なんとなく生きづらい」がラクになった「無意識」の話
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事: maruha (ライティング・ゼミ25年11月開講コース)
数年前、私は「一般向けのカウンセリング講座」を受講した。
人の心理について、たくさんの興味深い学びがある中、そこで聞いた「ピアノの発表会で必ず失敗する子」の話が今でも印象に残っている。人の無意識についての不思議な話なのだが、当時なんとなく生きづらさを感じていた私に、深い気づきをくれた話でもある。
その講座では受講者同士が「自己開示しても負担にならない程度の軽い悩み」を出し合い、講師の進行でディスカッションする時間があった。
その日、悩みをシェアしたのは40代の主婦・Mさんだった。
「小学生の息子にピアノを習わせているんだけど、ゲームばかりで練習しない。怒っても聞かないし、毎日イライラしてしんどい」
よくある悩み相談に思えたが、ディスカッションが進むにつれて空気が変わっていった。焦点が当てられたのは息子の態度ではなく、「母親であるMさんのイライラ」だったからだ。
Mさんは「どうすれば息子が自発的に練習するか」というコントロールの方法を知りたそうだった。でも講師は穏やかに言った。
「まず、小学生の男の子が練習をサボってゲームしたがるのは、普通ですよ〜」
会場には軽い笑いが起きたものの、「じゃあどうすればいいの?」という疑問も漂った。
そのとき講師が「何かヒントになれば」と語り始めたのが、「ピアノの発表会で必ず失敗する子」の事例だった。
それはMさんと同じく、小学生の子供(娘)にピアノを習わせている母親の話なのだが、「娘が、練習でもリハーサルでも問題ないのに、本番になると毎回、必ず大きなミスをしてしまう」ことに悩んでいた。
普通なら「本番に弱い」「緊張しやすい」と考える。過去の失敗や強いプレッシャーが引き金となって、できていた動作が無意識にできなくなる心因性の不調……いわゆるイップスの対策に意識が向くかもしれない。
けれど、そのケースでは「子ども側」だけではなく「母親側」にも原因があったという。
深く話を聞いていくと、母親の心の奥に埋められていた思いが浮かび上がってきた。
その母親は子どもの頃、ずっと「ピアノを習いたい」と思っていた。しかし親から「うちはピアノを習わせるお金なんかない」と却下され続け、結局望みは叶わなかった。
だからこそ大人になって、「自分の子どもにはピアノを習わせよう」と決めていた。娘が生まれ、習える年齢になるとピアノ教室へ通わせた。娘は楽しそうに通い、上達していく。普通なら、嬉しくてたまらないはずだ。
ところが母親の心の奥では、「抑圧したもう一人の小さな自分」が叫び続けていたのだという。
「羨ましい。私もやりたかったのに」
その無意識の思いは嫉妬のような感情を生み、表情や態度ににじみ出ていたのかもしれない。子どもは語彙が未熟なぶん、大人よりも「非言語メッセージ(言葉以外の表情や空気、態度を読み取る力)」が鋭いと言われる。
娘からすれば、「ピアノが上手になるほど、お母さんがなぜかつまらなそうになる。口では応援してくれるのに、表情や態度は逆」なのだ。その矛盾に戸惑い、問題として表れていた可能性がある、というのだ。
もちろん娘はわざと失敗したわけではない。母親も心から応援しているし、そんな態度を取っている自覚などない。どちらも無意識下で起こっていることだ。
そして、この問題がどのように解消されたかというと……
母親が、自分の中の「叶わなかった願い」「置き去りにしてきた思い」を認めてケアしていくことで、問題は自然と消えていったという。
この話を聞いた後、会場のあちこちから「なんか怖い……」というささやきが漏れた。
自分の子どもに嫉妬するなんて考えたくない。でも無意識のことは、本人は知りようがない。「自分だって、どこかで似たことをしていないだろうか」と思うと、背筋がゾッとした。
息子の練習をめぐって悩んでいたMさんも、話の意図をくみ取った様子でこう言った。
「私も、ピアノをやらなかったことをずっと後悔してて。だから“子どもにはピアノを習わせる”って決めてた所は、そのお母さんと同じかもしれない。でもよく考えたら、ピアノを弾ける人生を送りたかったのは“私”で、息子はただ付き合ってくれてるだけなんですかね……」
その言葉を聞いたとき、私の胸もまたざわっとした。
息子さんが練習しないのは怠惰でも無気力でもなく、そもそもピアノが好きかどうかもわからない。「お母さんの夢の肩代わり」をやっていただけなのかもしれない。発表会で失敗していた女の子も同様に。
もしそうだとしたら……
「子どもの愛情ってすごいな」と思った。
子どもは親を困らせたいわけじゃない。むしろ親の期待に応えようとする。その健気さが、時に“問題”という形で現れてしまうだけなのだ。母親が無意識の思いに気づいたことで、親子間で起きていた「ズレ」が、シンプルな愛情の交換に戻っていく。その流れはとても救いがあると感じた。
そして話はさらに発展した。
「大人になった自分は、いまだに親の望みを背負って生きていないだろうか?」という問いに。
私が長年抱えてきた生きづらさの根っこにも、思い当たるところがあった。当たり前に信じてきた「こうあるべき」という価値観の中には、親から受け取っただけで、自分自身の望みとはズレているものが混ざっているのではないか。
このディスカッション後、私は自分に問いかけるようになった。
「これは本当に私がやりたいからやっている?」
そうすると、日常の中で「本当はやりたくないこと」を、思っていた以上に抱え込もうとしていたと気づいた。仕事も家事も、人間関係も、ちゃんとしなきゃ、頑張らなきゃ、と自分を追い立ててしまう。そのせいで苦しくなっていたのは、自分の中に居座る「親の声」あるいは、親の期待を内面化した声のせいなのかもしれない。
人は自分のことをわかっているようで、案外本心を聞けていない。何か問題が起こった時こそ「ズレ」に気づけるチャンスとも言えるし、それを扱う心理学への興味はさらに深まった。
「無意識に応えてしまっている他人の期待」は、やめてもいい。
そう思えた瞬間、胸の締め付けが少しゆるみ、「そんなに頑張らなくてもいいか」とラクになる。
健気な子供たちのエピソードは、大切なことを私に教えてくれたのだった。







