人間に傷つけられた猫は、人間を信頼することができるか《週刊READING LIFE Vol.306 1%》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/4/28/公開
記事:かたせ ひとみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「あ! 待ってよ!」
あーあ、行っちゃった……私ってそんなに怖い?
この状況、キムタクだったら「ちょ待てよ」と言うに違いない。
久しぶりに実家に帰省すると、飼い猫のコマが私の気配を察したのか、サッと逃げて行った。
いつになったら、私たちの前に姿を見せてくれるのだろう……。
コマは、NPO法人から譲り受けた保護猫だった。
実家には、いつも猫がいた。
野良猫がそのまま居ついたり、捨て猫をもらってきたり。
そして、なぜかすべて三毛猫だった。
近所では「三毛猫ホームズ」と呼ばれていた……かもしれない。
先代の三毛猫が亡くなってしばらく経った頃、母が「また猫を飼いたい」と言い出し、そこから猫探しが始まった。
ペットショップは、最初から選択肢に入れていなかった。
高くて手が出ないという現実もあったけれど、それ以上に、ショーケースの中で光を浴びている猫よりも、目立たずひっそりと陰で生きている猫を迎えたいと思っていた。
ペットショップにいる猫は、きっと私たちでなくても、誰かが飼ってくれるだろう。
それよりも、捨てられた猫や、殺処分されそうになった猫を救いたかった。
話し合ったわけではないけれど、それは、家族の間で自然と共有されていた想いだった。
私たちは、保健所や、保護猫活動をしているNPO法人を当たってみた。
そしてついに、「この子だ」と思える猫に出会った。
のちに「コマ」と呼ばれるその猫は、メスの三毛猫だった。
とても整った顔立ちをしていたので、絶世の美女・小野小町にあやかって「小町」と名付けた。
いつしか自然と呼び名が短くなり、「コマ」と呼ぶようになった。
保護猫だからといって、簡単に「はい、どうぞ」と譲ってもらえるものではない。
譲渡は、ペットショップよりも厳しいかもしれない。
信じがたいことだが、虐待目的で猫を貰おうとする人もいるからだ。
また、軽い気持ちで飼い始め、結局飼えずに捨てる人も後を絶たない。
だからこそ、多くの団体では、安易な譲渡を行っていない。
たとえば、飼い主が年齢的に一生飼育できるか。
もし高齢であれば、飼育を引き継げる人がいるか。
猫が安心して暮らせる環境が整っているか。
そういった点を、厳しくチェックされる。
「飼育放棄をしない」という誓約書の提出や、定期的な報告を求められる場合もある。
しかし、そんな審査は当然のことだ。
それくらいの心構えでないと動物を飼う資格はないと思う。
軽々と要件を満たした私たちは、後日NPOのセンターへ、コマを迎えに行った。
事前に見た通り、とてもきれいな顔立ちの美猫だった。
推定2~3歳とのこと。
体も小さくて細い。
緊張のせいか、コマはゲージの中で体を縮こませて丸まっていた。
こんにちは。今日から私たちが家族だよ。
そんな思いでキャリーバッグに入れたコマを膝に乗せて、車で連れて帰った。
家に着いて、そっとゲージのドアを開けると、コマはおっかなびっくり中から出てきた。
妹がそっと抱き上げると、耳をぺたんと伏せて、怯えた小動物のようにプルプルと震えている。
自分の体に顔を埋め、まるで何かから隠れようとしているかのように、身を固く小さくして震えていた。
そして――。
コマは一瞬の隙をついて、妹の腕からスルリとすり抜けた。
まるで竜巻のような速さで、隣の部屋へビューン! と逃げていく。
そのままタンスの裏に潜り込んでしまい、そこからまったく出てこなくなった。
きっと、新しい環境に驚いているのだろう。
なあに、お腹が空けばそのうち出てくるさ。
しかし、膠着状態は続いた。
コマは全く出てこない……。
あまりかまうのも逆効果だと思い、私たちは、「見たい!」「触りたい!」という気持ちを抑え、じっと待つことにした。
結局、夜12時過ぎても、翌朝になっても、とうとう出てこなかった。
私は、どうしたものかとNPO法人に電話をした。
「あらー、そうなんですねー。出てくるまで放っておいてください。
警戒心が強めの猫ちゃんだから、慣れるのに時間がかかるかもしれません。
でも、焦らず様子を見てあげてくださいね」
警戒心が強いなんて、言ってたっけ?
とにかく、言われたとおりにやってみるしかない。
しばらくそっとしておこう。
私たちは、水と餌だけ置いて、近寄ったり、呼びかけたりするのもやめた。
朝になると餌と水がなくなっているので、とりあえず生きてはいるようだ。
トイレもどうやって覚えたのか、ちゃんと猫砂の上に用を足していた。
しかし、待てど暮らせど、コマは出てこなかった。
「遭遇率1%だね……」
コマは、滅多に見ることが出来ない生き物、イコール珍獣と化していた。
両親と別に暮らしている私は、コマの姿をほとんど見ることなく、実家を後にした。
思い描いていた猫ライフとのギャップに、私は少しがっかりしていた。
ニャーン、ゴロゴロ~、遊んでー、遊んでー。
そんな光景を楽しみにしていたのに、じゃれるどころか、姿さえ見られない。
猫を飼っている実感が全く湧かなかった。
1週間後、母に電話でコマの様子を聞くと、相変わらず姿を見せないと言う。
「だめかぁ……」
保護猫を譲渡する際、トライアル期間というものがある。
相性が悪い等の問題があれば、返却することができる制度だ。
人間で言うと、結婚前の同棲に似ているかもしれない
私は次第にコマのことを可愛いと思えなくなっていた。
こんなに歓迎しているのに隠れてばかりだ。
そんなにここが嫌なら、コマのためにもNPOに返した方がいいかもしれない。
そう思ったとき、母が言った。
「どれだけ人間にいじめられたんだろうねぇ。よほど怖い思いしたんだろうねぇ」
私は、母の言葉にハッとした。
そして、初日に妹に抱っこされたコマが、耳を伏せてプルプルと怯えている姿を思い出した。
コマがこんなに人間を恐れるのにはきっと理由があって、私たちが知らないコマの歴史があるんだ。
コマから過去を聞き出すことはできないけれど、人間に相当怖い思いをさせられたのかもしれない。
叩かれたり、水をかけられたり、虐待を受けてきた可能性もある。
好きで人間を嫌いになったわけじゃなくて、人間がコマを人間嫌いにしただけなんだ。
嫌いになるような辛い経験があるのかもしれない。
だから、あれほど体を震わして怯えるのだ。
反撃して爪を立てるならまだマシだ。
コマは反撃もせず、じっと動かず、ただ体を震わせているだけだった。
それは、虐待を受けている人が、反撃するとその分虐待が長引くことを知っていて、嵐が過ぎ去るのを待っている姿に似ていた。
コマが悪いんじゃなくて、人間が悪いんだ。
なのに、私はなつかないコマに苛立ち、コマの歴史を全く考えていなかった。
「遭遇率1%」は裏を返せば、コマの人間への信頼度1%という意味だ。
もしかしたら1%もないかもしれない。
人間の都合で弱者を苦しめていることを忘れて、人間の物差しで判断する。
なつくから可愛い、なつかないから可愛くない。
それは、人間側の勝手な基準でしかない。
コマは、この小さな体で、外の世界でたった一匹、どんなに怖い思いをしてきたんだろう。
車に轢かれる危険、カラスや他の動物に襲われる危険。
でも一番怖かったは人間の存在かもしれない。
こんな震えるほど怖い思いをしたなんて。
そんな思いをさせた人を心底許せなかった。
これは私の勝手な想像なのかもしれない。
けれど、コマの怯える姿から、その背景を想像すると、胸がキューっと締め付けられた。
そして自分本位な考え方をコマに詫びた。
コマ、ごめんね。
なつかないから可愛くない、なんて少しでも思ってごめん。
NPOに返そうなんて、思ってごめん。
なつかなくても全然構わない。
せめて、世の中にはそんなにひどい人間ばかりじゃなくて、優しい人間もいるってことを、コマにわかってもらえたら、それでいい。
野良猫として大変だった過去も、人間に植えつけられた恐怖心も、ここでのんびりくつろぎながら、少しずつ癒していってくれたらいい。
私たちは、コマの全て引き受けようと決めた。
そして。
薄皮をはぐように、畳の目をひとつずつ数えるように、少しずつ、少しずつ、両親の前に姿を見せてくれるようになった。
実に3年かかった。
遠くからこちらをのぞいているのに、目が合うとサッと隠れる。
餌を持っていくと、タンスの陰に隠れて様子を見ている。
なのに、名前を呼ぶとサッと逃げる。
一進一退を繰り返し、やっと両親の前では、姿を見せてくれるようになった。
しかし、年に数回帰省する程度の私と妹には、相変わらず遭遇率1%だった。
「ただいまー」と言った途端、コマは「普段聞かない声だ!」と危険を察知するのだろう。
サーっと走っていく音が聞こえる。
私たちはキムタク風に「ちょ待てよ」と笑うのだった。
それでも、やっと私と妹の前にも姿を見せてくれるようになった。
数日滞在するうちの最終日にようやく、という感じだったが。
やがて、徐々に姿を見せてくれる時間が増えていった。
最初は帰省期間の最終日だけだったのが、次第に終わりの二日間、やがて初日から。
隣の隣の部屋からこちらを見ていたのが、隣の部屋に、そして同じ部屋に、というように。
ゆっくり、ゆっくり、私と妹の存在を覚え、少しずつ慣れていってくれた。
そして、とうとう抱っこさせてくれる日が来た。
少し緊張している様子はあったものの、初めて来た日のように怯えて震えることはなかった。
NPOで譲り受けてから、ここまで5年かかった。
それほどまで、人間に対する強烈な恐怖心がコマを支配していたのだろう。
その恐怖心を少しずつ乗り越え、こうして身を預けてくれる姿に、喜びもひとしおだった。
ペットショップ出身の猫にとって、人間は生まれたときから仲間であり味方だ。
早ければ初日から人間に甘えられるだろう。
しかし、コマのように人間を敵と思っている猫は、「甘える」ということ自体、理解できないのかもしれない。
ゴロゴロ言うでもなく、体を摺り寄せるでもない。
ただ、じっと抱っこさせてくれているだけ。
それでも、ここに至るまでの過程を思うと、その不器用さがたまらなく愛おしかった。
そして、今年の春、桜の開花宣言が出たその日に、コマは静かに旅立った。
昨年末から腎臓の数値が良くないとは聞いていたが、亡くなる少し前から、食欲がなくなり、元気もなくなっていった。
一度は病院に連れていったが、無理にストレスをかけるより、自然に寿命を全うしてもらおうと、家族で決めた。
医療の手を頼れば、多少の延命はできるだろう。
でも、病院を嫌がっていたコマが、延命処置を望むとも思えない。
無理な延命は人間のエゴに過ぎないと、私たちは判断した。
コマの体調は、坂を転がるように悪くなっていった。
そしてついに、容態が急変した。
それを聞いた妹は、「最期に一目会いたい」と、出張先から急いで駆けつけることにした。
しかし、ちょうど春休みで、新幹線の指定席はすべて満席だった。
立って行くしかないか……。
そう覚悟したその瞬間、満席の座席表に、ひとつだけ空席が現れた。
満席の画面に、たったひとつだけ光る空席――。
もしかしたら、コマが用意してくれたのかもしれない。
「お願い、最期に会いに来て」と。
妹はすぐにその席を予約し、実家へと急いだ。
きっと新幹線の中で、走りたいくらいの気持ちだったに違いない。
私以上にコマを可愛がっていた妹に、なんとか間に合ってほしいと、私も祈るような気持ちだった。
奇跡的に、妹は間に合った。
コマの衰弱した姿に、妹は静かに泣いていた。
ビデオ通話で画面越しに見るやせ細ったコマの姿に、私も思わず涙がこぼれた。
もう死が近いのは、誰の目にも明らかだった。
けれど、妹が来たことで、コマは安心したのだろう。
それまで苦しそうだった呼吸が落ち着き、穏やかな寝息を立て始めた。
妹と母に、頭や体を優しく撫でられている姿は、とても気持ちよさそうに見えた。
そして。
ほんの少し顔を上げ、「ニャ」と小さく鳴いたかと思うと、そのまま息を引き取った。
家族に見守られて、安心して旅立ったのかもしれない。
初めて妹に抱っこされたあの日、あんなに怯えてプルプルしていた。
でも、最期は妹に撫でられながら、眠るように穏やかな顔で、静かに旅立った。
推定16歳、私たちと過ごした期間は13年ほどだった。
1%だった遭遇率は、最期には100%になった。
当初、たった1%だったコマの人間への信頼度は、最期に何%になったのだろう。
世の中、そんなに悪い人間ばかりじゃないと、少しはわかってもらえただろうか。
コマが長い間抱えていた恐怖心が、ほんの少しでも溶けていてほしい。
コマ、天国は、1%たりとも怖い思いをしなくていいところだからね。
安心してのびのび過ごすんだよ。
□ライターズプロフィール
かたせ ひとみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
2024年6月よりライターズゼミに参加。
ありふれた半径3メートルの日常を書けたらいいな、と日々精進中。
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