感情表出できなかった男性が”絵”に怒りを描いた日《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
2025/12/1/公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
「怒っていいのか、わからないんです」
その言葉に、静かな痛みがあった。
いつも穏やかで、感情を抑え込んできた彼。
けれど、絵筆を持った瞬間、赤い絵の具が勢いよくキャンバスに広がった。
その線は、ずっと言えなかった言葉の代わりだった。
—
彼は、いつも笑顔だった。
職場でも、家でも、誰に対しても穏やかで、優しくて、怒ることがなかった。周りからは「いい人」と言われていた。でも、その笑顔の裏で、彼の心は少しずつ壊れていた。
「感情を出すのが、怖いんです」
セッションルームで、彼はそう打ち明けた。
彼は40代前半。数ヶ月前に適応障害と診断され、休職していた。表面上は穏やかだったが、内側では激しいストレスと疲弊を抱えていた。
「子どもの頃から、怒ってはいけないと教えられてきました」
彼は続けた。
「父が厳しい人で、感情を出すと怒鳴られた。だから、いつも我慢してました。怒りも、悲しみも、全部」
それは、感情抑圧の習慣化だった。
トラウマ体験は、時に「感情を出すこと=危険」という認識を植え付ける。彼の場合、幼少期に感情表現を否定され続けたことで、「怒り」という感情そのものを封じ込めるようになっていた。
「怒りって、悪いことだと思ってたんです」
彼は言った。
「怒ると、人を傷つける。嫌われる。だから、絶対に怒ってはいけない」
しかし、感情は消えるわけではない。抑圧された感情は、心と身体の中に蓄積されていく。
彼の場合、それは身体症状として現れた。
慢性的な頭痛、胃痛、不眠、動悸——医師からは「ストレス性」と診断されたが、彼自身は「ストレスなんてない」と思っていた。なぜなら、彼は怒りを感じることすら許していなかったからだ。
「何に対してもイライラしないし、腹も立たない。だから、ストレスなんてないはずなんです」
彼の言葉には、矛盾があった。
ストレスがないのに、身体は悲鳴を上げている。それは、意識では認識できない感情が、無意識の中で渦巻いていることを意味していた。
「最近、夢をよく見るんです」
彼は言った。
「誰かに追いかけられる夢。叫ぼうとしても、声が出ない。そんな夢ばかり」
それは、抑圧された感情の表れだった。
心理的な安全が脅かされているにもかかわらず、彼は「怒ってはいけない」「感情を出してはいけない」という価値観に縛られていた。その結果、感情の出口が塞がれ、心は行き場を失っていた。
「怒っていいのか、わからないんです」
彼は、静かに言った。
「もし怒ったら、自分が父親と同じになってしまう気がして……」
それは、恐怖だった。
自分が憎んでいた父親と同じになること。怒りを表現することで、誰かを傷つけてしまうこと。だから、彼は感情を完全に封印した。
しかし、その封印は、彼自身を傷つけていた。
—
ある日のセッションで、私はアートセラピーを提案した。
「絵を描いてみませんか?」
彼は、戸惑った表情を見せた。
「絵なんて、描いたことないです」
「上手に描く必要はありません。ただ、感じたことを形にしてみるだけです」
テーブルの上には、キャンバス、絵の具、筆が並んでいた。赤、青、黄色、緑、黒——色とりどりの絵の具が、彼を待っていた。
「何を描けばいいんですか?」
「何でもいいです。色を選んで、筆を動かしてみてください」
彼は、しばらく絵の具を見つめていた。そして、青を選んだ。
「青は、落ち着く色だから……」
彼は、慎重に筆を動かし始めた。キャンバスに、静かな青い線が描かれた。穏やかで、コントロールされた線。
「これでいいですか?」
「もっと自由でいいですよ。感じるままに」
彼は、また青い線を引いた。でも、その線は相変わらず慎重だった。
「……本当は、どんな色が気になりますか?」
私が尋ねると、彼の視線が、一瞬だけ赤に向いた。そして、すぐに逸らした。
「赤は……ちょっと」
「どうしてですか?」
「……怖いです」
「怖い?」
彼は、小さく頷いた。
「赤は、怒りの色な気がして」
その言葉に、すべてが集約されていた。
赤=怒り=悪。彼の中で、その等式が固く結びついていた。
「赤を使ってみたらどうですか?」
私は、静かに提案した。
「でも……」
「大丈夫です。ここでは、どんな色を使っても、どんな線を引いても、誰も責めません」
彼は、長い沈黙の後、震える手で赤い絵の具を取った。
筆に赤をつける。キャンバスに近づける。でも、手が止まった。
「……描けない」
「描かなくてもいいです。ただ、触れてみるだけでも」
彼は、深呼吸をした。そして、筆をキャンバスに触れさせた。
最初は、小さな点だった。
でも、その点から、線が生まれた。
そして、その線は、次第に太く、強く、激しくなっていった。
彼の手が、勢いよく動いた。
赤い絵の具が、キャンバスに広がった。
荒々しい線、叩きつけるような筆致——それは、コントロールされたものではなく、溢れ出るような動きだった。
彼は、無我夢中で筆を動かしていた。
赤、赤、赤——
キャンバスが、赤で埋め尽くされていった。
そして、ふと、彼の手が止まった。
彼は、自分が描いたものを見つめた。
キャンバスには、激しい赤い線が走っていた。それは、何かを表現したものではなかった。ただ、エネルギーの塊だった。
「……これが、僕の中の怒りなんだ」
彼は、呟いた。
その声は、震えていた。
そして、涙が溢れた。
「ずっと、こんなに怒ってたんだ……」
彼は、泣きながら言った。
「我慢してた。抑えてた。でも、本当はずっと怒ってた」
それは、初めての感情の解放だった。
—
それから、彼は毎週、絵を描くようになった。
最初は、赤ばかりだった。でも、少しずつ他の色も使うようになった。黒、紫、オレンジ——それらは、彼の内側にある様々な感情を表していた。
ある日、彼は一枚の絵を完成させた。
それは、暗い色彩の中に、一筋の光が差し込む絵だった。
「これ、何を描いたんですか?」
私が尋ねると、彼は答えた。
「自分です。ずっと暗闇の中にいたけど、少しずつ光が見えてきた」
それは、回復の過程を表していた。
彼が絵を描くことで得たのは、「感情を出す」という体験だった。
それまで、彼は感情を言葉にすることができなかった。「怒っている」と言うこと自体が、彼にとっては禁忌だった。でも、絵は違った。
絵の具を叩きつけても、誰も傷つかない。赤を使っても、誰も責めない。そこには、安全な表現の場があった。
「絵を描くことで、自分の中にあったものを、外に出せた気がします」
彼は言った。
「それまで、感情は心の中に閉じ込めておくものだと思ってた。でも、出していいんだって気づいた」
感情表現の再起動——それは、自己受容の回復でもあった。
「怒りは、悪いことじゃないんですね」
ある日、彼は言った。
「怒りは、自分が傷ついたっていうサイン。それを無視してたから、心が壊れかけてたんだと思います」
怒りは、破壊ではない。それは、「自分を守るための感情」だ。
理不尽なことに対して怒る。傷つけられたことに対して怒る——それは、自分の存在を主張することでもある。
彼が取り戻したのは、「怒っていい自分」だった。
そして、それは同時に、「感じていい自分」を取り戻すことでもあった。
今、彼は職場に復帰している。
「以前とは違います」
彼は言う。
「無理に笑顔を作らなくなった。嫌なことは嫌だと言えるようになった」
それは、感情を持った人間として生きるということだった。
「たまに、イライラすることもあります。でも、それでいいんだって思えるようになりました」
彼の部屋には、これまで描いた絵が飾られている。
赤く激しい絵、暗い絵、そして光が差し込む絵——それらは、彼の感情の軌跡だった。
「絵を描くことが、自分を取り戻すスイッチになったんです」
彼は言った。
描くという行為は、彼にとって”感情の再起動装置”だった。
封じ込めていたものを解放し、抑圧していた自分を受け入れる——その過程が、絵を通じて可能になった。
作業療法における創作活動は、単なる趣味ではない。それは、「心の声を形にする」営みだ。
言葉にできない感情も、絵にすることができる。
説明できない痛みも、色にすることができる。
彼が絵筆を持ったあの日、彼の心は再び動き始めた。
赤い絵の具が、彼の怒りを受け止めた。
そして、その怒りは、彼を癒やす力に変わっていった。
今日も、どこかで誰かが絵を描いている。
赤い線を引きながら、自分自身と向き合っている。
それが、”再起動スイッチ”だ。
感情を取り戻すこと。
それは、自分を取り戻すこと。
そして、それは、生きることそのものだ。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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