「諦めの先にあった、静かな希望 ― 慢性疾患と生きるということ」《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/9/8/公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
「完治は難しい」と医師に告げられた瞬間、何かが心の中で音もなく停電した──。治ることを前提に積み上げてきた日常が、一瞬で意味を失ったような感覚。そんな「心の停電状態」から、どうやって再び生きる意味を見つけ出すのか。
慢性疾患と向き合うTさんの体験を通して、「完治しなくても、制限があっても、自分らしく生きる方法」を探ってみたい。それは病気の人だけでなく、人生の目標を見失った誰もが直面する普遍的なテーマでもある。「治す」から「支える」「感じる」「楽しむ」へ。価値観の転換の先に見えてきた、小さくても確かな希望の物語。
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静かな診察室で、医師の言葉が宙に浮いた。
「申し訳ありませんが、完治は難しいと思います」
その瞬間、Tさんの身体より先に、何かが音もなく”停電”した。心のどこかで鳴り続けていた希望という名の機械音が、ぷつりと途切れたのだという。窓から差し込む午後の光も、いつもの温かさを失って見えたという。
医師は続けて治療法や対処法について説明してくれたが、もう半分も頭に入ってこなかった。「治らない」という言葉だけが、診察室の空気に溶け込んで、呼吸と一緒に肺の奥まで染み渡っていく。
帰り道、いつもと同じ景色が、まるで別世界のもののように感じられた。完治への道筋を失った今、自分がどこへ向かえばいいのかわからない。治ることを前提に積み上げてきた日常が、一瞬で意味を失ったような感覚だった。
もしあなたも、医師から似たような宣告を受けたことがあるなら、Tさんが体験したこの停電感を理解できるかもしれない。目標を見失った時の、あの深い虚無感を。
Tさんの話は、誰にでも起こりうる”心の停電”の物語でもある。
停電とは、心と身体が”自分”とつながらなくなる状態のことだ。
Tさんの場合、朝起きて、歯を磨いて、食事をして、仕事に向かう。一見すると普通の日常を送っているように見える。でも、そのすべてに「意味」や「感情」が乗ってこない。まるで自分という人間が、遠くから自分の人生を眺めているような、奇妙な浮遊感があったという。
それまでTさんは「完治」という明確なゴールに向かって走り続けてきた。治療に励み、生活習慣を見直し、前向きに病気と向き合うことが、自分のアイデンティティでもあった。「必ず治る」と信じていたからこそ、つらい治療にも耐えられたし、制限のある生活にも希望を見出せていた。
しかし、その希望の糸が切れた瞬間、Tさんという人間を動かしていたエンジンが止まってしまった。「目標が消えたら、自分も消えてしまいそうだった」と、彼女は振り返る。
湯を沸かすやかんの音すら、遠くに聞こえる。好きだった音楽も、心に響かない。友人からの励ましの言葉も、ガラス越しに聞いているような感覚だった。身体は確かにそこにあるのに、心がどこか別の場所に置き去りにされている。
これがTさんの停電状態だった。生きてはいるけれど、生きている実感がない。動いてはいるけれど、自分の意志で動いている感覚がない。そんな日々が、診断から数ヶ月続いた。
慢性疾患と向き合う多くの患者が、似たような体験をしている。それは病気の宣告でなくても、大切な人を失った時、仕事で大きな挫折を味わった時、人生の方向性を見失った時に起こりうる、人間の自然な反応でもある。
目標がなくなったとき、人は”生きているのに生きていない”状態になるのかもしれない。
かつてのTさんにとって、「完治こそが目的」だった。治療のスケジュールは人生の最優先事項で、他のすべてはその手段に過ぎなかった。趣味も人間関係も、「治ったら思いっきり楽しもう」という未来への投資のようなものだった。
しかし、その前提が崩れた今、やがて新しい問いが浮かんできた。
「今のままの身体で、どう生きるか?」
この問いは、最初は絶望的に聞こえた。治らないなら、何を目指せばいいのか。制限のある身体で、どんな意味のある人生が送れるのか。でも、時間が経つにつれて、この問いの中に別の可能性が見えてきたのだという。
「治す」ことから、「支える」「感じる」「楽しむ」方向へと、価値の重心が移り始めたのだ。
転機となったのは、ある休日の午後だった。部屋の片隅に置かれていた観葉植物に、ふと目が止まった。昔、元気だった頃に育てていたポトスが、看病疲れで枯れかけていた。
なぜかその時、「この子を元気にしてあげたい」という気持ちが、小さく湧き上がった。完治への希望を失って以来、久しぶりに感じる「したいこと」だったという。
水をあげて、日当たりの良い場所に移してあげる。その時の手のひらに感じた土の温度、葉っぱの柔らかな感触。それらが、停電していたTさんの感覚を、ほんの少しだけ灯してくれた。
それは彼女の中に”もう一度生きてみようか”という火を灯した瞬間だった。
「これは回復ではありませんでした」とTさんは言う。「病気が治ったわけでも、昔の自分に戻ったわけでもない。でも確かに、何かが動き始めた。それは、つながり直すという小さな再起動だった」
完治しない身体でも、心地よさを感じることはできる。制限のある生活でも、誰かや何かを大切にすることはできる。そのことに、Tさんはようやく気づき始めていた。
再起動とは、「元に戻る」ことではない。「今の自分にとって大事なスイッチを押し直す」ことだ。
Tさんの場合、その再起動スイッチは「一日一個、自分が”心地よさ”を感じられる瞬間を見つける」ことだった。それは大きな目標でも、壮大な計画でもない。ただ、今この瞬間の自分が、少しでも「いいな」と思えることを探すこと。
朝のコーヒーの香りに、ほんの数秒間没頭してみる。好きな作家の新刊を手に取った時の、わくわくする感覚を大切にする。友人からの何気ないメッセージに、素直に嬉しさを感じてみる。
これまでのTさんなら、「そんな小さなことで満足していてはいけない」と思っていただろう。もっと大きな目標に向かって、もっと意味のあることをしなければと焦っていた。でも今は違う。小さな心地よさの積み重ねこそが、停電した心に電気を送り返してくれることを知っている。
再起動は、外から与えられるものではない。誰かに治してもらうものでも、何かの条件が整ったら自動的に起こるものでもない。それは、今この瞬間の自分の内側にすでに眠っている。
Tさんのような体験をした人たちの再起動スイッチは、どこにあるのだろうか。それは、病気になる前に好きだったことの中にあるかもしれないし、全く新しい発見の中にあるかもしれない。大切なのは、「完治しなければ幸せになれない」という思い込みから自分を解放することだ。
小さな”快”の発見は、停電の部屋に差し込む一条の光だった。
慢性疾患や再発を繰り返す体調と「うまく付き合う」ことは、当事者だけでなく、誰にとっても必要なテーマだ。なぜなら、人生に完璧な健康状態など存在しないからだ。年齢を重ねれば誰もが身体の変化と向き合うことになるし、ストレスや環境の変化によって心身のバランスを崩すことは珍しくない。
これから紹介する3つのセルフケア戦略は、病気とまではいかないけれど”なんとなく不調”が続く人にも効果がある。長期戦を前提とした時、短期決戦とは全く違う戦略が必要になる。Tさんが試行錯誤の末に見つけた工夫は、多くの人にとって参考になるだろう。
①「日ごと評価」の考え方
「昨日できたのに今日はできない」という状況は、慢性疾患と共に生きる人にとって日常茶飯事だ。以前のTさんは、そのたびに自分を責めていた。「昨日は調子が良かったのに、なぜ今日はダメなんだろう」と。
でも今は、「今日は今日」で評価することを心がけている。昨日の自分と比較するのではなく、今日の体調の中で、今日の自分なりにできることを見つける。調子の悪い日は、「今日は休む日」として受け入れる。
「これは甘えではありません」とTさんは強調する。「長期戦を戦い抜くための、現実的な戦略です。毎日100%の力を出そうとすれば、いずれ燃え尽きてしまう。70%の日もあれば、30%の日もある。それが自然な姿だと受け入れることで、かえって持続可能な生活が送れるようになりました」
②「7割運転の原則」
調子の良い日ほど、あえてペースダウンする。これが、Tさんが学んだ最も重要な教訓の一つだ。
元気な日は、つい「今のうちにあれもこれも」と張り切ってしまいがちだ。でも、そうして無理をした翌日は、必ずと言っていいほど体調を崩していたという。まるでゴムを引っ張りすぎて切れてしまうように、調子に乗りすぎることが、次の不調の引き金になっていた。
今は、どんなに調子が良くても7割程度に留めている。「もう少しできそう」と思っても、そこで止める勇気を持つ。その代わり、翌日もまた同じように活動できる可能性が高くなる。
「休む勇気は、怠けることではありません」とTさんは語る。「長期的な健康を守るための、積極的な選択です」
③「“快”の記録」
Tさんは日記を書くほど大げさではないが、1日1行で「嬉しかったこと・気持ちよかった瞬間」を書き留めている。
「朝、カーテンを開けた時の光が美しかった」
「久しぶりに友人と笑い合えた」
「お気に入りのお茶で一息ついた時間」
「猫の寝顔に癒された」
どれも些細なことばかりだが、これらの積み重ねが、Tさんの日常に小さな光を灯してくれる。調子の悪い日も、「今日は何か良いことがあったかな」と探してみる。すると、不思議と何かしら見つかるものだという。
この記録は、回復のためのものではない。「心地よさ」に目を向ける生き方への転換だ。完治しなくても、制限があっても、日々の中に小さな幸せは存在する。それを見逃さないための、小さな練習でもある。
【POINT:今日から始められるセルフケア】
実践:1行”快”ノート
Tさんの体験から学べることは多い。中でも、誰でも今日から始められるのが「1日1つ、自分が気持ちよかった瞬間を書く」ことだ。スマートフォンのメモ帳でも、手帳の片隅でも構わない。
「朝の光を浴びながら伸びをした瞬間」
「好きな音楽に涙した瞬間」
「温かいスープが身体に染み渡った瞬間」
「ペットが甘えてきてくれた瞬間」
どんなに小さなことでもいい。むしろ、小さければ小さいほどいい。それが、「完治しない」現実の中でも自分とつながり直す第一歩になる。
この小さな習慣は、やがて日常の見方を変えてくれるはずだ。問題や不足に注目するのではなく、今ここにある豊かさに気づく力を育ててくれる。Tさんのように、再起動のきっかけを見つけられる人が増えることを願っている。
Tさんの物語が教えてくれるのは、「完治しない身体」と共にある人生でも、「希望の光」は小さく灯せるということだ。それは、劇的な逆転劇や奇跡的な回復の物語ではないかもしれない。でも、日々の小さな”快”の積み重ねの中に、確かな生きる意味を見出すことはできる。
再起動は、大きなスイッチを一度に押すことではない。小さなスイッチを、毎日少しずつ押し直していくことだ。完璧を目指すのではなく、今日一日を丁寧に生きること。昨日より良くなろうとするのではなく、今の自分なりの最善を尽くすこと。
あなたが最近、心が動いた瞬間はいつだっただろうか。それがどんなに小さなことであっても、そこにあなたの再起動スイッチがある。完治しなくても、制限があっても、あなたらしく生きるためのヒントが、きっとそのすぐ隣に眠っている。
Tさんが見つけたように、再起動スイッチは遠い未来にあるのではない。今、この瞬間の中にある。そのことを信じて、今日もまた小さな一歩を踏み出してみよう。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に
寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2025/8/28/公開
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