心と身体の再起動スイッチ

「白い紙に一文字書けた」うつ状態の女性が再起動した日《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》

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2025/10/27/公開

 

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

真っ白な紙の前に、何時間も座っていた。ペンを持つ手は震え、頭の中は空っぽのまま。かつて言葉を綴ることが好きだった彼女は、もう「何も書けない自分」を責め続けていた。それでもある日、彼女は白い紙にたった一文字——「あ」と書いた。その一文字が、静かに閉じていた心の扉を、ほんの少しだけ開けた。

——

 

彼女が私のもとを訪れたのは、冬の終わりだった。診察室に入ってくる足取りは重く、椅子に座る動作さえもどこか緩慢だった。視線は床に落ちたまま、私が声をかけても「はい」「いいえ」以外の言葉はほとんど返ってこない。

 

「以前は、何かお好きなことはありましたか」と尋ねると、彼女はわずかに顔を上げた。「……日記を、書いていました」その声は、かすれていた。

 

うつ状態が長期化すると、思考も感情も次第に鈍化していく。これを私たちは「停電」のような状態と表現することがある。停電とは、心身の機能が一時的に失われ、感じる・考える・動くといった活動が停止している状態を指す。電気が途絶えた家のように、心の中の明かりが一つずつ消えていく。感じる力、考える力、動く力——それらが少しずつ失われ、最後には「何もない」という空白だけが残る。

 

彼女もまた、そんな停電の中にいた。以前は毎晩のように日記を書いていたという。その日あったこと、感じたこと、誰かに言えなかった言葉。ノートに綴ることが、彼女にとっての「自分と向き合う時間」だった。

 

けれど、ある日を境に筆が止まった。

 

「何を書けばいいのか、わからなくなって」と彼女は言った。「考えても、何も浮かばない。書く意味もないような気がして」

 

それは単なる「書きたくない」ではなかった。「書けない」のだ。思考が働かず、感情が動かず、自分の中に何もないように感じる。白い紙を前にすると、その空白が自分そのものに思えて、見るたびに苦しくなる。

 

彼女は日記帳を捨てた。ペンも引き出しの奥にしまった。それでも部屋の片隅に残った白い紙が、彼女を責め続けた。「あなたには何もない」と。

 

初回の面談を終えた後、私は彼女のカルテに記した。「表現活動への強い抵抗。自己否定的思考の固着。まずは安全な環境での非言語的活動から開始」

 

うつ状態の人に「書きなさい」「表現しなさい」と促すことは、時に残酷だ。なぜなら、彼らは既に「できない自分」に苦しんでいるからだ。その苦しみの上にさらに課題を重ねることは、回復を遅らせることさえある。

 

 

作業療法の導入を決めたのは、彼女が「何もできない自分」に押しつぶされそうになっていたからだった。薬物療法やカウンセリングももちろん重要だが、うつ状態の回復過程では、「手を動かす」という行為そのものが、心の再起動のきっかけになることがある。

 

最初のセッションで、私は折り紙を取り出した。彼女は戸惑った表情を見せた。「折り紙、ですか」「ええ。今日は鶴を折ってみましょう。私も一緒に折りますから」

 

彼女は恐る恐る紙を手に取った。指先がわずかに震えている。私はゆっくりと手順を示し、彼女もそれに倣って折り始めた。

 

最初は何度も間違えた。折り目がずれる。形が崩れる。そのたびに彼女は「すみません」と謝った。「謝らなくていいんですよ。何度でもやり直せますから」と私は言った。

 

三十分ほどかけて、ようやく一羽の鶴が完成した。少し歪んでいたけれど、確かに鶴の形をしていた。彼女はそれを手のひらに乗せ、じっと見つめた。

 

「……できました」

 

その声には、小さな驚きが含まれていた。

 

次の週も、また次の週も、私たちは手を動かす時間を続けた。折り紙、粘土細工、簡単な編み物。言葉はあまり交わさない。ただ手を動かす。指先に集中する。

 

その過程で、彼女の表情が少しずつ変わっていった。最初は硬く閉ざされていた顔に、わずかな柔らかさが戻ってきた。「今日は花を折りたい」と、自分から希望を口にするようになった。

 

手を動かすことは、脳の一部を目覚めさせる。特に指先を使う細かな作業は、前頭葉を刺激し、集中力や意欲に関わる神経回路を活性化させる。それは薬のような即効性はないけれど、確実に心を少しずつ温めていく。

 

ある日、彼女が作業の手を止めて言った。「先生、私、少し楽になってきた気がします」

 

「どんなふうにですか」

 

「前は、何もできない自分が嫌で嫌で仕方なかった。でも今は、こうして何かを作れる。それが、少し嬉しいんです」

 

その言葉に、私は深く頷いた。これが回復の第一歩だった。

 

 

数週間が過ぎた頃、私は彼女に提案した。「今日は、少しだけ書いてみませんか」

 

彼女の表情が強張った。「何を書けば……」

 

「何でもいいんです。線でも、丸でも。形だけでも描いてみましょう。文字である必要もありません」

 

白い紙を一枚、彼女の前に置いた。ペンを手渡す。彼女は震える手でそれを受け取り、紙を見つめた。長い沈黙。私は何も言わず、ただ待った。

 

時計の秒針の音だけが、静かに部屋に響いていた。一分、二分、三分——。

 

やがて、彼女の手がゆっくりと動いた。

 

ペン先が紙に触れる。震えながら、一本の線が引かれる。それは途中で途切れ、歪んでいた。けれど彼女は止まらなかった。もう一度、線を引く。そして——文字らしき形が現れた。

 

「あ」

 

ひらがなの「あ」だった。決して美しい字ではない。線は震え、バランスも崩れていた。けれど、それは確かに文字だった。意味を持つ、一つの言葉だった。

 

彼女はペンを置いた。そして、紙を見つめたまま、静かに涙を流した。

 

「……書けました」

 

その声は、か細かったけれど、確かに届いた。

 

私は静かに頷いた。「はい、書けましたね」

 

彼女は涙を拭いながら、もう一度その一文字を見つめた。

「こんなに簡単なことが、こんなに難しかった。でも、書けた。本当に、書けたんですね」

 

これが「再起動」の瞬間だった。再起動とは、停電していた心身の機能が、少しずつ回復し始める過程を指す。完全に元通りになるわけではない。すべての機能が一気に回復するわけでもない。けれど、止まっていた何かが、ほんの少しだけ動き始める。それが再起動だ。

 

スイッチを押せばすぐに明るくなる照明とは違う。心の再起動は、ゆっくりと、段階的に進んでいく。最初に戻るのは、ほんの小さな感覚や行為だ。そうした微細な変化が、やがて大きな回復へとつながっていく。

 

 

書くという行為は、本来「表現」のためにある。自分の思いを言葉にし、誰かに伝える。あるいは自分自身を理解するために書く。

 

けれど、うつ状態の中で書かれた「あ」という一文字は、それとは違う意味を持っていた。

 

それは「存在の確認」だった。

 

「私はここにいる」その感覚を、彼女は一文字を通して取り戻した。何も感じられなくなっていた心が、ほんの少しだけ動いた。何も考えられなくなっていた頭が、一つの文字を生み出した。それは小さな、けれど確かな「生きている証」だった。

 

作業療法士として、私はこの瞬間を何度も目にしてきた。うつ状態の回復過程では、「意欲」や「前向きな気持ち」が先に来るわけではない。むしろ、それらは最後にやってくる。

 

最初に必要なのは、「微細な行為」の再開だ。

 

手を動かす。何かに触れる。音を聞く。色を見る。そうした小さな感覚の積み重ねが、少しずつ心を再起動させていく。彼女の場合、それが「一文字を書く」という行為だった。

 

その後、彼女は少しずつ文字を増やしていった。「あ」の次は「い」そして「う」

やがて、それは言葉になった。「あおい」「あさ」「あたたかい」

 

ある日、彼女は三文字の言葉を書いた。「いきる」

 

「生きる、ですか」と私が尋ねると、彼女は頷いた。「今日、そう思えたんです。少しだけ」

 

その言葉を聞いて、私は胸が熱くなった。「生きる」という言葉を自分で書けるということ。それは、生きることへの意欲が、ほんの少しだけ戻ってきたということだった。

 

日記を書くまでには、まだ時間がかかった。けれど彼女は、もう白い紙を恐れなくなっていた。白い紙は「自分の空白」ではなく、「希望の余白」として、再び機能し始めていた。

 

数ヶ月後、彼女は小さなノートを持ってきた。「これ、また書き始めました」

ページを開くと、そこには短い文章が綴られていた。丁寧な字で、ゆっくりと。

 

「まだ毎日は書けません。でも、書きたいと思える日が増えました」

 

彼女の声には、以前の力強さが少しずつ戻っていた。

 

そのノートには、こう書かれていた。

 

「今日は晴れていた。窓から光が入ってきて、部屋が明るかった。久しぶりに、きれいだと思った」

 

たった三行。けれど、その三行には、彼女の心が再び動き始めたことが刻まれていた。

 

 

私たちの心も身体も、時に「停電」する。突然の喪失、長期のストレス、慢性的な疲労。それらが積み重なると、ある日、すべてが止まる。感じる力も、考える力も、動く力も失われる。

 

けれど、停電は終わりではない。

 

電気が戻るように、心も再起動する。ただし、それは一瞬で完了するものではない。心の再起動は、ゆっくりと、段階的に進んでいく。

 

最初に戻るのは、ほんの小さな感覚だ。温かさを感じる。音が聞こえる。文字が書ける。そうした微細な変化が、やがて大きな回復へとつながっていく。

 

作業療法士としての私の役割は、その最初の一歩を支えることだ。「何もできない」と感じている人に、「何かができる」瞬間を届けること。それがどんなに小さくても、その一歩が、人生を再び動かす力になる。

 

臨床の現場で、私は何度も「一文字の奇跡」を目にしてきた。それは文字だけではない。一つの音、一枚の絵、一度の微笑み——そうした小さな「できた」の積み重ねが、人を再び立ち上がらせる。

 

ある患者さんは、一年ぶりに「ありがとう」と言えた。別の患者さんは、三ヶ月ぶりに笑顔を見せた。また別の患者さんは、半年ぶりに外の空気を吸いに行った。

 

それらはすべて、「小さな再起動」だった。

 

彼女が書いた「あ」という一文字は、今も私の心に残っている。それは単なる文字ではなく、「生き直す」ことの始まりだった。

 

白い紙の前に座る時間が、彼女にとって再び「希望の時間」になった日。その日を、私は忘れない。

 

半年後、彼女は作業療法を卒業した。最後のセッションで、彼女は私に一通の手紙を渡した。

 

そこには、こう書かれていた。

 

「先生、ありがとうございました。あの日、初めて『あ』と書けた時のことを、私は一生忘れません。あれが、私の新しい人生の始まりでした。今は毎日、日記を書いています。まだ短い文章ですが、自分の言葉で、自分の気持ちを書けるようになりました。白い紙は、もう怖くありません。むしろ、そこに何を書こうかと考えるのが、楽しみになっています」

 

その手紙を読んで、私は深く感動した。

 

停電していた心が、完全に再起動した。彼女は再び、自分の言葉で生きることを取り戻したのだった。

 

 

※本文における用語の定義

 

停電: 心身の機能が一時的に失われ、感じる・考える・動くといった活動が停止している状態。外部からのエネルギー供給が途絶えたかのように、内的な活力が失われた状態を指す。うつ状態においては、思考や感情が鈍化し、「何もない」という空白感に支配される状態を意味する。

 

再起動: 停電していた心身の機能が、少しずつ回復し始める過程。完全な回復ではなく、微細な感覚や行為から徐々に心が動き始める段階的な変化を意味する。一瞬で完了するものではなく、小さな「できた」の積み重ねによって、ゆっくりと心が温まっていく過程を指す。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

 

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

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2025-10-27 | Posted in 心と身体の再起動スイッチ

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