台だ。この田舎町は、ジョージ・ルーカス監督の出身地だ。
謂わば、この『アメリカン・グラフィティ』は、ルーカス監督の自伝的映画でも有るのだ。
夏の終わりでもある9月上旬、モデストの高校3年生達は、溜まり場と為って居る“メルズ・ドライブ・イン”で思い思いに過ごしていた。
学校で行われるプロムに向かう者。いつもと同様に町でガールハントに勤しむ者。年齢を誤魔化して酒を手に入れ、完全に酩酊する者。
各々、高校生最後の一夜を謳歌していた。
しかし、彼等の一部には悩みも有った。
それは、東部のエリート大学へ進学するか如何かと謂うことだった。
時間は、容赦なく過ぎて行く。
彼等の高校最後の一夜も終わりを告げ、新しい朝が遣って来た。
それは彼等にとって、大人への第一日でも有ったのだ。
物語は以上だ。何の盛り上がりも無ければ、ドラマも無い。
只々、高校最後の一夜を騒ぎ通しただけの映像だ。
まさに、高校生が描く‘落書き(グラフィティ)’そのものと謂った感じだ。
海を隔てた高校生である私達は、物凄い共感と憧れを持って迎え入れた。
作品を通して流れてくる、名D.J.ウルフマン・ジャックのナレーションと、オープニングの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』を始めとする、当時のヒットナンバーが、耳から離れなくなった。
それはそうだろう。
『アメリカン・グラフィティ』に大感動した私は、観賞後の帰り道に銀座の山野楽器店に寄り、同作のサウンドトラック・レコードを買い求めた。
そして、収録されているオールディーズ(主にロックンロール)を何度も何度も聴いたものだ。
勿論、カノジョにはカセットテープにダビングし、数日後のクリスマス・プレゼントにした。
後年、と謂っても約30年後のことだが、開場したばかりの“ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)”を訪れた際、私は真っ先に“メルズ・ドライブ・イン”を模したハンバーガー・レストランの前で、写真を撮った記憶がある。
これも、あの“夜明け”を共有出来た為だ。
事程左様に、カリフォルニアの高校生を描いた『アメリカン・グラフィティ』は、その時期に高校生だった僅か3学年だけに刺さったのだ。
もう直ぐ又は、何れの3月に、映画と同様の“分かれて散る夜明け”を迎える学年だ。
当然の結果かもしれないが、ピーキーな世代がカルト的に熱狂した映画と位置付けられた訳だ。
そう謂えば、『アメリカン・グラフィティ』観賞後のクリスマスデートでは、カノジョとこんな会話に為った。
「何で私達は、『アメリカン・グラフィティ』にこれ程迄に惹かれるのかな?」
と、問うたカノジョに対し、私は返答に窮していた。
カノジョは、有名女子校に通う才女だった。質問が、常に高目だった。
遂には、問わず語りに為り、
「私が思うに、舞台となった1962年がキーだと思うんだよね」
「朝鮮戦争が終わったのが、正確には休戦だけど、1953年」
「ケネディ大統領(J.F.K.)が、ダラスで暗殺されたのが1963年11月」
「ベトナム戦争にアメリカが本格介入するのが、1964年」
少し間を置き、
「と謂うことは、この1962年は、アメリカに於ける“最後の楽しい時代”の終焉でも有ったんじゃないかなぁ」
と、どこかの学者が言い出しそうな説を話し始めた。
その頃、勉強不足だった私は、カノジョの話の聴きながら『アメリカン・グラフィティ』の印象に残るラストを思い返していた。
狂乱の一夜が明け、東部の大学へ旅立つカート(リチャード・ドレイファス演)を、仲間達が空港へ見送りに来る。
カートは上空から、出身地であるモデスト眺める。
BGMは、プラターズの寧曲『オンリー・ユー』から、スパニエルズの『グッドナイト、スウィートハート、グッドナイト』に替わった。
画面は昼間だが曲調と雰囲気は、完全に狂乱後の気怠さが残る“夜明け”だった。
そこに、登場人物達のその後をテロップにして流される。
「ビッグ・ジョン・ミルナーは1964年6月、酔っ払いの車との事故により死亡した。」
「テリー・フィールズは1965年12月、ベトナム戦争に出征中、アン・ロク付近の戦闘中に行方不明となった。」
「スティーヴ・ボランダーは、カリフォルニア州モデストで保険外交員として働いている。」
「カート・ヘンダーソンは作家となって、現在はカナダに住んでいる。」
と、謂うものだった。
車好きのビッグ・ジョンが、交通事故で亡くなったこと。
気弱なテリーが、出征していたこと。
東部の大学へ行かない決断をしたスティーヴは、結局一歩も故郷の田舎町を出なかったこと。
進学した、正確には地元を脱したカートは、故郷には戻ることが無かったこと。
どれもこれもが、私の頭の中を駆け回るには十分な事ばかりだった。
この、登場人物のその後をテロップにして流すのは、『アメリカン・グラフィティ』から始まったとされている。
当然、観賞した高校生には、物凄い印象が残ったものだ。
そして画面が暗転し、BGMがアップテンポの『オール・サマー・ロング』(ビーチ・ボーイズ)に替わる。
エンド・クレジットの始まりだ。
明るい曲調は、観ていた高校生に、
『さぁ、楽しかった夜も明けた。映画も御開きだ』
と、告げていた。
暗い映画館内から、明るいロビーに出ると、そこはまるで夜明けの日の出の様だった。
青春映画の金字塔『アメリカン・グラフィティ』を、私は今でも観返すことがよく有る。
私にとっては、甘酸っぱい想い出が蘇ると共に、頭の中を古いロックンロールが流れる。
誰もが一生に一度体験した、あの、懐かしき“夜明け”も蘇る。
そして、もう逢うことが無く為った当時のインテリ・カノジョのことを、
私は一人、想い出すのだ。
□ライターズプロフィール
山田THX将治(天狼院・新ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター)
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を45年に亘り務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
続けて、1970年の大阪万国博覧会の想い出を綴る『2025〈関西万博〉に伝えたい1970〈大阪万博〉』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている
天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46thSeason Champion
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