ライティング・ゼミ

僕がうつ病と診断されてから、精神科看護師になるまで


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事 佐藤サク(ライティング・ゼミ11月コース)

 

23歳の時、上司に精神科クリニックに連れられてうつ病と診断された。不服だった。精神を病むなんて自分にはありえないと思っていたからだ。その後6年ほどクリニックに通い続ける中で、医療というものの違和感を抱えながら、うつトンネルからなんとか抜け出し、精神科の看護師になるまでの話を書き記したい。

僕は、自分が精神的に強い人間だと思っていた。人間というものは、努力次第でどんな障壁でも乗り越えられるものだと信じていた。障壁を乗り越えられない人は精神的に弱いか、努力が足りないだけだと思っていた。その信念そのものが、じつは自分を追い詰めていたことに、このときはまだ気づいていなかった。

僕が18歳のとき、母親が倒れ、僕と弟妹は親戚の家に居候していた。祖父母からは「せっかくの老後なのに・・・・・・」と小言を言われる日々で、弟妹に肩身の狭い思いをさせたくなかったから、僕は20歳で働き始め、弟妹を養うことにした。「母親の代わりに絶対に立派な人間にしてみせる」と決意した。

僕は電気技術者として工場で働きながら、地域で一番安いアパートを借りて、きょうだい3人暮らしを始めた。その時、妹は17歳、弟は15歳だった。

仕事は真剣に取り組んだ。京セラの稲盛和夫に憧れて電気技術者になったから、稲盛氏の『どんなつまらない仕事も真剣にやれば楽しくなる』という言葉を胸に刻み、一流の技術者になれるように真剣に仕事に向き合った。電気技術者として発展途上国の支援をしたいという夢もあったし、貧困問題についても学びたかったから、将来大学に進学するための勉強も毎日4時間自分に課した。

しかし現実は理想とは程遠かった。妹は知的障害を抱えていた。毎日大声で泣き叫んでいたが、母親がいない悲しみと不安が募っていたのだと思う。ゴミを捨てようとするが妹が怒って捨てることができない。私たちの部屋はどんどんゴミ屋敷になっていった。母親が倒れた後、妹への向き合い方に悩んだが、相談する相手もいなかった。毎日妹は泣き続け、仕事中よりも自宅にいる時の方が精神的に苦しかった。

その後3年が経過して、妹が成人し、弟は高校を卒業した。しかし僕の心はすり減っていた。毎月100時間の残業で身体がボロボロになっているのに、中学生でもできるような単純な肉体労働を繰り返す日々で、全く成長している実感が得られないことにイライラしていた。毎日4時間の勉強は続けていたが、疲れで頭が回らず、将来大学に行ける自信もなくなっていった。大学に進学した友人は、毎日を楽しそうに過ごしている。彼女ができたと聞いたときは、嫉妬心が爆発した。「なんで僕はこんなに家族のために働いているのに、なんで暇を持て余しているような奴に彼女なんてできるんだ。なんで僕はこんなにも大学で勉強したいのに、勉強なんてめんどくさいって言っている奴が大学に行ってるんだ」と誰にも言えないが、イライラは頂点に達していた。彼女ができない不満を打ち消すように、街コンへ100回行くことを自分に課し、狂ったように街コンに通い始めた。

やがて、朝布団から出られない日が増えた。身体に鞭打って出社しても、ある日突然ぷつんと糸が切れたように無断欠勤してしまう。会社からの電話に出る気力もない。しばらく休んでは出社し、また動けなくなる。その繰り返しの末、上司に連れられて行ったのが精神科クリニックだった。

クリニックは3件回った。1件目は、開口一番に「休みたいんでしょ。うつって書いておくから」と事務処理をされるかのように言われた。「別に休みたいわけじゃない。一流の技術者になりたいから休んでいる場合ではないし、うつと診断されたら出世に響く」と思いながら、診断書代5000円を請求された。診断書を会社に提出し、無気力が深まっていくのを感じた。上司と相談し、もうここには通わないことになった。

2件目も同様だったが、3件目のクリニックはしっかりと話を聞いてくれた。「一日話しただけではちゃんとした診断はできない」とまた次回も来るように言われた。その先生は、今までの経緯を丁寧に聞いてくれ、共感も示してくれた。その時は感情そのものがなかったが、今振り返るとありがたかった。自分の心が少しだけ開いた。うつ病と診断されて薬も処方された。薬は毒だと思っていたから、薬を飲むのがすごく嫌で飲まない時期もあったが、上司の今までの厚意を無駄にするわけにはいかないと思って飲み続けた。

その後3年くらい、働いたり休んだりを繰り返した。休むたびに上司に申し訳ないと思いつつ、限界だった。もう生きている意味がわからなくなっていた。死んだ方がましだと思っても、誰にも言えなかった。どうせ死ぬなら会社に迷惑にならないようにしたいと思って仕事を辞めた。

仕事を辞めてからは、布団の中から動けずに、ただ呼吸しているだけという生活だった。例えば全身火傷を負った時に、外気に触れると全身の皮膚が痛むのと同じく、布団から出ると小さなストレスでも心が苦しくなるような感覚だった。「死にたい」という積極的な感覚よりも「消えてなくなってしまいたい」という受動的な感覚だった。ハローワークで失業手当の受給手続きもできないまま期限が失効していった。

そんな僕を、友人が長野のゲストハウスに連れ出してくれた。そこでは友好的な人たちとストーブを囲んで他愛もない話をする。みんなでつくった温かい料理と、美しい山の景色。そこには、利害関係のない、人のやさしさと、人の輪の中にいる感覚があった。少し生きている感覚を取り戻した。

その頃の僕の生活は、ローギアでなんとか前に進んでいるような状態だった。10日間まったく動けなくて、ようやく1日だけ活動できる。それが、5日動けなくて1日動ける、3日動けなくて1日動ける、と少しずつ動ける時間が増えていった。まるで、ローギアからセカンドにギアを上げていくような感覚だった。一気にサードに入れて速度を出してしまうと、すぐにエンストしてまたローギアからやり直しになる。だから、「3日のうち1日動けたらそれで十分」と自分に言い聞かせながら、少しずつギアを上げていった。

回復の途中で、僕を強く支えてくれたものの一つが、小説『レ・ミゼラブル』だった。主人公のジャン・バルジャンは、弟妹を養うためにパンを盗み、投獄され、社会から負の烙印を押されてしまう。これは、うつ病によって仕事もお金も人間関係も信用も失い、「役に立たない人間」だと感じていた自分と重なった。ジャンの置かれた環境は、僕なんかよりもはるかに過酷で理不尽なのに、彼がそこから何度も立ち上がろうとする姿に、深い共感と勇気をもらった。

物語の中で、ジャンはミリエル司教に出会い、銀の燭台を受け取るシーンがある。僕にとって銀の燭台は、「人間の良心の象徴」だと思っている。罪人として扱われてきたジャンが、銀の燭台を受け取り、他者のために生きることに身を捧げる姿に触れて、自分の中に溜まっていた不満や怒りが、少しずつ昇華されていった。僕もジャンのように、自分の不幸を嘆くだけでなく、誰かを助けられる人間になりたいと思い、精神科の看護師になることを決意した。そして3年後、看護師国家試験を突破し、日本精神医療の最後の砦と呼ばれる精神病院の看護師として働き始めた。

〈おわり〉

 

 

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00



■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



2025-11-27 | Posted in ライティング・ゼミ

関連記事