小さな酔いに生きる《週刊READING LIFE Vol.332「酔」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2025/11/20 公開
記事 :塩田 健詞 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「おい。何でてめえ営業時間前にドアを開けんのかよ」
野太い低い声が自分の肝を冷やした。後ろを振り返るとそこには別の部署の係長が立っていた。その表情は怒りに満ちている。
「余計なことしやがって」
彼はその言葉を口にしなかったが、そう言われているように聞こえた。
何気ない平日の朝。いつも通り職場へ向かい自転車を走らせていたところ。勤務先まで到着するとビルの正面玄関で一人の男性に声をかけられた。
「すみません。お手洗いお借りしても良いですか」
「分かりました。確認して参ります」
ええと、あのドアの鍵はどこに付いていたかな。ドアの下に鍵がついていたはずだからそれを回せば開くかな。
鍵を回して、ドアを開け、男性を中に入れる。
「お待たせいたしました。どうぞお入りください」
「ありがとうございます。助かりました」
丁寧にお客様を対応したその直後、私は冒頭の怒鳴り声を浴びせられた。
一体何が起こったのか。私にはさっぱり分からなかった。
ここは福祉事務所。生活が困窮した市民が足を運び、生活保護という最後のセーフティーネットを求めて訪れてくる。仕事が無くなり貯金が底をついた方、大病を患い働けなくなった方、夫からのDVを逃れて命からがら逃げてきた方、様々な事情を抱えている方が明日を生きるための生活を求めて訪れてくる。
その福祉事務所の設立の根幹にあるのは何か。日本国憲法第25条だ。
第25条 【生存権、国の社会的使命】
第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
私たちの仕事はこれの具現化にある。つまり、憲法で保障された「健康で文化的な最低限度の生活」を、現実の地域社会の中で一人ひとりに届けることだ。紙の上の理念を、窓口での言葉や手続き、支援の仕組みに変えていく。それが私たち福祉事務所職員の使命であり、誇りでもある。制度を運用するというより、制度の“魂”を守るのが仕事だと思っている。
だが、その理念はいつも綺麗事だけでは語れない。現場には、疲弊と緊張が常に渦巻いている。申請書の山、終わりの見えない面談、怒号、涙、そしてときに理不尽な暴言。限られた時間と人員の中で、「誰かの命を守る」という大義と「自分の心を守る」という現実の狭間に立たされる。だからこそ私たちは、「理念」ではなく「原点」を思い出す必要がある。なぜこの仕事を選んだのか。誰のために存在しているのか。その答えが、次の言葉に集約されている。
『「市民第一」とは、市民のことを第一に考えて業務を進める姿勢を表しています』
この言葉は、区役所の掲示物やスローガンとして掲げられているだけではない。本来は、職員一人ひとりの心構えを示す指針だ。たとえ窓口の対応ひとつでも、相手の立場に立ち、何を望み、何に怯えているかを想像すること。市民の暮らしを守ることを最優先に考え、制度を使うのではなく、制度を通して人を支えること。そうした姿勢があって初めて「市民第一」は意味を持つ。掲げるだけなら誰にでもできる。だが、行動にまで落とし込むのは難しい。
ところが、この出来事はどうだろう。困っている市民が「お手洗いを貸してほしい」と言った。それだけのことだった。ほんの数秒の判断で、私はドアを開けた。人として当然の反応だったと思う。だが、その瞬間に飛んできた怒鳴り声。
「何でドアを開けんのかよ」
そこにあったのは、安全管理や規則を守るという理屈ではなく、市民を“外”に置こうとする心理だった。自分たちの安心を守るために、市民の困りごとを排除する。その構図を目の前にして、私は言葉を失った。
「笑わせてくれる。何が市民第一だよ。自分たちを守りたいだけじゃないか」
同じ職場で働く者として恥ずかしいと思った。「市民第一」と掲げるなら、たとえ制度上の制約があっても、人としての思いやりを忘れてはならない。この「ドアを開ける」という行為は、単なる違反ではなく、人間としての直感的な優しさだった。だが、それが組織の中では「余計なこと」に変換される。理想と現実の狭間で、理念の言葉が音を立てて崩れていく音を、私は確かに聞いた気がした。
「この仕事についたことが馬鹿々々しい」
「私が間違っているのだ。この組織の中では」
そんな思考が頭の中をぐるぐると回っていた。憲法第25条や「市民第一」という理念は、言葉としては胸に刻まれている。だが、現実の現場では、その理念が皮肉のように反転している。守るべきは制度ではなく「人」であるはずなのに、制度を守るために人を排除してしまう。その矛盾を目の当たりにしたとき、私は組織の中の小さな歯車として、自分の存在意義を見失いかけていた。
始業のチャイムが鳴ったとき、私はもう感情を切り離すように、いつものデスクに座っていた。机の上には昨日の書類が無造作に積み重なっている。目の前の記録を追いながらも、心はどこか遠くにあった。仕事をしているのに、自分がどこにもいない感覚。電話の呼び出し音やコピー機の稼働音が、まるで自分を嘲笑っているように聞こえた。
「志なんて、口にしたところで誰も救われやしない」
そう思ってしまう自分を、私は誰よりも軽蔑していた。
沈んだ気分のまま業務を終え、速やかに職場を出た。冷たい風が頬を刺す。街の明かりがにじんで見えた。
「急にすみません。今日は飲みたいです」
メッセージアプリのグループでメッセージを送ると仕事外の友人が早速返信してくれた。私にとっての兄貴分だ。
「行きましょう」
「いつものお店いるね」
自転車を駅に停め、電車でいつもの店へ向かう。いつもの居酒屋は、仕事帰りの客で混み合っていた。友人がすでにハイボールを頼んでいた。グラスを持ち上げ、彼が笑った。
グラスの縁をなぞりながら、今日の出来事を話した。
「お客さんが“お手洗いを貸してほしい”って言ったから、普通に鍵を開けただけなんですけどね。そしたら上司に怒鳴られました。『余計なことするな』って」
友人は黙って聞いていた。
「ルールとか、安全管理とか、そういう話なんでしょうけど……」と私は続けた。
「でもね、目の前で困っている人を助けるのって、そんなに間違ってるのかなって思ってしまいます」
しばらく沈黙が流れたあと、友人はぽつりと言った。
「間違ってないよ。むしろ、それが一番正しいと思う」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「でもさ、組織の中ではそれが“正しい”とは限らないんですよね」
「うん。でも“間違ってない”って思える自分を、忘れないでほしい」
彼の言葉は、静かに沁みていった。私は自分の中で、“正しさ”をもう一度見つめ直していた。
理屈ではなく、人としての直感。あの日、自分がドアを開けたのは、同情でも義務でもなく、ただ自然な反応だった。それを「間違い」と言われたことで、自分の中の人間らしさまで否定された気がしていた。
「酔ってるって言われるかもしれないですけど」
私は笑いながら言った。
「まだ理想を信じていたいんですよね。現場はしんどいですが」
友人は笑ってグラスを掲げた。
「いいじゃん、それで。酔えるうちは、まだ大丈夫だよ」
そして急に真顔になり、彼は私を諭した。
「そんなしょうもないところに命をかけるのか」
その言葉は図星だった。「しょうもない」と切り捨てられるほど、私はこの小さな世界にのめり込んでいた。だが、その“しょうもなさ”の中に、確かに人の生きづらさや希望が息づいていることを知ってしまったのだ。
見過ごすことができない──それが私の欠点であり、生き方でもあった。
だからこそ、私はまだ夢に酔っていたい。
京セラの創業者、稲盛和夫に次のような言葉がある。
「夢に酔っていればこそ、それを実現させる情熱が湧いてくるのです」
夢に酔うこと。それは現実を忘れることではなく、理想を見失わないための“仮の灯り”なのかもしれない。冷たい現実の中でも、心の奥で温かく燃え続ける小さな火。その火があるから、翌日も仕事に向かうことができる。ある時は何かを立ち上げることが出来る。
私の酔いは、現実逃避ではない。人を信じたいという、ほとんど祈りのような意地だ。
あの日、ドアを開けた自分を、間違いだとは思いたくない。
ハイボールを飲み干すと、少しだけ空が明るく見えた。
帰り道、風が頬を撫でる。
私は今日もそんな彼らと共に酔い続けることにしたい。理想に、言葉に、そして人の優しさに。たとえそれが、誰かにとって“馬鹿々々しい夢”であったとしても。
❏ライタープロフィール
塩田健詞(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
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