週刊READING LIFE vol.332

未だ未だ有るよ、長嶋茂雄さんの逸話と記憶《週刊READING LIFE 「フリーテーマ」》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/11/20 公開

記事 : 山田THX将治 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

「長嶋さんって、選手時代はどれだけ凄かったのですか?」

 

今年6月3日に長嶋茂雄氏が逝去された直後、平成生まれの若者から真顔で訊ねられた。

それもその筈、若い人達にとって長嶋茂雄氏と謂えば、‘監督’のイメージしかないことだろう。特に平成生まれの方々には、“読売巨人軍・終身名誉監督”と謂う、長嶋氏しか付けられなかった肩書が印象強いことだろう。

 

何しろ、長嶋茂雄選手が現役を引退したのは1974(昭和49)年、監督を務めたのは1975年から1980年と、1993(平成5)年から2001年なのだから。

長嶋氏の現役時代を、確りと記憶しているのは現代では60代以上となる訳だ。

 

しかも、近しい世代にホームラン世界記録保持者(868本)の王貞治氏と、日本プロ野球(NPB)で唯一の3,000本安打を放った張本勲氏が居たので、長嶋氏の記録は目立たないのだろう。

それでも長嶋茂雄氏は、歴代15位の444本塁打と大学卒では2,000本超が初と為る2,471安打を記録している。

しかも、現役生活が伸びた現代野球とは違い、僅か17年間での記録なのだ。

 

よく、

 

『記録より記憶に残る選手』

 

と、呼ばれた長嶋茂雄選手だが、充分に記録にだって残って居るのだ。

 

 

長嶋茂雄氏の逝去に伴い、数多くの報道で氏の逸話と謂うかエピソードが紹介された。

しかし“記憶の長嶋”を語る上で、長嶋氏の現役時代を知る者として、未だ出て来ない逸話が有ることが気に為って居る。

それは、アニメ『巨人の星』でも描かれたシーンなので、私に記憶に間違いは無い。

 

ONを主軸として躍進する巨人が、四連覇目と為る1968年の9月18日、甲子園球場でその事件は起こった。

巨人リードで迎えた四回表、3番打者の王選手に対して、阪神の助っ人ジーン・バッキー投手が、二球続けて王選手の頭付近を通過する投球をした。

普段から危険球に対して怒ったことが無い王選手が、珍しくマウンドに詰め寄った。但し、喧嘩を売りに行ったのではなくあくまで注意を促すつもりだった。

しかし、慣れない行動を取った王選手は、バットを持ったままマウンドに向かっていた。

“これはマズい”と感じた両軍の選手は、一斉にピーッチャース・マウンド付近で揉み合いと為った。

中でも、王選手を育て上げた荒川博コーチは、バッキー投手を蹴り上げて来た。

バッキー投手は、荒川コーチに殴り掛かり、利き手である右手の親指を骨折して仕舞った。

荒川コーチとバッキー投手は、その場で退場処分を言い渡された。

 

バッキー投手の骨折には裏が有り、どうやら荒川コーチの策略だったらしいのだ。

元々、合気道の有段者だった荒川コーチは、殴り掛かって来るバッキー投手を見越し、拳が当たる寸前に身を屈めたと謂うのだ。只でさえ、身長190cm超(佐々木朗希投手・ドジャース・並みと思って下さい)のバッキー投手が、163cmと当時としても小柄な荒川コーチに殴り掛かったので、彼の右拳(利き手です)は振り下ろす形と為らざるを得ない。そこを更に身を屈まれたのだから、バッキー投手の拳は勢いよく荒川コーチの前頭部を直撃したのだ。

前頭部の頭蓋骨は、人骨の中でも一番硬い。比較的弱い指の骨が、折れる方が道理だ。

実際、荒川コーチは、後日談として、

 

「バッキーの手が当たった途端、“ボキ”って音がしたんだ」

「俺は、『あ、折れたな』と直感したよ」

「でもな、相手のエース級を潰したのだから、殴られた甲斐も有ったものだ」

 

と、事件の顛末を話している。

 

ただ、そればかりではない。

バッキー投手と荒川コーチは後翌日、所轄の甲子園警察署で事情聴取されたのだ。公衆の面前、それもテレビ放送迄されて居た試合だ。ファンへの影響を考慮されてのことだろう。

両名には、25,000円の罰金刑という略式命令が下された。

バッキー投手は、この骨折によりシーズン終了と為ったばかりか、これ(親指骨折)が起因と為り、現役生活を終えることと為ったのだ。

 

 

話を甲子園に戻そう。

乱闘の結果、当然のこととして、満員の甲子園球場(大半が阪神ファン)は、異常な雰囲気に包まれていた。

 

そこに、新たな事件が発生した。

 

バッキー投手に替わり急遽マウンドに上がった左腕リリーバーの投球が、今度は本当に王選手の頭部を直撃したのだった。

倒れ込んだ王選手は、ピクリとも動かなかった。一本足打法の構えの儘、右足を宙に浮かせて固まっている様だった。

テレビで観ていた、当時小学4年生だった私には、大変ショックな光景だった。

 

再び騒然となった場内に、担架が運び込まれ王選手を乗せて移動させた。

王選手の意識は無い様に見受けられた。

 

後年、このデッドボールにより打者のヘルメットに耳当てが付けられる様に為った。

 

そして、真打登場である。

ランナー一・二塁の状況で、打席に入ったのは四番打者の長嶋茂雄選手。

甲子園球場のざわめきが収まり切らない中、長嶋選手は初球を物の見事にレフト・スタンドに運んだのだ。

スタンドのざわめきは、一瞬にして静まり、長嶋選手がベースを廻り始めると、多数の阪神ファンの悲鳴と、少数の巨人ファンの歓声と変化したのだ。

 

ベールを廻る長嶋選手は一人、実に冷静な表情だったと記憶している。

信頼する同僚の王選手が倒され、自軍コーチと相手助っ人が退場と為り、両軍選手・監督・コーチ、そして観客迄もが騒然となる中、長嶋選手は冷静に集中力を高めていたのだ。

 

私は今でも、長嶋茂雄選手の記憶と問われると、真っ先にこのシーンを思い浮かべるのだ。

 

 

長嶋茂雄氏の現役生活を知らない若い方達には、冒頭の様な疑問を持たれても仕方はない。

付け加えるとすれば、長嶋氏の記録は、38歳で引退したものであることを挙げて置きたい。

 

更に、長嶋選手の現役を観て記憶している者として、これも伝えて置きたい。

王貞治選手の本塁打世界記録は、その大半が前後(王選手の)に長嶋選手が居たからこそ達成出来たものと思うことだ。

長嶋選手の存在で、王選手と勝負せざるを得なかったのだ。

なので、私は今でもこう思って居る。

王選手が放った868本の本塁打は、もし、長嶋茂雄選手の存在が無ければ、かなり減って居たと思えて仕方が無いのだ。

 

 

そしてもう一つ、語られていないエピソードが有る。

 

長嶋茂雄氏の訃報報道の中で、天覧試合(1959年6月25日)のサヨナラ本塁打のシーンが多用されていた。

しかし唯一人、これに異を唱えた人が居たことを御存知だろうか。

その人とは、本塁打を打たれた阪神の村山実投手だ。

長嶋氏の一学年下の村山氏は、1998年に61歳の若さで亡くなって居る。

 

現代でも、天覧試合・サヨナラ本塁打に関して、村山氏のコメント動画が残って居る。

村山氏に依ると、あのサヨナラ本塁打は、明らかにファールだったと言うのだ。

その意見を聞いた後に、改めて天覧試合のサヨナラシーンを観ると、打球の落下地点を明確に映し出しているものが無いのだ。

レフトポール際に打球が飛んだ映像は在るものの、直ぐにカットが切り替わり、腕を回しながら喜んでベースを一周する長嶋選手が映るのだ。

 

それと、三塁を廻った長嶋選手の直ぐ前を、帽子をあみだに被り諦めた態度の村山投手が横切るのだ。

本来ならば、打者が確りと本塁を踏む迄、投手はマウンド上で確認するものだ。

 

然し当日は、天皇陛下の前だ。しかも、陛下の予定時間はあと数分の状況だった。

試合の勝敗が着く前に、御帰り頂くのは心苦しい。

微妙な状況だが、本塁打で決着した方が、収まりも良いしコンセンサスも取り易い。

それに、通常なら審判に監督が抗議しそうなものだが、陛下の前でそんな無礼は許されまい。何せ、終戦から14年しか経って居ない時代だし、史上初の天覧試合なのだし。

更に、本塁打を打ったのが、スーパースターに上り詰めつつある長嶋茂雄選手だったし。

 

多分、村山実投手は、その辺りを一瞬で判断し、せめても抗議を示そうと長嶋選手の前を‘わざと’横切ったのでは無いだろうか。

 

実際、1998年に村山実投手が亡くなった際、辞世の言葉は、

 

『あれは、ファールだった』

 

と、実しやかに伝えられて居るのだ。

 

 

30年程早く天国に着いて居た村山実氏は、やっと到着したライバルに、

 

「チョーさん、あんたの処からは如何見えた?」

 

と、今頃訊ねているのではないだろうか。

あの打球が、本塁打かファールか確認して。

 

 

そして、当の長嶋茂雄氏は、御馴染みの甲高い声色で、

 

「うーん、如何でしょう。陛下の御時間も在りましたから、ホームランでしょう」

「それに、打った瞬間に一塁に向けて走り出したので、打球の行方は見ていなかったのですよ」

 

なんて答えている気がして為らない。

 

私にこんな想像をさせる辺りこそ、長嶋茂雄氏の“記憶に残る”そのものなのではないだろうか。

 

 

今年の6月3日、長嶋茂雄氏の訃報を私はテレビの速報で知った。

正直な処、驚きと謂うより、

 

『えッ! 話が違うじゃん』

 

と、私は思って仕舞った。

 

89歳という年齢からも、20年以上も脳梗塞の後遺症と闘って居られたことからも、いつ訃報が届いても不思議が無い状況であったことは確かだ。

しかし私は、1996年の誕生日(2月20日)に長嶋氏が発した一言に感動し、更に思い込んだことで、私は話が違うのではと感じて仕舞ったのだ。

 

その、長嶋氏の発言とは。

 

長嶋氏の誕生日(2月20日)は、現役時代からキャンプ中だったことも有り、マスメディアに取り上げられることが多かった。

1996年は、長嶋氏が60歳(還暦)を迎える誕生日だった。

マスコミの記者達は、嫌がる長嶋監督に無理矢理、還暦の象徴でもある‘赤いチャンチャンコ’を着せようとした。着せてカメラに収め様としたのだ。

巨人軍のユニフォーム、それも永久欠番の“背番号3”の上に。

照れながら、赤いチャンチャンコに袖を通した長嶋監督は、カメラに向かい、

 

「今日、“初めて”還暦を迎えるにあたり……」

 

と、コメントを始めたのだ。

私もそうだが、世間は一斉に、

 

『還暦は一生に一度のことなので、初めてなのは当然』

 

と、囃し立てた。

 

長嶋氏と謂えば、解説者・監督時代を通じて、奇妙で一風変わった言い回しをすることで有名だった。

その際も、“初めての還暦”が、長嶋氏独特の天然発言として捉えられていたのだ。

 

しかし私は、暫し考え調べ始めた。

当時、使われ始めたばかりのPCのキーボードを叩き、“還暦”を検索してみたのだ。

すると、

 

『還暦とは、60歳を迎える長寿の祝い。60年で干支が一巡し、生まれ年の干支に戻ることから、元の暦に還ることから言われる様に為った』

 

と、結果が出て来た。

続いて、“120歳の祝い”を検索してみた。

PCのモニターには、

 

『120歳(二度目の還暦)のことを、大還暦という』

 

と、結果が表示された。

 

私は思わず、

 

『長嶋茂雄氏は120歳迄生き抜くことを見越して、自らの60歳を“初めて”の還暦と言ったのだ』

 

と、私は思って仕舞ったのだ。

思い込んで仕舞ったのだ。

 

長嶋茂雄氏の発言はプレー同様、私の記憶に深く残って居たのだ。

それで、

 

『120歳迄、生きるって思って居たのに、話が違うでしょ』

 

と、思わず口を吐く様な思いが、頭を過ったのだ。

 

 

多くの想い出と、記憶に深く刻まれたプレーを、長嶋茂雄氏は残して下さった。

 

 

私はこの先の人生で、悩んだり落ち込んだ時等、長嶋茂雄氏の“記憶”で勇気付けられることだろう。

 

 

それが、現役時代の長嶋茂雄選手を、リアルタイムで観戦出来た者の特権なのだから。

 

 

 

〈著者プロフィール〉

山田THX将治(天狼院・新ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター)

1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役

幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余

映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を45年に亘り務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る

これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿

ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている

本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」

映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり

Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載

続けて、1970年の大阪万国博覧会の想い出を綴る『2025〈関西万博〉に伝えたい1970〈大阪万博〉』を連載

加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する

更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている

天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeason Champion

 

 

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2025-11-20 | Posted in 週刊READING LIFE vol.332

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