名も無き仕事を称えたいし、何者でも無い自分が誇りを持てる今日にしたい≪週READING LIFE Vol.328「アンカー」≫
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/10/23公開
記事 : 志村 幸枝 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
息子が朝練に出かけるといって家を飛び出した。
「オレ、リレーに出る可能性あるしな」
「え? もうメンバー決まってるんやろ?」
「せや。オレは補欠の補欠の補欠の補欠やし、スタメン4人休んだらオレが出る事になんねんか」
「ほぉぉぅぅう……!!!」
この発想力に私は朝から唸った。
いや、正直、笑った。おもろすぎる。
でも、こういう発想って案外、大事だなと思う。
もし自分が「どうせ出番ないし」と決めつけていたら、バトンを受け取る準備なんてできやしない。チャンスは準備された心にしか降り立たないのだ。そう思うと、息子のその軽やかな言葉が、とてつもなく信じている心が、朝の空気の中でやけにまぶしかった。
思えば、私もずっと“補欠の補欠”みたいな感覚で生きてきた気がする。
漢方相談の仕事を始めて二十数年。最初はただ目の前の仕事に食らいついていただけだった。先輩方のような深い知識も、恩師のような包容力もなかった。ただ、続けていくうちに不思議な瞬間が何度もあった。「やっぱり漢方ってすごいな」と感じる瞬間。たとえば、長年悩んでいた人が少しずつ元気になっていく。顔の血色が良くなる。声のトーンが明るくなる。理屈では説明しきれない、生命の底からの変化。そのたびに思うのだ。古典をちゃんと読めていない自分には、張仲景(ちょうちゅうけい)や孫思邈(そんしばく)がどんな偉業を成し遂げたのか正確には語れないけれど、それでも確かにこの道の「すごさ」は感じている。まるで、長い大河の流れの一滴として、自分もその水の循環の中にいるような感覚。
先日参加した勉強会で、講師の先生が何度も言っていた。「この話は恩師に教えていただいたことですが……」「恩師から頂いた知恵を、また私が次の人に伝えていくことが使命だと思っています」など。私からしたら、その先生だって充分すぎるほど誰かの恩師であるに違いない。そんな先生のあまりにも謙虚で誠実な姿勢に、こちらまで背筋が伸びる思いだった。わたしはその日の感激を込めて「先生はこの道の大きな流れを形作ってくださる存在ですね」と伝えた。それなのに先生は笑いながら言った。「私は大河の一滴にすぎません」と。その言葉が、妙に胸に残っている。いやいや、ならば私はまだ水蒸気のようなものだ。形も定まらず、空に漂っているだけの存在。でも、いつか雲になり、雨になり、大河に還る日が来るのかもしれない。それでいい。流れは続いているのだから。
思い出すのは、ある営業担当さんのことだ。
私がやっている「漢方相談」という仕事は、相談する学術力を高めることはもちろん、小売業の側面も持つので、商品知識や販売促進の企画力なども必要となる。そういったことをひっくるめて二人三脚ですすめていくバディーみたいな存在が、取引先メーカーの営業担当さんだ。
長く一緒に仕事をしていた方が退職し、しばらくして新しい担当さんが来た。その後、数字がぐんぐん伸びた。表向きには「新しい担当さんの実績」になるのだろうし、社内でも彼はそう評価されていたと思う。でも実際にはそうじゃないと私は言いたかった。前任の担当さんが丁寧に取り組んでくれていたことをよくわかっていた。その信頼の積み重ねが、いまやっと実を結び始めたのだ。先頭を全力で走り、バトンを渡して去っていった人がいたから、次の走者が気持ちよく走れた。「数字が伸びた」という結果がゴールだとしたら、新しい担当さんはアンカーということになる。アンカーは、最後に走る人を指すけれど、これまでバトンをつなぐ「流れ」があったからこそのゴールだ。誰かがスタートを切り、誰かが中継し、誰かが最後に走る。そこに「誰が一番速かったか」なんて、あまり意味はない。大切なのは、バトンが落ちずに次へと渡っていくことだ。
以前読んだアドラー心理学の本にこんな感じの一文があったと思う。
「アドラー心理学が当たり前になれば、誰もアドラーの名前を口にしなくなるだろう」みたいなことだったと記憶している。その言葉を知ったとき、胸の中がじんわりとした。名を残さなくてもいい、という生き方。自分という存在が忘れられても、その考えが、誰かの日常の中で当たり前のように息づいていく。つまり、本当に価値あるものは、名前を超えて生き続けるということ。私も、そういう仕事がしたいと思った。そもそも自分の名前が残るなんて思っていないが、だれかが元気になって、その人の中に「漢方っていいな」「身体ってすごいな」という感覚が残るなら、それで十分だ。だってそれはもう、私の手を離れたバトンなのだから。
バトンを最後に受け取るのはアンカーだ。この言葉を聞くと、かつての私なら「最後に責任を負う人」というイメージを持っていた。でも今は違う。アンカーとは、「受け継ぐ人」であり「託す人」だと思う。前に走ってきた人の想いを受け取り、次の誰かに流れをつなげる人。始まりがあれば、終わりがあるが、何かの終わりは、何かの始まりでもある。延々と続くそのリレーの列のずっと向こうには、張仲景や孫思邈がいる。アドラーがいる。恩師がいる。すべての走者が見えないバトンをつなぎながら、この大河の流れを形づくってきたのだと思う。
息子が言った「補欠の補欠の補欠の補欠」──その言葉の中にも、実はちゃんと流れがある。バトンをつなぐ可能性を信じている人だけが、チャンスを迎え入れる準備ができるのだ。誰かの何かを引き継ぎながら、次の誰かに託す。私は、名も無き仕事を称えたいし、何者でもない自分が誇りを持てる今日にしたい。だから流れが続く限り、走り続ける。水蒸気が一滴になれるように。
❏ライタープロフィール
志村幸枝:しむらゆきえ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
京都在住の道産子。2025年1月より、ライティング・ゼミに参加。天狼院メディアグランプリ66th Season総合優勝。2025年5月より、ライターズ倶楽部へ。神戸で漢方相談に携わる。わかりやすいたとえ話で「伝わる漢方相談」をするのがモットー。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
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