「”前の私”が戻らない脳と共に生きる ― 高次脳機能障害とアイデンティティの再構築」《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
2025/10/20/公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
事故で脳に障害を負い、「前の私」に戻れない現実を突きつけられる――そんな人は少なくありません。見た目は変わらなくても、記憶や判断力の喪失は大きな苦しみを伴います。けれども、アイデンティティは”戻る”ものではなく”育っていく”もの。小さな成功と工夫を積み重ねることで、新しい自分を築いていく再起動の物語です。
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「妻の名前が思い出せない。昨日何をしたかも覚えていない。鏡を見ると確かに私の顔なのに、中身は別人になってしまった気がします」
交通事故で脳外傷を負ったOさん(38歳)の言葉には、深い混乱と絶望が込められていました。外傷から6ヶ月が経過し、身体的な回復は順調でしたが、記憶障害、注意障害、遂行機能障害といった高次脳機能障害が残り、以前の自分との連続性を感じられずにいたのです。
高次脳機能障害は「見えない障害」とも呼ばれます。手足の麻痺のような明確な身体症状がないため、外見上は健常者と変わりません。しかし、記憶、注意、判断、言語理解といった高次の脳機能に問題が生じるため、日常生活に深刻な支障をきたします。
Oさんの場合、特に記憶の問題が深刻でした。新しいことを覚えることができず、過去の記憶も曖昧になっていました。妻のYさんとの結婚記念日も、子どもたちの誕生日も、頭の中から消えてしまったかのようでした。
「家族が『お帰りなさい』と言ってくれても、本当に帰ってきた気がしない。この家に住んでいた記憶はあるのに、実感がない。家族のことは愛しているはずなのに、その確信が持てない」
この「自分が自分でない」という感覚は、高次脳機能障害者の多くが経験する深刻な心理的苦痛です。哲学者のジョン・ロックが提唱した「記憶による人格の同一性」理論が示すように、私たちのアイデンティティは連続した記憶によって支えられています。その記憶が断片的になることで、自己の連続性が脅かされるのです。
Oさんは毎日、鏡の前で自分に問いかけていました。「本当にこれが私なのか?」「以前のOさんはどこに行ってしまったのか?」答えの見つからない問いが、彼を更なる混乱に陥れていました。
事故前のOさんは、建築設計事務所で活躍する優秀な建築士でした。複雑な設計図を描き、多数のプロジェクトを同時進行で管理し、クライアントとの高度な交渉も得意としていました。仕事に対する情熱と自信に満ちた日々を送っていたのです。
「図面を見ても、線の意味がわからない。以前は一目で構造全体を理解できたのに、今は簡単な間取り図さえ頭に入ってこない。『建築士のO』が私のすべてだったのに、それがなくなってしまった」
Oさんの苦しみは、単なる職業能力の喪失にとどまりませんでした。「優秀な建築士である自分」「家族を支える頼れる夫・父親である自分」「明晰な判断力を持つ自分」——これらのアイデンティティの中核部分が機能しなくなったことで、自己存在の意味そのものが揺らいでいたのです。
心理学者のエリクソンが提唱した「アイデンティティ危機」の概念は、通常は青年期の発達課題として語られますが、脳外傷後にも同様の現象が起こります。しかし、青年期のアイデンティティ探索とは異なり、脳外傷後のアイデンティティ危機は「失ったものを取り戻す」ことへの執着を伴います。
Oさんも例外ではありませんでした。リハビリテーションに取り組みながらも、心の奥では「以前の自分に戻ること」だけを目標としていました。記憶訓練、注意力訓練、遂行機能訓練——すべては「建築士として復帰する」という単一の目的に向けられていました。
「リハビリの先生は『新しいことを覚える練習をしましょう』と言うけれど、私が欲しいのは新しい能力じゃない。前の記憶、前の判断力、前の自分です。それが戻らない限り、私は私じゃない」
この「前の自分」への固執は、一見すると当然の願いに思えます。しかし、実際には回復を妨げる要因となる場合があります。脳の器質的な損傷によって失われた機能の完全な回復は、現在の医学では困難な場合が多いからです。「元通り」を唯一の成功基準とすることで、現在可能な適応や成長の機会を見逃してしまうリスクがあるのです。
Oさんに変化の兆しが見え始めたのは、事故から1年が過ぎた頃でした。きっかけは、同じ病院でリハビリを受けていた脳梗塞の患者、Tさん(65歳)との会話でした。
「Oさん、私も最初は『元の自分に戻りたい』と思っていました。でも、ある日気づいたんです。元の自分って、そんなに完璧だったかな? って。脳梗塞になって初めて、妻の大変さがわかった。家族と向き合う時間も増えた。失ったものも多いけれど、得たものもあるんです」
Tさんの言葉は、Oさんに新しい視点を提供しました。「アイデンティティは固定されたものではなく、更新可能なもの」という考え方との出会いでした。
心理学の分野では、近年「ナラティブ・アイデンティティ」という概念が注目されています。これは、人生の出来事を統合的な物語として構成することで形成されるアイデンティティです。重要なのは、その物語は固定されたものではなく、新しい経験や視点によって常に書き換えられていくということです。
Oさんは、リハビリテーション心理士の助言を受けながら、自分の人生を改めて振り返ってみました。すると、「優秀な建築士」というアイデンティティの陰に隠れていた他の側面が見えてきました。
「確かに仕事はできたけれど、家族との時間は犠牲にしていた。子どもたちの学校行事にもほとんど参加していなかった。『成功した建築士』だったかもしれないけれど、『良い夫・良い父親』だったかは疑問です」
この気づきは、Oさんにとって痛みを伴うものでしたが、同時に解放でもありました。「完璧だった前の自分」という幻想から自由になることで、現在の自分を受け入れる余地が生まれたのです。
アイデンティティの「更新」を受け入れ始めたOさんは、新しい自分の可能性を探求し始めました。記憶や注意力に問題があることは変わりませんが、それを補う方法を工夫することで、以前とは異なる強みを発見していったのです。
まず気づいたのは、「丁寧さ」でした。以前のOさんは処理速度の速さを誇りにしていましたが、現在は一つ一つの作業に時間をかけて取り組まざるを得ません。しかし、その結果として、細部への注意力が格段に向上していました。
「簡単な模型作りの作業で、以前なら見落としていたような小さな不具合に気づくようになった。速度は遅くなったけれど、質は上がったかもしれません」
次に発見したのは、「共感力」でした。自分が困難を抱えていることで、他者の苦労や痛みに対する理解が深まっていたのです。リハビリテーション病院で出会う他の患者さんたちとの交流で、この新しい能力が活かされていました。
「言語障害で話しにくい患者さんの気持ちがわかる。記憶障害で混乱している人の不安も理解できる。以前の私にはなかった共感力が育っていることに気づきました」
さらに、「創意工夫の力」も新たな強みとして現れました。記憶の問題を補うため、Oさんは様々な記憶補助具やメモシステムを開発しました。これらの工夫は、同じような困難を抱える他の患者さんたちにも大いに参考になりました。
「制約があるからこそ、工夫が生まれる。健康だった頃は力任せに解決していた問題を、今は知恵を使って解決している。これも一つの能力だと思えるようになりました」
これらの発見は、Oさんのアイデンティティに新しい要素を加えました。「優秀な建築士だった自分」から「困難を工夫で乗り越える自分」「他者の痛みを理解し支援する自分」「家族との時間を大切にする自分」へと、より多面的で豊かなアイデンティティが形成されていったのです。
セルフケアエクササイズ「今の自分を記録する」
脳損傷や認知機能の変化を経験したあなたへ。Oさんが実践した「今の自分を記録する」エクササイズを紹介します。過去の自分との比較ではなく、現在の自分の価値を発見することを目的としています。
【ステップ1:記録ツールの準備】
日記帳、スマートフォンのアプリ、音声録音など、あなたが使いやすい記録方法を選んでください。記憶に問題がある場合は、複数の方法を組み合わせることをお勧めします。
【ステップ2:日々の「できたこと」記録】
毎日、どんなに小さなことでも「今日できたこと」を記録してください。
例:
– 朝、自分で起きることができた
– 家族と会話を楽しんだ
– 薬を忘れずに服用できた
– 新しい道順を覚えられた
– 他人の話に共感できた
– 工夫して問題を解決した
【ステップ3:感情と体験の記録】
その日に感じた感情や特別な体験も記録します。記憶に問題があっても、感情は重要な情報源です。
例:
– 孫の笑顔を見て温かい気持ちになった
– 友人の悩みを聞いて、役に立てた気がした
– 新しい方法を試してうまくいった時の達成感
– 失敗した時の悔しさも、次への学びになった
【ステップ4:他者からのフィードバック記録】
周囲の人からの言葉や反応も記録してください。自分では気づかない変化や成長を発見できます。
例:
– 「最近、話をよく聞いてくれるね」
– 「そのアイデア、面白いね」
– 「ゆっくり話してくれるから、わかりやすい」
– 「一緒にいると落ち着く」
【ステップ5:工夫と対策の記録】
困難を乗り越えるために編み出した工夫や対策を記録します。これらは重要な「知恵」の蓄積です。
例:
– メモを見える場所に貼る
– スマホのリマインダーを活用
– 作業を小さな段階に分ける
– 疲れた時の休憩方法
– 家族とのコミュニケーション方法
【ステップ6:週次・月次の振り返り】
週に一度、記録を振り返り、パターンや変化を発見してください。
振り返りの視点:
– 最も多く記録された「できたこと」は何か
– 新しく身についた能力や習慣はあるか
– 困難を乗り越える力が向上した場面はあるか
– 人間関係で良い変化があったか
【ステップ7:「今の自分の強み」のリスト作成】
記録を基に、現在の自分の強みや価値をリストアップしてください。
例:
– 困難に対する工夫力
– 他者への共感力
– 丁寧に物事を行う力
– 家族を大切にする気持ち
– 新しいことを学ぶ意欲
重要なポイント:
– 「以前と比べて」ではなく「今の自分として」評価する
– 小さな変化も重要な成長として認める
– 完璧を求めず、継続することを重視する
– 記録自体が認知機能の訓練にもなる
このエクササイズを続けることで、「失った自分」ではなく「育ちつつある自分」に焦点を当てることができるようになります。
現在のOさんは、事故から5年が経過し、全く新しい人生を歩んでいます。障害者支援施設「ひまわり工房」で、知的障害や発達障害のある方々と一緒に木工作品を作る活動をしています。複雑な建築設計はできませんが、一つ一つの作品に込められた思いを大切にし、利用者の個性を活かした創作をサポートしています。
「以前の私は効率と結果を重視していました。でも今は、過程を大切にしています。利用者さんが『できた!』と喜ぶ瞬間に立ち会える。その笑顔は、どんな建築作品よりも価値があると感じます」
Oさんが開発した記憶補助ツールは、今では多くの高次脳機能障害者に利用されています。スマートフォンアプリ「わすれな草」は、障害者向けのツールとして注目を集め、リハビリテーション関係者からも高い評価を受けています。
「記憶障害があったからこそ生まれたアイデアです。健康だった頃の私には、こんな発想はありませんでした。制約が創造性を生み出すことを、身をもって体験しています」
Oさんの家族関係も大きく変わりました。以前は仕事に追われて家族との時間を犠牲にしていましたが、現在は毎日家族と夕食を共にし、子どもたちの学校行事にも積極的に参加しています。
「息子が『お父さん、前よりも優しくなったね』と言ってくれました。記憶は曖昧になったけれど、家族との絆は深まった。これも大きな収穫だと思います」
Oさんの体験は、脳損傷後のアイデンティティ再構築の可能性を示しています。重要なのは、「失ったもの」に囚われるのではなく、「今あるもの」「新しく生まれるもの」に焦点を当てることです。
アイデンティティとは、固定された不変のものではありません。それは生涯にわたって育ち続けるものであり、困難な体験も含めて私たちを形作る重要な要素なのです。脳損傷という体験も、決して「終わり」ではなく、新しいアイデンティティの「始まり」となり得るのです。
もしあなたが今、脳の機能変化や認知症の進行、その他の神経系の問題に直面しているとしたら、Oさんの言葉を思い出してください。「前の自分に戻ることはできないかもしれないが、新しい自分を育てることはできる」「制約は新しい可能性の始まり」「アイデンティティは固定されたものではなく、常に更新されるもの」。
今日から、「今の自分」を記録し、認め、育てていくことを始めませんか? あなたの中には、まだ発見されていない新しい強みや可能性が必ず存在しています。それを見つけ、育てていくことが、真の意味でのアイデンティティの再起動なのです。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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