週刊READING LIFE vol.323

作業療法士として絶対にしてはいけないと分かっていた嘘を、私はあえて選んだ〜希望を灯すために選んだ、たったひとつの嘘〜 《週刊READING LIFE Vol.323「今日だけは、嘘をつこうと思った」》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/9/11/公開

 

記事:内山 遼太(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

 

 

「今日だけは、嘘をつこうと思った」

 

病室の薄暗い光の中で、私はMさんのベッドサイドに座り込んでいた。作業療法士として働き始めて七年、患者さんには常に正直でいることを心がけてきた。だが、今日は違った。

 

「もう何をやっても無駄なんだよ……」

 

Mさんが天井を見つめたまま呟く声が、私の胸に突き刺さった。七十三歳になる彼の頬はこけ、一か月前まで握力三十キロあった手は、今では私の指を軽く握るのがやっとだった。

 

ベッドサイドテーブルには、色褪せた家族写真と孫からの手紙が置かれている。Mさんは時々その写真に手を伸ばそうとするが、腕が途中で力尽きてしまう。

 

「花子……」

 

亡き妻の名前を小さく呼ぶ彼の姿を見て、私は決心した。

 

—–

 

Mさん(仮名)は末期の肺がんと診断されて半年になる。妻の花子さん(仮名)は三年前に他界し、遠方に住む娘の由美さん(仮名)はなかなか面会に来ることができない。主治医からは既に告知を受けており、延命治療は続けているものの、根本的な治療はもはや望めない。

 

一か月前までは、作業療法にも積極的だった。

 

「右手のこの筋肉を鍛えれば、お箸がもっと楽に使えますよ」

 

そう提案すると、Mさんは「そうか、そうか」と言って、握力を測る器具を一生懸命握っていた。ペットボトルのキャップを開ける練習や、ボタンをはめる指先の訓練も、「孫に会った時に格好悪い姿は見せられんからな」と頑張っていた。

 

だが最近は、リハビリの時間になっても首を横に振ることが増えた。看護師の佐藤さん(仮名)も「Mさん、随分元気がなくなって」と心配していた。

 

私は毎日彼の部屋を訪れ、簡単な手の運動を提案したり世間話をしたりしていたが、彼の目には日に日に光が失われていく。

 

「このままでは心が先に死んでしまう」

 

そう感じたとき、私の中で何かが決定的に変わった。

 

—–

 

その日の午後、いつものように病室を訪れた私に、Mさんは振り返りもしなかった。

 

「Mさん、今日は手首のストレッチをしてみませんか?」

 

「いいよ……もう」

 

かすれた声で答える彼を見て、私は決心した。

 

椅子をベッドの脇に寄せ、彼の手を取る。やせ細った手は冷たく、わずかに震えていた。

 

「実は、お話ししたいことがあるんです」

 

言葉を選びながら、私は続けた。心臓が激しく鼓動している。

 

「新しい治療が始まることになりました。痛みを和らげる特別な治療法です。少し、体が楽になるはずです」

 

嘘をついている瞬間、私の声は微かに震えた。喉が渇き、手のひらに汗がにじんだ。

 

Mさんが初めて私の方を向いた。

 

「え? そんな治療があるのか?」

 

驚きの後、彼の目にわずかな光が宿った。それは、この数か月見ることのなかった希望の光だった。

 

「はい。来週から準備に入る予定です。きっと今よりずっと楽になりますよ」

 

「そうか……そんなのがあるのか」

 

Mさんは小さく微笑んだ。それは、長い間忘れていた表情だった。

 

—–

 

嘘をついてから数日後、Mさんに明らかな変化が現れた。

 

「今日は握力を測ってくれるか?」

 

作業療法の時間に、彼の方から声をかけてきた。握力計を握る彼の手に、以前の力強さはないものの、確実に意志があった。

 

「十八キロですね。先月より少し上がっています」

 

実際は十六キロだったが、私は少し数字を上げて伝えた。またひとつ、小さな嘘をついた。

 

「そうか! やっぱり体力をつけないと治療に耐えられないからな」

 

Mさんは嬉しそうに言った。

 

食事も完食するようになった。以前は手をつけなかった病院食も残さず食べる。箸を持つ手は震えているが、最後まで自分で食べようとする姿勢が戻ってきた。

 

最も印象的だったのは、孫への手紙を書き始めたことだった。

 

「治療が終わったら、今度は一緒に釣りに行くんだ」

 

Mさんはそう言いながら、震える手で便箋に文字を綴っていた。作業療法で練習していたペンの持ち方を思い出しながら、一文字一文字丁寧に書いている。

 

三週間ぶりに娘の由美さんが面会に来たとき、彼女は父親の変化に驚いた。

 

「お父さん、なんだか前より明るくなったみたい。ちゃんと食事もしてるし」

 

由美さんは私にそう話しかけ、目を潤ませた。

 

「新しい治療が始まるって聞いて、希望が持てたのかもしれませんね」

 

私はそう答えた。

 

同僚の山田さん(仮名)からは心配された。

 

「新しい治療って何だ? 俺、そんな話聞いてないぞ」

 

「それは……」

 

「まさか、嘘ついてるんじゃないだろうな? 患者さんとの信頼関係が崩れるぞ」

 

その通りだった。だが、Mさんが握力計を握る真剣な表情、娘さんの安堵の表情、そして病室に戻った温かな空気を思うと、この嘘には意味があったのだと信じたかった。

 

—–

 

そんな日々が一か月ほど続いたある夕方のことだった。

 

作業療法を終え、いつものように「また明日」と声をかけようとした時、Mさんが静かに私を呼び止めた。

 

「ちょっと、こっちに来てくれるか」

 

彼の声には、いつもとは違う何かがあった。私は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座った。

 

夕陽が窓から差し込み、病室をオレンジ色に染めている。その光の中で、Mさんはゆっくりと口を開いた。

 

「あの治療のこと……本当はないんだろう?」

 

私の血の気が引いた。息が止まり、心臓が跳ね上がる。

 

「え? 何を……」

 

言葉が喉でつかえた。手が震え、冷汗が背中を流れる。

 

「いや、もういいんだ」

 

Mさんは私の動揺を見て、かすかに笑った。

 

「やっぱりな。あんた、嘘が下手だからな」

 

呼吸が乱れ、目の前がぼやけた。

 

「すみません、私は……私は……」

 

「謝るな」

 

Mさんは静かに首を振った。そして、私の震える手を取り、優しく包み込んだ。

 

「あの言葉がなかったら、俺、とっくに諦めてた。もう少し頑張ろうって思えたんだ。孫に手紙も書けた。由美にも明るい顔を見せてやれた」

 

涙でMさんの顔が滲んで見えた。喉の奥が詰まって、声にならない。

 

「ありがとう。あんたの嘘で、俺はもう一度生きることができた」

 

静寂が病室を包んだ。西日がゆっくりと移ろい、壁に映る影が少しずつ伸びていく。時間だけが音もなく過ぎていく。

 

私はもう涙をこらえることができなかった。嗚咽が漏れ、肩が震える。Mさんの手を両手で包み込み、頭を下げた。

 

「Mさん……」

 

「泣くな。俺の方こそ、ありがとうだ」

 

私たちの間には、言葉では表現できない深い信頼と感謝の気持ちが生まれていた。あの嘘は間違いではなかった。時には、愛情に満ちた嘘が、人の心に希望を与えることもあるのだ。

 

—–

 

季節が変わり、桜の花びらが舞い散る頃、Mさんは静かに息を引き取った。

 

最期まで彼は穏やかだった。由美さんが手を握り、私も病室にいた。ベッドサイドには、孫に宛てた最後の手紙が置かれていた。

 

「最後まで諦めなかった父の姿が誇らしかった」

 

葬儀の後、由美さんは私にそう話した。

 

「あの新しい治療のおかげで、父は希望を持ち続けることができました。本当にありがとうございました」

 

私は複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。それでいいのだと思った。

 

病院に戻る道すがら、私はあの日のことを思い出していた。Mさんの手の温もり、彼の穏やかな笑顔、そして「ありがとう」という言葉。

 

あの嘘がなければ、彼の最後の一か月は絶望に満ちたものになっていたかもしれない。娘さんとの時間も、孫への手紙も、握力を測ろうとする意欲も、すべてが生まれなかっただろう。

 

病院の玄関をくぐりながら、私は心の中で呟いた。

 

また誰かのために、嘘をつこうと思った。

 

薄暗い廊下を歩きながら、私は新しい患者さんの病室へと向かった。今日もまた、誰かの心に寄り添うために。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

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2025-09-11 | Posted in 週刊READING LIFE vol.323

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