メディアグランプリ

あなたはケイ語のケイにどの漢字を入れますか 


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:西村友成(25年・年末集中コース)

「所長、行かれましたよね?」

主任が事務所に戻ってくると、開口一番そう尋ねた。事務のおばちゃんは「つい、さっき」と答える。所長と主任はこのあと同じ出先で打ち合わせらしい。主任は荷物をサッとまとめると「行ってきます」と事務所を後にした。おばちゃんはじめデスク仕事していた者たちは平然とパソコンに向かっている。

場に居合わせた私も、黙々とキーボードを叩き続けていた。同僚らは気づかなかった様子だが、私の鼻はひくついていた。すこし胸もドキドキしていた。仕事しているふりをして、高ぶる気持ちをなだめていた。

 

――こんなシーン、人生で何度も出会ってきたはず。でも、気づいてないなら出会ってないも同然か。成長、いや退行かもしれない……。

ちょっぴりの不安と緊張を感じつつ、私の妄想は広がる一方であった。

「所長、イカれましたよね?」

 

うちの所長は一見、人に見えるけども実は精巧にできたAI搭載型ロボットで、これまでサイバー攻撃を受けるたび何とか水際でしのいできたものの、連休明けの隙を突いたハッキングに耐えきれずプログラムに大ダメージを受けてしまい、つい5分ほど前からひたすらツイストを踊りながら『森のくまさん』をひとり輪唱している……。

「(はい、イカれました。)つい、さっき」

 

どうにもこうにも頭の中が「イカれた所長」で一杯になり、仕事が手につかない。

辺りを見まわすが、やはり同僚たちは眉一つ動かさず、仕事に打ち込んでいる。誰かと共感したいものの、彼らの手を止めるのも悪い気がする。言うか、言わないか、と思案しているうち、ふと思った。

――いずれ彼らも私と同じ境遇に陥る日が来る。

 私を含め全員が“イカれた”と所長を貶め、『軽語』ならまだしも『刑語』にすら発展する可能性すらある。いやはや、これは由々しき事態。早急に手を打たねばいずれ人権委員会のメスが入るだろう。いち早く危機を察知した私は、適切な代替案を提起し浸透させるべく「真の敬語」を模索し始めた。

今度私が同じ立場なら、何と尋ねるべきか。「行った」を変換するとどうしても「行かれた」となってしまう。ならばこうすればどうだ。

「所長、お出になりましたよね?」

 

「ちょっと聞いたげて。もう4日お通じないんだって。すっごいお腹してるわよ。パーンと張り出て。妊娠8か月って感じ? 本人曰く出したくてしょうがないって。ところがどっこい、いきもうが、歯ァ食いしばろうが、腹殴ろうがピタッと止まっちゃって。だれかお尻の門のとこ、錠前でもかけたんじゃない? 気の毒に。出ない、出ないわよ。お出になんない」

 

 ちがった。「お出になる」って言い方。マダムっぽくて上品なのに、連想すると下品になる。床が大理石のトイレで気張ってそうだ。言い方こねくり回すからダメなのかも知れない。今度はストレートに言ってみる。

「所長、出発されましたよね?」

 

「はい、5分前に。自分の車で」

おッ! これ、正解。誤解を生まない。1発で伝わるし……。でもなぁ、“出発”ってゆうと遠征してほしくなる。新幹線とか飛行機に乗ってほしい。「帰りは週明けになります」ってくらいある程度不在期間がないと。いかんせん、うちの職場は片田舎の小さな事業所だし。所長行く先ってたいてい市役所か銀行くらいのもんだ。「市役所第一庁舎、土木係へ出発しました!」って張り切りすぎだろ。やっぱちがう。じゃ、これなら、どうだ。

 

「所長、お行きになりましたよね?」

 

「はい、お逝きになりました……。グスン」

だめだ。一番ひどくなった。人殺めちゃいかん。考えれば考えるほどドツボにはまってく感じ。こんな難しい問題だと思わなかった。もう投げ出しくなってきたけど、ここまできたからには何かしら答えを出したい。無い知恵を絞りだそうと、うんうん唸り首をかしげる。時間が経つにつれ思考はだんだん停滞し、まぶたが重くなってくる。突如、頭がガクンと落ち、慌てて顔を上げる。そんな折、ふと一筋の閃きが舞い降りた。

「言わなくてよくない?」

 

 事務所に戻ってくる。

「所長は……?」「役所に。ついさっき」

 言ってくれるな、わかっている。到底ベストの解答ではない。だがどうだ。話し手も聞き手も周りも、これですべて通じる。必要最小限を残した盆栽のような会話。ディス・イズ・ジャパニーズ・トラディショナル・カルチャー。

言わずもがな「……」の部分が「行かれましたよね?」であり、「出発されましたよね?」でもあり、「お出になりましたよね?」でもある。聞き手がふさわしいものを勝手に埋めてくれればいい。この場合、何を言わんとするか思いをはかる『計語』となるのではなかろうか。

 

翌日、主任が事務所に戻ってきた。事務のおばちゃんが声をかける。

「所長、市民センターやて」すかさず主任が、

「聞いてないです」

……ま、そんな日もある。   《終わり》

 

 

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