心的外傷を抱える母が”折り紙を子どもに渡せた”瞬間《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
2025/12/1/公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
子どもの手に折り紙を渡す——
それだけのことが、彼女にとってはとても難しかった。
声が震え、視線を合わせられない。
けれど、ある日、指先で折り鶴を差し出した。
「できたね」と笑う子どもの顔を見て、彼女の頬を涙が伝った。
それは、”母”としての心が再び動き出した瞬間だった。
—
彼女が児童相談所から紹介されてきたのは、冬の終わりだった。
小さな息子の手を引いて、彼女はセッションルームに入ってきた。でも、その手の繋ぎ方は、どこかぎこちなかった。まるで、壊れ物を扱うように、慎重で、距離があった。
息子は5歳。保育園では明るく元気な子だと言われているが、家では表情が乏しいという。母子の関わりに課題があり、作業療法による支援が必要だと判断された。
最初の面談で、彼女はほとんど目を合わせなかった。
「私、子どもとどう接していいかわからないんです」
その声は、小さく震えていた。
彼女自身が、幼少期に虐待を受けていた。身体的な暴力、言葉の暴力、そして無視——それらは彼女の心に深い傷を残していた。だから、母親になったとき、彼女は途方に暮れた。
「子どもを愛したい。でも、触れるのが怖いんです」
彼女は言った。
「抱きしめようとすると、自分が子どもの頃に抱きしめられなかった記憶が蘇ってくる。それで、身体が固まってしまって……」
心的外傷(トラウマ)は、過去の出来事ではない。それは、現在進行形で心と身体に影響を与え続ける。彼女の場合、子どもとの身体的接触が、過去の痛みを呼び覚ますトリガーになっていた。
だから、彼女は子どもと距離を取った。
抱っこをしない。手をつながない。目を合わせない。それは、子どもを愛していないからではなく、「愛し方がわからない」からだった。そして、「自分が傷つけてしまうのではないか」という恐怖があった。
「私の母は、私を叩いた。怒鳴った。だから、私は絶対にそんなことしたくない。でも、どうすればいいのかわからなくて……」
彼女の目には、涙が滲んでいた。
息子は、母親の顔をじっと見ていた。
その視線には、何かを求めるような、でも諦めているような、複雑な感情があった。子どもは、親の感情を敏感に感じ取る。母親が自分を恐れていることを、彼はどこかで感じていた。
「子どもが、私のこと嫌いなんじゃないかって思うんです」
彼女は続けた。
「私が近づくと、表情が曇る気がして……」
それは、彼女の投影でもあり、また現実の一面でもあった。子どもは、母親の緊張を感じ取り、自分も緊張する。その緊張が、さらに母親を不安にさせる。負の循環だった。
—
ある日のセッションで、私はテーブルの上に折り紙を広げた。
色とりどりの紙。赤、青、黄色、緑——それらは、静かに光を反射していた。
「今日は、折り紙をしてみませんか?」
彼女は戸惑った表情を見せた。
「折り紙、ですか……?」
「はい。お子さんと一緒に」
息子は、興味深そうに折り紙を見ていた。小さな手を伸ばして、青い紙を取った。
「これ、何作るの?」
「何でもいいよ。好きなもの作ろう」
彼女は、黙って赤い紙を手に取った。でも、どう折り始めればいいのかわからず、手が止まった。
作業療法において、「媒介物」を使うことは重要な技法のひとつだ。特に、直接的なコミュニケーションが困難な場合、何かを「間に置く」ことで、関係性を築くことができる。
彼女の場合、子どもとの直接的な接触には恐怖があった。でも、折り紙という”第三者”を介することで、間接的につながることができるかもしれない。
「鶴を折ってみましょうか」
私が提案すると、彼女は小さく頷いた。
私が見本を見せながら、彼女も同じように折っていく。最初はぎこちなかったが、手を動かすうちに、少しずつ形になっていった。
息子も、隣で何かを折ろうとしていた。うまく折れず、紙がくしゃくしゃになる。
「……手伝おうか?」
彼女は、小さな声で言った。
息子は、母親を見上げた。少し驚いたような顔。そして、小さく頷いた。
彼女は、息子の隣に座った。そして、息子の手元を見ながら、静かに折り方を教えた。
「ここを、こうやって折るんだよ」
言葉は少なかったが、彼女の手は優しく動いた。息子の小さな手が、母親の指示に従って紙を折る。
「できた!」
息子が嬉しそうに言った。
それは、完璧な鶴ではなかった。少し歪んでいて、羽もアンバランスだった。でも、息子にとっては誇らしい作品だった。
「すごいね」
彼女は、そう言った。
その言葉を聞いて、息子は母親を見つめた。そして、笑った。
その笑顔を見て、彼女の目に涙が溢れた。
「……久しぶりに、この子の笑顔を見た気がします」
折り紙を折るという行為は、単なる創作活動ではなかった。それは、母と子が「一緒に何かを作る」という共同作業だった。そして、その作業を通じて、彼女は子どもとつながる感覚を、少しずつ取り戻していった。
次のセッションでは、彼女から提案があった。
「家でも、折り紙やってみたいです」
それは、彼女にとって大きな一歩だった。
家で、彼女と息子は一緒に折り紙をした。最初は週に一度。それが、毎日になった。夕食の後、テーブルの上に折り紙を広げる。それが、母子の新しい習慣になった。
ある日、息子が折り鶴を作った。
まだ不格好だったが、以前よりもずっと上手になっていた。彼は、その鶴を母親に差し出した。
「ママ、あげる」
彼女は、その鶴を受け取った。
そして、涙を流しながら、息子を抱きしめた。
それは、彼女が初めて、自分から子どもに触れた瞬間だった。
—
あれから1年が経った。
彼女と息子は、今も毎日のように折り紙をしている。部屋の壁には、二人で作った作品が飾られている。鶴、花、動物——色とりどりの折り紙が、家族の歴史を物語っている。
「折り紙が、私たちをつないでくれたんです」
彼女は言う。
「最初は、どう関わればいいかわからなかった。でも、折り紙を折ることで、一緒に何かをする時間が持てた。それが、少しずつ私の心を溶かしてくれた」
折り紙を「渡す」という行為は、単なる物の受け渡しではない。それは、「信頼を渡す」ということだ。
彼女が初めて息子に折り鶴を渡したとき、それは「あなたを信じている」というメッセージでもあった。そして、息子がそれを受け取ってくれたことで、彼女は「自分は母親でいていい」と感じることができた。
トラウマからの回復において、「関係性の再構築」は核心的なプロセスだ。
彼女が恐れていたのは、子どもを傷つけることだった。だから、距離を取った。でも、その距離が、逆に子どもを傷つけていた。
折り紙という媒介物は、その距離を安全に縮める装置だった。直接触れなくても、「一緒に作る」ことで、心はつながる。そして、そのつながりが、少しずつ彼女の恐怖を癒やしていった。
今、彼女は息子を抱きしめることができる。
「最初は怖かった。でも、この子の温かさを感じたとき、ああ、これが母親なんだって思えました」
彼女の声には、穏やかさがあった。
息子も変わった。
保育園の先生からは、「最近、とても表情が豊かになった」と言われた。家でも、よく笑うようになった。母親に甘えることもできるようになった。
「ママ、これ見て!」
息子が新しい折り紙作品を見せるとき、彼女はそれをじっくりと見る。そして、必ず褒める。
「すごいね、上手になったね」
その言葉を聞いて、息子は嬉しそうに笑う。
その笑顔が、彼女にとって何よりの報酬だった。
作業療法における「作業」とは、単なるタスクではない。それは、「生きる意味」を紡ぐ営みだ。
彼女にとって、折り紙を折ることは、「母親である自分」を取り戻す作業だった。そして、それを子どもに渡すことは、「愛を伝える」ことだった。
過去の傷は、消えることはない。
彼女の中には、今も幼い頃の痛みがある。フラッシュバックに苦しむこともある。でも、その傷と共に生きながら、彼女は新しい関係性を築いている。
「過去の私は、愛されなかった。でも、今の私は、この子を愛せる」
彼女は言った。
「それが、私の回復なんだと思います」
折り紙を子どもに渡す——
その小さな行為が、彼女の人生を変えた。
リハビリとは、失われた機能を取り戻すことではない。それは、「過去を癒やしながら、今を生き直すこと」だ。
彼女は、今を生きている。
息子と一緒に、折り紙を折りながら。
それが、彼女の”再起動スイッチ”だ。
今日も、どこかの家で、母と子が折り紙を折っている。
静かに、温かく、つながりながら。
それが、心の再生の形だ。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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