「あんな恥ずかしい人にはなりたくない」と思っていた私が、今ではその“変な人”を受け継いでいる話≪週刊READING LIFE「恥ずかしい人」≫
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2025/8/7/公開
記事:内山遼太(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「Tさん、もう少し腰入れて! そうそう、それそれ! 最高です!」
リハビリ室に響いた自分の声が、壁に反響して戻ってきた瞬間、私は妙に懐かしい感覚に包まれた。その声は確かに私の口から出ているのに、どこか別の誰かの声のようにも聞こえる。まるで記憶の奥底に眠っていた何かが、急に蘇ってきたみたいに。
Tさんは70代の女性で、股関節の手術後のリハビリに来ている。最初は「痛いからやりたくない」「もう歳だから無理」と消極的だったのに、今では私の掛け声に合わせて一生懸命に足を上げている。その表情には、確かな手応えと、ちょっとした誇らしさが浮かんでいる。
「先生の言い方、なんか面白いのよね。恥ずかしがらずに頑張れるの」
Tさんのその言葉を聞いて、私の胸の奥で何かがざわめいた。「恥ずかしがらずに」──その言葉が、遠い記憶の扉を開ける鍵になった。
なんで、あの人のことを思い出したんだろう。
Sさん。私が新人の頃、同じ病院で働いていた先輩作業療法士。あの人の声と、今の私の声が、どこか重なって聞こえたのかもしれない。でも、なぜ今になって?
その疑問を抱えたまま、私の記憶は5年前へとさかのぼっていく。あの頃の私は、今とは全く違う人間だった。
作業療法士として働き始めたばかりの私は、とにかく「恥ずかしい人」にはなりたくなかった。専門職としての威厳を保ち、患者さんからも同僚からも信頼される、そんな理想的な療法士になりたいと思っていた。
だからこそ、Sさんという存在は私にとって理解しがたいものだった。
Sさんは私より5歳年上の先輩で、経験も豊富だったが、とにかく奇抜だった。朝礼で突然歌い出すことがあれば、患者さんの前で変な踊りのような動きをすることもある。声は常に大きく、笑い声は病院の廊下まで響く。「誰も頼んでないのに」と、私は内心でいつもイライラしていた。
特に印象に残っているのは、ある日の午後のことだ。リハビリ室で、脳梗塞後の患者さんが手の運動をしているとき、Sさんが突然「はい、今日は魔法使いになってもらいます!」と宣言した。そして、患者さんの手に割り箸を持たせて「魔法の杖で呪文をかけましょう。アブラカダブラ〜」などと言い始めた。
私は恥ずかしくて、その場から逃げ出したくなった。周りのスタッフは笑っているけれど、私には全く理解できなかった。「なんで、こんなことをするんだろう。患者さんも困っているんじゃないか」と思った。
休憩室で先輩の看護師さんに愚痴をこぼしたこともある。
「Sさんって、ちょっと変わってますよね。あんなに目立つことしなくても、普通にリハビリすればいいのに」
すると、その看護師さんは少し困ったような顔をして言った。
「でも、患者さんたちはSさんのこと好きよ。特に、やる気のない人ほど、Sさんの担当になるとよく頑張るの。不思議よね」
そういえば、残業でSさんが一人リハビリ室で患者さんのカルテを見返している姿を見たことがあった。「明日はどうアプローチしようか」とつぶやきながら、真剣な表情で記録を読んでいる。あの派手なパフォーマンスの陰に、実は地道な努力があったのかもしれない。
でも、当時の私にはそれを理解する余裕がなかった。私にとってSさんは、ただの「恥ずかしい人」「自分には絶対ムリな人」でしかなかった。同じ空間にいるだけで、なんだか自分まで恥ずかしくなってしまう。だから、できるだけSさんと関わらないように気をつけていた。
新人研修でペアを組まされたときは、本当に嫌だった。Sさんが患者さんに「今日は忍者の修行だ!」などと言いながらバランス訓練をさせているのを見て、私は心の中で「早く終わらないかな」とばかり考えていた。
「内山さんも、もう少し声出した方がいいよ。患者さんは励ましの声が一番の薬なんだから」
Sさんにそう言われても、私は「でも、恥ずかしいじゃないですか」としか答えられなかった。すると、Sさんは少し寂しそうな顔をして、「そうか、恥ずかしいか」とつぶやいた。
「でもね、恥ずかしいのは最初だけ。患者さんの笑顔を見たら、そんなこと忘れちゃうよ」
そう言って、Sさんは優しく微笑んだ。その言葉が、後になって私の心に深く刺さることになるとは、その時は知る由もなかった。でも、当時の私の気持ちは変わらなかった。恥ずかしい人には、絶対になりたくない。それが当時の私の信念だった。
転機は、私が働き始めて半年ほど経った頃だった。
Yさんという70代の男性患者が入院してきた。軽度の認知症があり、最近は家族の顔もわからなくなることが多いという。リハビリに対しても非常に拒否的で、「もういい」「帰りたい」ばかり繰り返していた。
担当医からは「認知症の進行もあるし、リハビリは難しいかもしれない。でも、少しでも機能を維持できるよう頑張ってください」と言われていた。チーム全体で試行錯誤したが、Yさんはベッドから起き上がることさえ嫌がった。
私も何度か担当したが、「痛い」「疲れた」「やりたくない」の連続で、全く進展しなかった。優しく話しかけても、丁寧に説明しても、Yさんの心には届かない。むしろ、私が近づくと「あっちに行け」と手を振られることもあった。
そんなある日、SさんがYさんの担当になった。
私は別の患者さんの担当をしていたが、隣のベッドから聞こえてくる声に耳を傾けていた。最初は案の定、Yさんの「やりたくない」という声が聞こえてきた。
ところが、しばらくすると、Sさんが突然変な声で話し始めた。
「おじいちゃん、今日はね、くねくね体操っていうのをやってみましょう」
そして、SさんはYさんの前で、本当に「くねくね」とした奇妙な動きを始めた。腰を左右に振りながら、手をくねくねと動かす。まるで子どもが考えた変な踊りのようだった。
「ほら、おじいちゃんも一緒に。くね〜くね〜」
私は「また始まった」と思って、恥ずかしくて見ていられなかった。きっとYさんも困っているだろうと思った。
ところが、次の瞬間、信じられない音が聞こえてきた。
笑い声だった。
Yさんが、声を上げて笑っていた。この半月間、一度も笑ったことがなかったYさんが、本当に楽しそうに笑っている。
「面白いな、その動き」
Yさんがそう言って、少しずつ手を動かし始めた。Sさんの真似をするように、くねくねと。完璧にはできないけれど、確かに体を動かしている。リハビリを拒否し続けていたYさんが、自分から体を動かしている。
その光景を見て、私は言葉を失った。
「そうそう! 上手上手! Yさん、くねくね名人ですね!」
Sさんの声は相変わらず大きくて、周りの患者さんたちも笑っている。でも、その声に嘘はなかった。本当にYさんを褒めていて、本当に嬉しそうだった。
それから、Yさんは少しずつ心を開き始めた。毎日「くねくね体操」を楽しみにするようになり、次第に他の運動にも取り組むようになった。認知症の症状も安定し、家族が面会に来たときには「今日もくねくねやったよ」と嬉しそうに報告していた。
その夜、私は一人で考えた。Sさんがしていたことは、確かに「恥ずかしい」ことだった。でも、あの瞬間のYさんの笑顔は本物だった。半月間、誰も引き出せなかった笑顔を、Sさんは一瞬で引き出した。
「バカみたいなことをしてるようで、実は本気だったんだな……」
そう思うと、Sさんに対する見方が少しずつ変わり始めた。恥ずかしい人ではなく、自分の「かっこ悪さ」を差し出せる人。自分が笑われることを恐れずに、相手の心に届くことを最優先に考えられる人。
それは、私にはできないことだった。
あれから5年が経った。私は今、リハビリチームのリーダーとして働いている。後輩もでき、多くの患者さんを担当するようになった。
そんな私が最近気づいたのは、自分の口から出る言葉が変わったということだ。
先週のことだった。膝の手術を受けた60代の男性患者、Mさんが「痛いからもう歩きたくない」と言って、ベッドから起き上がろうとしなかった。手術は成功したのに、本人のやる気が出ない。このままでは筋力が落ちて、日常生活に支障が出てしまう。
私はMさんのベッドサイドに座って、少し考えた。そして、突然こんなことを言っていた。
「Mさん、今日のリハビリは『勇者の冒険』です。膝の痛みという敵を倒しに行きましょう!」
自分でも驚いた。なんで、こんなことを言ったんだろう。
でも、Mさんの表情が変わった。「勇者の冒険?」と興味深そうに聞き返してくる。
「そうです。Mさんは勇者で、私は案内人です。最初の敵は『立ち上がりの怪物』。これを倒すために、まずは足の筋肉という武器を鍛えましょう」
我ながら恥ずかしい台詞だったが、Mさんは面白そうに笑った。そして、「よし、やってみるか」と言って、ベッドから足を下ろした。
その日から、Mさんのリハビリは順調に進んだ。「今日はどんな敵と戦うんですか?」と聞いてくるようになり、私も「今日は階段の魔王です」「平行棒の試練をクリアしましょう」などと答えていた。
退院の日、Mさんは言った。「先生のおかげで、楽しくリハビリできました。最初は恥ずかしかったけど、だんだん本当に冒険してる気分になって」
その言葉を聞いて、私は複雑な気持ちになった。嬉しい反面、自分が変わったことに戸惑いもあった。
後輩のBさんに「内山先輩、最近キャラ変しました? 前はもっと真面目な感じだったのに」と笑われたとき、私は初めてSさんのことを思い出した。
そうか、私も「変なこと」をするようになったのか。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、患者さんの反応が良くなったのを実感していた。真面目に説明するより、少し演技がかった励ましの方が響くことがある。恥ずかしさを感じるより、目の前の人の心が動くかどうかを考えるようになった。
昨日も、脳梗塞後の患者さんに「今日は手の魔法使いになってもらいます」と言いながら、手の運動をしてもらった。5年前の私なら絶対に言えなかった台詞だ。でも、その患者さんは笑顔で「魔法使いか、いいね」と言って、一生懸命に手を動かしてくれた。
気づけば、私の中にあの人がいた。Sさんの「恥ずかしさ」を恐れない姿勢が、いつの間にか私の中に根付いていた。
「人に笑われても、目の前の人の心が動くなら、それでいいじゃん」
そう思えるようになった自分が、少しだけ誇らしかった。
「Tさん、もう少し腰入れて! そうそう、それそれ! 最高です!」
リハビリ室に響いた自分の声に戻ってくる。その声は確かに私のものだが、同時にSさんの声でもあった。あの頃、恥ずかしくて仕方なかった先輩の声と、今の私の声が重なって聞こえる。
Tさんは汗をかきながらも、嬉しそうに運動を続けている。「先生の掛け声があると頑張れるの」と言ってくれる患者さんの言葉が、私の胸に響く。
私はなりたくなかった。あんな恥ずかしい人には。でも、いつの間にか似てきた。それは敗北ではなく、継承なのだと気づく。
Sさんは2年前に別の病院に異動し、もう会うことはない。でも、あのときSさんが言ってくれた「患者さんは励ましの声が一番の薬なんだから」という言葉が、今でも私の中で生きている。あの人の「恥ずかしさ」を恐れない精神は、確かに今ここにある。私の中に、そして私の声に。
患者さんを笑わせるために変な動きをする。励ますために大げさな表現を使う。専門職としての威厳より、目の前の人の心に届くことを選ぶ。それは確かに「恥ずかしい」ことかもしれない。
でも、それでいい。
後輩のBさんが、最近私の真似をして「今日は忍者の修行だ!」と言いながらバランス訓練をしているのを見た。5年前の私のように、最初は恥ずかしそうにしていたが、患者さんの笑顔を見て、だんだん自然になってきている。
きっと、Bさんもいつか気づくだろう。恥ずかしい人になることの意味を。自分のかっこ悪さを差し出すことの価値を。
今では、内山が「変なことをする人」として受け継いでいます。
そう胸を張って言える自分が、少しだけ誇らしい。そして、どこかでSさんも笑っているような気がする。
「恥ずかしい人には、なりたくなかった」──あの頃の私は、そう思っていた。
でも今は知っている。恥ずかしい人とは、誰よりも本気で人の心と向き合う人のことなのだと。自分が笑われることより、相手が笑うことを優先できる人のことなのだと。
リハビリ室に響く笑い声を聞きながら、私は今日も「恥ずかしい人」であり続けようと思う。
❏ライターズプロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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