週刊READING LIFE vol.322

頼るというセルフケア ― 孤立からの関係性再起動《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/9/8/公開

 

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

Mさんは70代半ば。長年ひとりで暮らし、身寄りもなく、生活保護を受給しながらの毎日だった。ある日、転倒して骨折。入院とリハビリを経て退院したが、自宅には帰れず、デイサービスを勧められる。

 

「どうせ誰も頼れない」「他人に迷惑をかけたくない」――そう言って関わりを避けていた彼の表情は、いつも硬かった。

 

それでも通所を続ける中で、小さな会話や笑顔が少しずつ彼の心のブレーカーを押し始める。停電していたのは、心だけではなく、“誰かとつながること”への信頼だった。

 

関係性の再起動。それは、社会や家族がいなくても、「新しいつながりを築く力は、自分の中にまだ残っている」と気づくプロセスだった。

 

—–

 

 

 

Mさんの日常は、限りなく単調だった。朝は決まった時間に起き、近所のコンビニで必要最低限の買い物を済ませ、テレビを見ながら一人で食事をとる。電話が鳴ることはほとんどなく、来客もない。70代半ばになるまで、この生活を続けてきた。

 

身寄りはない。家族は若い頃に亡くなり、友人たちとの関係も年月とともに薄れていった。生活保護を受給しながら、誰にも迷惑をかけないよう静かに暮らすことが、彼なりの矜持だった。

 

その日は、いつものように洗濯物を干そうとしていた。足元のスリッパが滑り、バランスを崩して転倒。激痛が走り、動けなくなった。隣人が救急車を呼んでくれたが、Mさんは「迷惑をかけてしまった」という申し訳なさしか感じられなかった。

 

大腿骨骨折。入院とリハビリを経て、2か月後に退院の日を迎えた。しかし、医師と社会福祉士から告げられたのは、「自宅での生活は難しい」という現実だった。筋力の低下、転倒への恐怖、そして何より、緊急時に助けを求められる人がいないという事実。

 

「デイサービスを利用しながら、少しずつ生活を立て直しましょう」

 

支援者たちの提案に、Mさんは首を横に振った。「他人に迷惑をかけたくない」「どうせ誰も頼れない」。この言葉は、彼の心の防壁だった。

 

「停電」とは、自分と、他者・社会・価値との接続が絶たれる状態である。

 

Mさんの心は、まさに停電していた。人とのつながりを断つことで、傷つくリスクを避けてきた。しかし、その代償として、生きる力の源泉である「関係性」そのものが失われていた。電気が止まった部屋のように、彼の心には光が差し込まない状態が続いていた。

 

 

 

最初の数週間、Mさんはデイサービスの片隅で、黙って座っているだけだった。職員が話しかけても、最低限の返事しかしない。他の利用者たちが談笑する声が聞こえても、視線を合わせようとしない。

 

それでも、小さな変化は確実に起きていた。

 

隣に座っていた女性利用者が、手作りの漬物を小皿に分けてくれた。「よかったら、どうぞ」。Mさんは最初断ろうとしたが、「せっかく作ったから」という彼女の笑顔に、つい頷いてしまった。

 

口に含んだ瞬間、懐かしい味がした。母親が作ってくれた漬物と似ていた。思わず「美味しい」と口に出すと、女性は嬉しそうに微笑んだ。「また今度、持ってきますね」。

 

リハビリの時間、理学療法士との何気ない会話に、Mさんは少しずつ心を開いていった。「昔は大工をしていたんです」「家を建てるのが好きでした」。自分の過去を語ることで、停電していた記憶の回路が少しずつ明かりを取り戻していく。

 

ある日、車椅子を押してもらった時、Mさんは小さな声で「ありがとう」と言った。それは、長い間封印していた感謝の言葉だった。職員の「どういたしまして」という返事に、温かいものがこみ上げてきた。

 

小さなリアクションが、周囲との”電流”になっていく。挨拶に応える。お茶を飲む時に「美味しい」と言う。隣の席の人の話に相づちを打つ。これらの些細な行動が、断絶していた人と人との回路を、少しずつ修復していった。

 

 

 

転機が訪れたのは、通所を始めて2か月が経った頃だった。

 

折り紙の名人として知られる女性利用者のタケコさんが、いつものように鶴を折ろうとしていた。しかし、関節炎の痛みで指が思うように動かない。「あぁ、もう駄目かもしれない」と、半分諦めたように呟いた。

 

それを見ていたMさんが、そっと席を立った。「昔、ちょっとだけやったことあるんだ」。恐る恐る声をかけると、タケコさんの目が輝いた。「本当? 教えてもらえる?」

 

二人は並んで座り、一枚の折り紙に向き合った。タケコさんが口頭で指示し、Mさんが手を動かす。最初はぎこちなかったが、次第に息が合ってきた。「そう、そこをもう少し丁寧に」「ここはこうでしょうか」。

 

30分後、美しい鶴が完成した。タケコさんは嬉しそうに鶴を手のひらに乗せ、「Mさん、ありがとう」と言った。「私一人じゃできなかった。助かったよ」。

 

その瞬間、Mさんの心の中で何かが変わった。「誰にも頼らない自分」ではなく、「誰かの役に立てる自分」に再接続していた。長い間忘れていた感覚――誰かに必要とされる喜びが、心の奥底から湧き上がってきた。

 

再起動――それは、過去を取り戻すことではなく、「つながりの中で新しい自分を見出す」ことだった。

 

Mさんは、失った家族や友人を取り戻すことはできない。しかし、新しい関係性の中で、新しい自分の価値を発見することはできた。大工としての技術は衰えても、誰かを支える優しさは残っていた。体力は落ちても、経験から生まれる知恵は健在だった。

 

 

 

変化は、Mさんの日常に現れ始めた。

 

デイサービスに到着すると、まず職員とすべての利用者に挨拶をして回る。花壇の水やりを自分から申し出る。新しく来た利用者には、「分からないことがあったら言ってください」と声をかける。

 

「誰かに手を借りるのも悪くない」――これは、Mさんが到達した新しい境地だった。助けを求めることは、弱さではなく、生きる力の一部だと気づいたのだ。

 

ある日、家で転倒しそうになった時、Mさんは迷わず近所の人に助けを求めた。以前なら、「迷惑をかけてはいけない」と一人で何とかしようとしただろう。しかし今は違った。「すみません、少し手を貸してもらえますか」。

 

これこそが「関係性のセルフケア」――ひとりにならないよう、自分から一歩踏み出すことだった。

 

身体のセルフケアが、運動や食事に気を配ることであるように、関係性のセルフケアは、つながりを維持し、育てる行動を意識的に取ることだった。

 

Mさんは、週に一度、タケコさんに電話をかけるようになった。「体調はどうですか?」「今度、一緒に折り紙やりませんか?」。小さな気遣いが、二人の関係を深めていった。

 

孤独を避けるのではなく、“つながる行動”を自ら起こすセルフケアが、関係性の再起動の鍵だった。待っているだけでは、誰も手を差し伸べてくれない。しかし、自分から一歩踏み出せば、必ず応えてくれる人がいる。

 

Mさんは、デイサービスで「折り紙教室」を提案した。タケコさんと一緒に、他の利用者たちに教えるのだ。「私たちが先生になって、みんなで作品を作りませんか」。

 

提案は受け入れられ、毎週木曜日の午後が「折り紙の時間」となった。教える側と教わる側が入れ替わり、笑い声が絶えない時間。完成した作品を見つめるMさんの表情は、もう硬くなかった。

 

新しい役割と、新しい仲間。そして何より、「誰かの役に立てる自分」への確信。これらすべてが、Mさんの人生を再起動させていた。

 

問いかけ:あなたは誰かに「頼ること」ができていますか?

 

孤独なとき、私たちは「誰かに迷惑をかけてはいけない」と自分を閉じがちです。けれど、頼ることは甘えではありません。あなたが誰かの力を借りることで、その人に「役割」や「意味」が生まれることもあるのです。

 

今、ほんの少しだけ、自分の殻の外へ手を伸ばしてみてください。支えられることは、弱さではなく、生きる力の再起動なのです。

 

現代社会で多くの人が経験する孤立感。それは、物理的な孤独以上に、心の接続が断たれた状態かもしれません。しかし、Mさんの体験が示すように、関係性の再起動は、何歳からでも、どんな状況からでも可能です。

 

大切なのは、完璧でなくても、小さな一歩を踏み出すこと。そして、支えられることを受け入れる勇気を持つこと。あなたの人生にも、必ず「点灯」の瞬間が訪れるはずです。

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に

寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

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2025-09-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.322

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