103歳と69歳 《週間READING LIFE Vol.326「ドキッとする話」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/10/9 公開
記事 : 藤原 宏輝 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
10年前の夏の夕方、めずらしく父から着信があった。
いつもなら2、3日は折り返さないのだが、虫の知らせというものだろうか?
私は、すぐに折り返し電話をした。
「おれ、癌らしいわ。胃を全部取ったら治るらしいけどな」
父が電話口で放ったその言葉を、私は一生忘れない。
仕事をしていた手が止まり、まるで冷水を浴びせられたみたいに背中がゾクリとした。
「えっ、パパが癌? 何言ってんの。心臓が弱ってるんじゃなかった?」
と慌てて聞くと、
「まだママにも誰にも言ってないから。お前に一番に電話した。誰にも言うなよ」
「うん」
私は受話器を握りしめ、状況が理解できないままで声を震わせた。
父は大事(おおごと)と思っていないのか? 不安を隠そうとしていたからなのか?
あっけらかんとした調子で続ける。
「まあ、胃がんやな。先生が言うには、胃を全部取れば治るんやと。おじいちゃんと一緒だから、大丈夫」
その言い方が妙に軽くて、私は余計に不安になった。
「胃を全部取るって……、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫やろ。手術すれば癌がなくなって治る、そういう話や。心配すんな」
父は強がるように笑いながら話した。
けれどその声の奥には、かすかな揺らぎがあったように私は感じた。
あれから、10年。
お友達や周りの誰かから「がんの告知を受けた」と聞くたびに、私はいまだに胸の奥がドキッ! とする。
治療技術どんどん進み、薬が革新的になっていき、今では‘癌は治る病気’と言われても、父の姿がよみがえり、心がざわつくのだ。
ここ約1年間で、お友達や周りの人たち6人が癌の告知を受けた。
そのうち4人は、手術でそれぞれの癌を胃全摘出、子宮全摘出、大腸切除、胃半分切除、と癌を取り除き抗がん剤治療を続け、あっという間の半年ほどで、すっかり元気になって、元通りの生活を送っている。
しかし、もう1人は
「最近、肩凝りとか腰痛がひどくて、歳かしら」
といつも笑いながら元気に、マッサージやエステに通い、美しさを保ちつつバリバリ仕事をこなしていた先輩。
告知からたったの半年で、逝ってしまった。
そして、もう1人は
手術を開始直後、閉じられた。
ここからは、抗がん剤治療の長期戦になると話していた。
それでも癌は今では、ほぼ治る病気となった。らしい……。
発見が早いか? 遅いか? で変わってくるものだろう。
昨年の夏。私は自分の体調に違和感を覚えた。
「暑さのせいかな……」とごまかしていたけれど、日に日に食欲が落ち、胃がキリキリと痛むようになった。
いよいよ市販の胃薬も効かなくなり、体重が少しずつ落ちていった。
体重が落ちていく事は喜ばしい事だったが、なんだかいつも身体がだるいし、重いし、力が出ない。
とうとう観念し、大嫌いな病院に行くことにした。
診察室で医師がカルテをめくりながら言った。
「では、胃カメラをやりましょう」
私は即座に、あの言葉が頭をよぎった。
「悪いところが見つかったら、どうしよう。癌と言われたら、どうしよう……」
父の顔が浮かぶ。さらに、父方の祖父も胃がんを患い78歳で逝った。
「癌家系」という言葉が、氷の杭みたいに胸に刺さる。
そして、胃カメラ当日。自分の現状を知るのが怖くて、緊張していた。
「鼻からと口から、どちらでいきますか?」
医師が事務的に尋ねる。
私は思わず口ごもった。
「今までは口からしかやったことないんですけど、楽な方でお願いします」
すると医師は、当然のように軽快に答える。
「最近は鼻からが多いですよ。鼻の方が楽ですから」
私の話、聞いてた?
内心むっとしたが、すでに看護師が鼻にゼリー状の麻酔を詰め込み、片方の鼻は息が出来なくなった。
苦しかったし、気持ち悪かった。
それでも容赦なく、淡々と準備が進み、とうとう小さな胃カメラは、私の鼻からどんどん進んでいった。
喉にカメラが差し掛かった瞬間、
「おえっ……!」
吐き気をこらえる声が洩れる。
「はい、力抜いて、楽にして」
医師の声が遠くで響く。
こんな、苦しいのに楽になんか出来ない! もう、吐きそうっ!
私は涙目で必死にこらえた。
カメラは喉を通り、食道から胃。そして、十二指腸へ。
「十二指腸の入口に潰瘍の跡がありますが、これは問題なさそうですね」
医師がそう言うと、ついさっきまでモニターに映し出されている自分の十二指腸や胃を見る気にもなれなかったが、ちょっとだけ安心出来たので、顔を動かして画面をぼーっと眺めた。
カメラが徐々に上がり、胃が映し出された。
その内部を見た瞬間、私は言葉を失った。
「潰瘍の痕がかなりありますね。古いのも新しいのもあわせて20カ所以上くらいかな。最近出来たいくつかの新しい潰瘍が、痛みの原因かと思います」
冷静に見たままを伝える医師と真逆に、
「に、20カ所以上も!?」
ベッドの上で、私はおかしな声を上げてしまった。
画面に映る胃壁は、イボイボと膨らみ、まるでゴーヤの表面みたいだった。
「これ、私の胃なの……?」
現実感がなく、一瞬の安堵感はとっくに吹っ飛び、体がふわりと宙に浮いたように感じた。
さらに医師は淡々と告げた。
「腫瘍らしきものが4つあります。念のため生検に回しましょう」
その言葉にまたさらに、ドキッ! とした。
心臓を急に何かで掴まれるような感覚があり、身体全体がギュッーと縮んだ。
次の瞬間、私はまさか、癌?
私も、パパやお祖父ちゃまと同じ道をたどるのかな……。
という不安に襲われた。
その後の事はあまり覚えていないが、すぐに胃カメラは終わった。
そして、検査結果が出るまでの数日。生きた心地がしなかった。
父の最期がフラッシュバックして、夜になると眠れない。
数日後、診察室。
医師がゆっくり口を開いた。
「腫瘍は、癌ではありませんでした。ただし“グループ1”です」
「グループ1?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げる。
「今は癌ではないけれど、リスクがある段階ですね。定期的な検査は必要です」
ホッとする間もなく、次の言葉が飛んできた。
「それからピロリ菌の検査結果ですが、通常の200倍という数値が出ています」
「200倍!?」
思わず声が裏返った。
医師は落ち着いた声で説明を続ける。
「除菌治療をすれば改善できますよ。お薬をきちんと飲めば大丈夫です」
安堵と同時に背筋が冷たくなった。
父が癌だと知ったあの日の衝撃が、またよみがえる。
さらに、父は癌の告知をされた4年ほど前に、ピロリ菌除去の投薬治療を行っていたが、
「この薬を飲むと、調子悪くなるから。もう止めとく」
と、医師の言葉を無視して、勝手に投薬治療を止めていたのだった。
その夜、母から電話が何度もかかっきた。
「検査結果、どうだった? 連絡もしてこないで。心配するでしょっ!」
相変わらずの勢いで一気に話す。
「ねえ、パパが最初に“オレ、癌らしい”って言ったときの事、覚えてる?」
母は少し沈黙してから答えた。
「忘れてないよ、びっくりしたし。あのときは、また冗談言って。って、信じられなかったけどね」
「私は腫瘍が見つかったの。癌じゃなかったけどね、ピロリ菌が通常の200倍だって。ビックリするでしょ」
出来るだけ元気に伝えた。
「……」受話器の向こうで母が息をのむ音がした。
「でも大丈夫。ピロリは薬で治るからっ」
母の声が少し震えていた。
「パパもね、お薬きちんと飲んでピロリ菌を退治しておけばよかったのにね。人間ドッグも2年もサボらずにもっと早く検査してれば、今頃はまだ元気だったかもしれない……」
その言葉に、私は目を閉じた。
胸の奥に、言葉にならない思いがこみ上げてくる。
検査結果を母に伝えたその夜、私はふと父のことを思い出した。
癌とわかる数か月前、
「最近、体重が7キロ落ちたんや。医者にも褒められたし、健康のために食事制限してるんや」
父は得意げに笑っていた。
けれど、その痩せ方はただのダイエットの成果ではなかった。
と誰一人気付かなかった。
癌は、もうずっと前から進行していたのだ。
その姿を思い出すたびに、私は背筋が凍る。
「痩せた=健康」なんて、必ずしも言えない。
むしろその裏に潜む病気を、見逃さない事の方が大切なのだ。
父は癌の告知を受けた夏の暑い日から、年明けまでのたった4か月でアッという間に逝ってしまった。
69歳だった、あまりに早すぎた。
私が入院中の父に会いに行くと、父はベッドに腰掛けてこちらを見上げ、冗談めかして言った。
「胃を全部取っても、また美味しいものたくさん食べられるかな?」
「食べられるよ、きっと。お祖父ちゃまも鰻とかステーキとか、病院に出前取ってガツガツ食べてたよね」
笑いながらそう答えつつ、私は胸が締め付けられていた。
父は心臓が弱く、不整脈も抱えていた。心臓の薬はきちんと飲んでいたし、タバコも吸わないし、お酒も飲まない人だった。
大食漢で「自分は、胃が丈夫だから」と過信していたこともあり、胃の検査はきちんとしていなかった。
癌が発見された時には「胃を全摘すれば、大丈夫です」
と医師から聞かされていたが、アッという間に身体中に癌が進行していった。
すでに秋には、手がつけられなかったのだ。
そんな事を知らずに、
「年明けには、胃を手術で全部取ってもらって、元気になる」
といつも嬉しそうに話していた。
だからこそ、私の中には今も恐怖がこびりついている。
誰かが「癌の告知を受けた」と耳にすると、ドキッとする。
心臓がドクンと跳ね、全身に冷たい汗が広がる。
けれど同時に、思うのだ。
私の周りには2回も3回も癌を告知され、それでも今も元気に生きている人がいる。
「そういえば癌だったよね?」
と忘れてしまうくらいだ。
‘癌だから=終わり’ではない。
父の死に引きずられすぎてはいけない。
そう自分に言い聞かせながらも、まだ心の奥では
「次の検査も大丈夫でありますように」
と祈るような気持ちで、私はドキドキしながら、ずっと恐怖と闘っている。
検査の日からしばらく経って、友人とランチをした時のこと。
久しぶりに会った友人が、
「わあ、痩せたね! ダイエット成功?」
私は思わず息をのんだ。
「ううん、実は体調が悪かったの」
「えっ? まさか……」
友人の顔色が変わる。
「結果は大丈夫だったよ、癌じゃなかった、ピロリだって。これは、薬で治るから」
私は胸の奥のザワザワを、笑ってごまかした。
私は母方の祖父の言葉を思い出した。
祖父は103歳まで生きた人だった。
「ピンピンころりが一番幸せや。元気で動いて、ある日ころりと逝く。そうすれば周りに迷惑もかけん」
子どもの頃は、言葉の意味がわからなかった。
でも今なら理解できる。
病気を抱えて長生きしても、きっと楽しくない。
健康で長生きすること。それが幸せであり、家族への最大の思いやりなのだ。
「体重が減ったからといって、浮かれてはいけない」
「忙しさを理由に、検査を先延ばしにしてはいけない」
父の背中が、はっきりと見える。
「大丈夫や」と笑っていた父。
けれど、その裏で病魔は静かに進行していた。
その悔しさと無念さを、私は同じように繰り返したくない。
翌朝。
私はいつものように体重計に乗った。
数字が少し減っていた。
「やった、また痩せた!」
そんな単純な喜びだけで終わらせてはいけない。
私は心の中で言い聞かせる。
「痩せたことよりも、健康であることが大事」
「自分の体は、自分で守る」
それが父から受け継いだ最大の教訓なのだ。
人は誰でも病気になる可能性を持っている。
「私は大丈夫」と過信してはいけない。
ちょっとした変化を見逃さず、検査を受け、治療を受ける。
とにかく、自分を大切にする。
そうして初めて、安心して未来を描ける。
友人たちが癌を克服して、今も笑顔で暮らしている姿を見るたびに、私は思う。
「癌では死なない。生き方を工夫すれば、ちゃんと乗り越えられる」
父の69歳と、祖父の103歳。
その対比が、私に「健康第一」の意味を強烈に教えてくれた。
最後に、もしまた誰かから「癌の告知を受けた」と聞いたとき。
私はドキッとするだろう。きっと、これからも。
でもその後に、こう言える余裕を持ちたい。
「大丈夫。治療して元気になって、また一緒に笑って、美味しいものをいっぱい食べよう」
健康であること。それは当たり前なんかじゃない。
自分で守り、自分で築いていくものだ。
父の死と自分の体験から学んだ事を胸に、私は今日も心に刻む。
健康が一番。
心身ともに健康だからこそ、仕事もできるし、好きな事も出来る。
そして、たくさんの出会いも、無限の可能性もまだまだ未来に続くのだ。
❒ライタープロフィール
藤原宏輝(ふじわら こうき)『READING LIFE 編集部 ライターズ俱楽部』
愛知県名古屋市在住、岐阜県出身。ブライダル・プロデュース業に25年携わり、2200組以上の花婿花嫁さんの人生のスタートに関わりました。
さらに、大好きな旅行を業務として20年。思い立ったら、世界中どこまでも行く。知らない事は、どんどん知ってみたい。
と、好奇心旺盛で即行動をする。とにかく何があっても、切り替えが早い。
ブライダル業務の経験を活かして、次の世代に何を繋げていけるのか?
をいつも模索しています。
2024年より天狼院で学び、日々の出来事から書く事に真摯に向き合い、楽しみながら精進しております。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
お問い合わせ
■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム
■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。
■天狼院カフェSHIBUYA
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00
■天狼院書店「湘南天狼院」
〒251-0035 神奈川県藤沢市片瀬海岸二丁目18-17
ENOTOKI 2F
TEL:04-6652-7387
営業時間:平日10:00~18:00(LO17:30)/土日祝10:00~19:00(LO18:30)
■天狼院書店「京都天狼院」
〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00
■天狼院書店「名古屋天狼院」
〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00
■天狼院書店「福岡天狼院」
〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00