週刊READING LIFE vol.311

電車での沈黙が導いた、若い二人の恋の結末《週刊READING LIFE Vol.311 あの日の沈黙》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2025/6/19/公開
記事:パナ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
予感は的中した。
お酒が入り送別会がどんちゃん騒ぎと化したあたりから、この場に来てしまったことを猛烈に後悔し始めた自分がいた。
来るんじゃなかった、来るんじゃなかった、来るんじゃなかった……。
目の前で顔を赤らめながら楽しそうにしているみんなが、まるでスローモーションのように見える。会話がちっとも耳に入ってこない。
 
こんなことをしている場合ではないのだ。
 
長年勤めた会社の先輩が退職することになり、その功績を讃えるための大変盛大な送別会であった。円満退社のため、みんな明るく送り出そうとしている。本来なら私もお世話になった後輩の一人として、一緒にはしゃぎたかったのだが、そうはできない事情を抱えていた。
 
余命宣告を受けたばかりの母がいた。
桜が散る季節に「あと3か月ほどになると思う」と医師に告げられてから既に1ヶ月が経過しようとしていた。
父、姉、私の家族3人で日々母の病室を訪れる。少しずつ命の灯が小さくなっていくのを見守る事しかできなかったが、それでも残された母との時間を1秒でも長く過ごすことに大きな意味があった。
 
そんな時にかかってきた、送別会で幹事を任されたという後輩の女子からの電話。
「送別会、やっぱり出席できませんか?」
 
私がいた部署だけが少し前に会社から独立して違う組織になってしまった為、みんなと働いていた場所を去り、私は新拠点にいた。最初はメールでのお誘いだったため、「都合がつきそうにない」という理由で丁重にお断りしていたのだが、先輩の送別会を盛り上げたい一心でその子は食い下がってきた。
「お願いします!! ほんのちょっと顔を出してもらうだけでもいいんで! パナ子さんも来てくれたら、先輩も絶対喜ぶと思うんですよ~!!」
 
彼女は、もちろん事情を知らない。
それに私からも言う気はなかった。
死期が近い母がいることを口に出せば辛くなる。誰にも知られたくなかった。
結局、説得に負けて出席することになった。
 
足を遠ざける理由が、もう一つあった。
このところずっと避けていた人物が、送別会にはやって来る。お付き合いして約3年になる彼氏だった。
 
 
 
意気投合とは、こういう事を言うのかもしれない。
会社の若手が集まる飲み会で、面白いことを言ってはみんなを笑わせる。上にも下にもいい塩梅で距離を詰めることができる彼は、いわゆるコミュニケーション能力が高い人物で、周りに人が集まるようなタイプだった。
(おもろ……)
気付けば彼の言動を追いかけている自分がいた。もう半分好きになっていたのだと思う。クールの真反対をいくような彼に、私自身もかっこつける必要がまったくなく素の自分でいられる事も大きなポイントだった。
 
けれど、自分から決定打を打つのも怖く、なんとなくそのままにしていた。だけど、彼の方も私を悪くは思っていないことが、視線や言葉の端々から感じられた。
 
おそらく両想いであることはほぼ確定なのに、ずっと二人がうじうじしている様子を見兼ねた先輩(のちに送別会の主役となる)がある日「あーっ! もう本当にあんたたちは!! もどかしい!!」と半ば強引にくっつけたのだった。(ラッキー)
 
それからの二人は本当に平和で明るく、まるで高校生みたいにキャッキャとはしゃぎながら過ごした。神社を散策したり、浴衣を着てお祭りに行ったり、ファミレスで語ったり、思いのままに気楽でたのしい時間を重ねた。
 
彼と付き合いだして間もなく、実は母が病気を発症していることが判明し一瞬は家族を震撼させたのだけれど、その頃はまだ展望も明るく、当時24歳の私は(手術すれば治るでしょ!)と強気だった。若さゆえのエネルギーがそうさせたのかもしれない。
でも多分それでよかった。闘病の3年間をすべて繊細な気持ちで過ごしていたらきっと身が持たなかったから。
 
最初の手術を終えて退院し、体力もだいぶん戻ってきた頃、母が言った。
「F君をお家に連れておいで。ご飯を作ってあげるから一緒に食べよう」
実家を離れて一人暮らしをしていた彼への親心だったのだろう。彼に伝えると、嬉しそうに応えた。
「いいの!? 行く行く!」
 
ニコニコと満面の笑みで登場した彼に、母も思わず笑う。
「初めまして! Fと言います! 今日はありがとうございます!!」
美味しい美味しいと母が並べた手料理を口いっぱいに頬張っていた彼は次の瞬間、私たち親子の度肝を抜いた。
 
「あのっ、すみません! 猫まんましてもいいですか!?」
変わらず満面の笑みでそういう彼に(それはさすがにナシ)と私がツッコむより早く母が反応した。
「あら~、F君面白いわね。好きなようにして食べなさい」
吹き出す母を見て安心したのか、彼は手元にあったみそ汁をザッとご飯にかけた。
「あ~、やっぱり美味しいっすね!」
彼のお茶碗は見事にツルツルの空っぽになった。
 
思いのほか、進行は早かったようで、その後母は再発や転移がわかるたび入退院を繰り返した。最初こそ強気でいた私も、母が家にいない時間に比例して少しずつ弱っていった。心配した彼はよく母の事を口にした。
「パナちゃん、お母さんの具合はどう?」
 
聞かれるたび「今はこんな感じだよ」と詳細を伝えていたが、ある日なんだか急にプツリと糸が切れた。
「ごめん……もう大丈夫だから……お母さんのこと聞くの、しばらくやめてくれる?」
母の親族や友人、いろんな方面から病状を聞かれ答える日々に疲れてきていた。初期のようにただ明るい展望だけが持てるという状況では無くなってしまったのだ。
一瞬、彼は固まった表情を見せたが「そっか、わかった」と言うと、まったく別の話題を出してきて元気のない私を笑わそうとした。
 
そして、医師の余命宣告を受けた頃、私は苦しまぎれにこう伝えた。
「ごめん、しばらく会えそうにない。少し距離を置かせてもらってもいいかな」
私の中の優先順位が明確になった、というか正直なところ、母の事以外何か別の事に割く時間はもう1分でも惜しかった。例えそれが、今まで楽しく同じ時間を過ごした彼であっても。
 
今思えば、もう少し方法はあったのかもしれない。
でも、あの若さで全てをうまく回せるほど、私は器用ではなかった。
 
その微妙なタイミングで、問題の送別会が開催されてしまった。
行く気がなかったとはいえ、お世話になった先輩の送別会でひとり浮かない顔をするのは違う。母の病室に置いてきてしまった気持ちのせいで心はざわついていたが、人に気づかれないようにするのに必死だった。最後に一人ずつコメントを求められる場面では
「もう本っ当にお世話になりました! 先輩がいなくなるのマジで寂しいですっ!! 私をおいて行かないでくださいよ~っ!!」とあえて明るく振る舞ったことにより、私の心は死んだ。
 
二次会に行く流れの途中で、人々が道路にわちゃわちゃと停滞している。気づかれないように静かに抜け出す。見えない角度に入るやいなや、私は歩くスピードを速めた。
 
帰りたい帰りたい帰りたい……
お母さんに会いたいお母さんに会いたいお母さんに会いたい……
母以外の、世界の全部のことがどうでもよかった。
 
足早に駅のホームに向かう私を追いかけてきた人が一人だけいた。F君だった。
「ちょっと待って、パナちゃん!」
彼とは会場で少し言葉を交わしただけで、それっきりだった。本当は一人で帰宅したかったのだけれど、それを言うのはあまりに酷な気がして私たちは一緒に電車に乗った。
 
「いや~、先輩の送別会、人数すごかったね。先輩のこれまでの仕事ぶりがそうさせるんやろうねぇ」
感心している彼の言うことはその通りで、仕事に真摯に向き合い重要なポストで長年会社を支えてきた先輩が退職することをさみしがり、他の支店や関係のある業者など本当にたくさんの人が集まっていた。
 
ただ、今、先輩の思い出話に花を咲かせられるほど、私には余裕がなかった。
「うん……そうだね……すごかったね……」
 
わかっていた。
彼だって久しぶりに会った私にもっと何か言いたいはずなのだ。でも、あの時私がもう聞くなと言ったから、彼は気を遣ってしまってそのことに触れようとしない。
電車のシートを横並びに座る彼の体の緊張が、こちらにも伝わってくるようだった。
 
他に話すことがないから、彼はこの場が凍り付かないように次から次に先輩のエピソードを話してくる。いよいよたまらなくなってしまった私はついに言った。
「ごめん、今お母さんのことしか考えられなくて……。先輩の話、聞けない」
 
聞くなと言って気遣う優しさを遮断したかと思えば、今度はそのことで頭がいっぱいだから他の話をするなという。私はどれだけ自分勝手なんだ。振り回される彼にしたら、きっとたまったもんじゃない。
 
でも、私をこの世に産み落とした母というデカすぎる存在がもうすぐこの世からいなくなることの恐怖が、私を奈落の底に突き落とそうとしていた。想像しただけで抱えきれない喪失感だった。その喪失感に飲み込まれないようにするのが精一杯で、彼の優しさに応えることがその時の私には出来なかった。
 
彼もまた、どんな言葉や態度で私を救えるのか見当もつかなかったのだろう。
27歳の私たちが背負うには、重すぎる荷物だったのかもしれない。
 
私が言葉を最後に発したきり、二人は重い沈黙に沈んだ。
ガタンガタンと規則正しく揺れる電車にただ身を任せ、車窓の外の暗い景色を眺めた。本当はネオンが光る明るい夜だったはずなのに、色も無い世界に放り込まれたような気がした。
 
彼の降りる駅が近づいたとき、彼が口を開いた。
「家まで送りますよ~」
努めて明るい雰囲気にしてくれる彼に申し訳なかった。
 
更に3駅が過ぎ、私の家の最寄り駅に着いた。
二人で黙って改札を抜ける。家までの道をトボトボと歩いた。ここ数カ月、気力がいるからとあえて封印していた気持ちを言わなきゃ……そう思った時、彼の方が先に言った。
「もう、ダメなんかな?」
きっと答えがわかっていたのだろう。顔を上げたら、彼は泣いていた。
ひどい態度を取って来たのに、結局最後もこんな風に言わせてしまって、と思ったら私も泣けてきた。
「うん、ごめん。もう今はお母さんのことだけに専念したくて……気持ちがついていかない」
事態を飲み込むのに時間がかかったようで、しばらく彼は黙ったが、やがて落ち着くと手でゴシゴシ目をこすりながら「今までありがとう」と言って頭を下げた。
「私の方こそ、ありがとう。今まで本当にありがとう、ごめんね」
道端に突っ立ったまま、二人でしばらく泣いた。
それが二人の最後だった。
 
沈黙は重い。
でも二人の恋の答えを出すのに、あの沈黙は必要な時間だったのだと思う。電車に揺られながらずっしりと沈んだ沈黙のなかで、私たちは海底から二人にとっての正解を拾った。
 
その後、私は看取るために退職し、間もなくして母は息を引き取った。
喪失感から抜け出すには多くの時間がかかったが、母との最期の時間を集中して過ごせたのは彼が離れることを決意してくれたからだった。
 
風の噂では、彼もパパになったと聞く。
きっと満面の笑みで子供を笑わせる良いパパをやっていると思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
パナ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
鬼瓦のような顔で男児二人を育て、てんやわんやの日々を送る主婦。ライティングゼミ生時代にメディアグランプリ総合優勝3回。テーマを与えられてもなお、筆力をあげられるよう精進していきます! 押忍!

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2025-06-12 | Posted in 週刊READING LIFE vol.311

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