「社会VS己の信念」それってひとりで戦うもんじゃない《週刊READING LIFE Vol.324「容易き道か正しき道か」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/9/18/公開
記事:志村 幸枝(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
子どもが熱を出した時、それは“戦闘開始”の合図とも言える。ワーキングマザーなら誰しも経験するあの緊張感。まっさきに駆け巡るのは、「どうしよう」という、ほぼ反射的な不安だ。心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。頭の中は一瞬で作戦会議モードに切り替わる。
といっても、私の仕事は漢方相談だ。だから、体調不良に直面すると「いつから?」「どれくらい?」「今、どうしてる?」といった冷静な情報収集は、ほとんど反射的にできる。例えば風邪をひいた時。「寒気はある?」「いつから喉が痛かったん?」「唾飲み込んだら痛い?」「それとも鼻と喉の間が乾く感じ?」「ご飯食べれそう?」「うんこ出た?」など尋ねながら、頭の中で処方を検討する。最後に「べーして」と言って舌をみる。これは裏を取るためだ。問診で得た情報と身体に表れている状態に齟齬がないかを確かめる。どの症状が急ぐべきものか、どの状態なら家で様子を見られるのか。身体の反応に対してどんな漢方薬で対処するかを決めるのが一連の流れだ。
私の不安は、実は別のところにある。「誰が」「いつ」「仕事を休むか」という方だ。
戦う相手はウイルスや細菌だけではない。保育園や義母だったりすることもある。さらに、「また休むのか?」と責めたような口調がお決まりの、昭和のおじさん的社長もいた。明日、自分が休むなら今日中に引き継ぎが必要だ。夫に休みをお願いするなら、できるだけ早く伝えなければならない。子どもが熱を出すと、子どもの体調そのものよりも、そんな段取りの心配ばかりが先に浮かんでくるのだから厄介だ。緊張が長引けば、子どもの熱が下がった頃に今度は自分が発熱する。気を揉みすぎるからだと思う。
夫は病院勤めだ。と聞くと、「東洋医学vs西洋医学の対立」が家庭内で勃発するのではと想像する人も多いだろう。でも、そうはならなかった。夫は医師でも薬剤師でもなく、「作業療法士」という仕事だからだ。
作業療法士。名前だけではピンとこない人もいるかもしれない。リハビリの専門職の一つで、薬を出すのではなく、生活の中で人の回復力を引き出す人。病気やケガ、障害によってできなくなった動作——例えば、服を着る、箸を持つ、階段を上る、字を書く——そういった日常動作をもう一度できるようにする訓練を行う。患者さんの暮らしに深く入り込み、「その人らしい生活」を取り戻すために寄り添う仕事だ。
言葉にすると漢方相談とまったく違う世界のように思えるけれど、私は夫と暮らすうちに、このふたつは同じ方向を向いていると気づいた。身体を治すのではなく、整える。抑え込むのではなく、引き出す。急がせず、その人のペースを尊重する。作業療法士が患者さんの手をとって、できることを少しずつ広げていくように、漢方相談もまた、身体と心のバランスを少しずつ整えていく。
だから、私と夫の間に信念のぶつかり合いはなかった。むしろ、揺れる私の気持ちを、夫がそっと支えてくれた。子どもが熱を出した時、熱の高さに不安を覚えながらも、「いまは、まだ、待ちたい」と思う私に、「それでええんちゃう?」と言ってくれた。その一言が、どれだけありがたかったか。もし夫が「薬を出す側」で、症状があればすぐ抑えるべきだと信じている人だったら、私はこの仕事を続けられていただろうか。家庭の中で、自分の価値観を否定されるのは、想像以上に堪える。私が「自然に治す」方向を信じていても、「そんなの非科学的」と言われれば、心は折れる。自分の選択が、わが子に不利益を与えているのではと、罪悪感で押しつぶされてしまうだろう。
だからこそ、夫の「それでいい」という肯定は大きかった。母親としての私だけでなく、漢方相談員としての私をも認めてくれる言葉だった。
もちろん、必要なときには病院にも行った。保育園や義母や社会が、「病院は当然」という圧力をかけてくるからだ。「まだ様子見です」と言おうものなら、「親としてどうなの」と言わんばかりの空気が漂う。
夏になると保育園では「プールチェック表」の記入が毎日求められる。体調、発熱、咳、下痢、皮膚の状態——。うちの娘は皮膚が弱く、乾燥しやすくて赤くなったりかゆくなったりした。膝の裏がただれたようになることもあったが、だからといってすぐに「入水禁止」にするのは違うと思っていた。娘に「あなたは皮膚が弱い」というレッテルを貼りたくなかったし、漢方で体の中から整えていけば改善できると信じていた。実際、少しずつ良くなっていた。私の目には「大丈夫、プール入れます」という状態だった。
けれどその状態は、保育園の基準では「入れません」だった。中には「放置している」と思う人もいた。園の先生に「私なら病院に連れていきますね」と言われたとき、またあの感覚が胸をよぎった。何となく責められているような空気。“社会の無言の圧力”だ。周囲が示す「常識」とどう折り合いをつけるか。それが子育ての中で常に突きつけられる問いだった。
放置なんてしていない。むしろ人一倍気にしている。多数派が「普通」としている選択をしないと、いつも責められてるように感じる。「そうすれば楽なのに」「病院に行けば安心なのに」と。私は病院の薬を否定しているわけではない。診察を受け、薬も処方された。でも、私は使わなかった。子どもが持っている自然治癒力を待ちたいと思ったからだ。そして、その感覚を信じていい、と思ってくれる人が家にひとりいることが、同じ“まなざし”を共有できていたということが、どれほど心強かったか。
漢方相談という仕事は、常に揺らぐ。これさえ飲めばいいという万能薬はない。症状だけでなく、暮らし、性格、家族関係、季節や心の状態まで見立てに含める。どちらかというと効率は悪いし、正解がはっきりしない。でも、だからこそ愛している仕事だ。迷っていい。考えていい。判断を遅らせていい。揺れながらも、自分のまなざしを信じること。それを教えてくれたのが漢方だった。
夫もまた、作業療法という仕事で同じことを感じていたと思う。急がなくていい。治らなくても、整えばいい。薬ではなく、暮らしの中で人は変わっていく。その方にとっての「生活の質」を高めることに着眼すること。そういうことを重んじる彼が隣にいることが、私の救いだった。
もし、私ひとりだったら……。社会の「正しさ」という波に、何度も足をすくわれていただろう。保育園の基準や、義母の心配、周囲の視線。子どもの体調ひとつで押し寄せる“無言の圧力”に、心が軋み、折れてしまっていたかもしれない。でも、揺れる気持ちに、夫が寄り添ってくれたから、私は前に進めた。お互いのやり方は違う形だけれど、目指す方向は同じだった。
「仕事は家庭に持ち込まない」
そんな言葉もあるけれど、私たちには当てはまらない。仕事で得た視点や感覚を、私たちは迷わず家庭に持ち込んだ。持ち込むことで、むしろ家庭は守られた。子どもが熱を出した日も、皮膚が荒れてプールに入れなかった日も、迷いながら、揺れながら、私たちは同じ方向を向けた。
子育てをしていると、世間の声はいつだって大きい。保育園の送り迎えでも、PTAの集まりでも、「普通はこうするものだ」という空気がつきまとう。その圧力の中に身を置けば、たしかに楽だ。多数派に身を置くことは、波風を立てずに済むし、安心もくれる。けれど、子どもを前にすると、それだけでは納得できない瞬間がある。自分が信じているやり方、子どものために選びたい道がある。社会的常識と信念がぶつかる時、私はいつも迷った。容易き道か、正しき道か。その狭間で揺れながら、何度も立ち止まった。それでも、ひとりで立ち向かう必要はなかった。同じ方向を見ている人が、隣にいてくれたから。夫だけではない。同じ「漢方相談」という仕事している仲間たちの存在も大きい。
多数派に身を置くことと、自分の信念を貫くこと。どちらも人を守る術だと思う。けれど、信念を選ぶ勇気は、ひとりでは持ちきれない。だからこそ、同じ方向を見ている人がそばにいるだけで、人は前に進める。そうやって私も、ようやく自分の選んだ道を歩けているのだ。そして振り返ると、その道のりは決して特別なものではなかった。ただ、子どものまなざしに正直であろうとしただけ。あの日の迷いや葛藤は、すべて未来につながっていた。娘の「治す力」に寄り添ったことで、肌は綺麗になったし、丈夫になった。赤くただれた肌にため息をついてモヤモヤしていた日々が嘘のようだ。容易き道ではなかったけれど、きっと正しき道だったと、今なら胸を張って言える。
❏ライタープロフィール
志村幸枝:しむらゆきえ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
京都在住の道産子。27年勤めた漢方相談店を退職し、2025年1月より、ライティング・ゼミに参加。16週間で13作品が天狼院メディアグランプリに掲載され、66th Season総合優勝を果たす。2025年5月より、ライターズ倶楽部へ。今は神戸で漢方相談に携わる。わかりやすいたとえ話で「伝わる漢方相談」をするのがモットー。
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