メディアグランプリ

パーキンソン病の男性が”椅子を拭いた”日常動作の意味《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》


2025/12/1/公開

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※一部フィクションを含みます。

 

「椅子を拭くだけで、こんなに嬉しいとは思わなかった」

手が震える中、布巾を握る。拭く。拭き残しを気にする。それは、誰かのために役に立てたという”生きている実感”だった。

——

 

 

田中さん(仮名・70代男性)がデイサービスに来所するようになったのは、パーキンソン病の診断から3年が経った頃だった。最初に目についたのは、手の震えだった。静止時にも細かく震える両手。コップを持とうとすると、震えはさらに大きくなる。自分の意思とは無関係に動く手に、彼は苛立っていた。

 

「何もできないんだよ」初回の面談で、彼は自嘲気味にそう言った。「朝起きても、何をすればいいか分からない。妻に迷惑かけるだけで」パーキンソン病は、進行性の神経変性疾患だ。震え、固縮、動作緩慢、姿勢反射障害。これらの症状が少しずつ、確実に日常生活を奪っていく。

 

田中さんは元々、几帳面な性格だった。定年前は経理の仕事をしていて、数字のズレも許せない完璧主義者だった。自宅の掃除も自分で行い、庭の手入れも欠かさなかった。でも、病気はその全てを奪った。ボタンが留められない。箸が上手く使えない。立ち上がるのに時間がかかる。できていたことが、一つずつできなくなっていく。その度に、彼の表情は曇っていった。「もう、俺は何の役にも立たない」そんな言葉を、何度聞いただろう。

 

 

作業療法士として働く中で、私は一つの真実に気づいた。人は「できること」が減っても、まだ生きられる。でも「必要とされること」を失うと、生きる気力まで失ってしまう。田中さんの問題は、機能の低下だけではなかった。それ以上に深刻だったのは、「自分には何もできない」という無力感だった。彼が失ったのは、手の機能ではない。「誰かのために何かをする」という役割だった。

 

私自身も、病気で倒れた時に同じ経験をした。突然、できることが激減する。周りの人に世話をされる。「ありがとう」と言いながらも、心の中では「申し訳ない」という気持ちでいっぱいになる。その時、一番辛かったのは「何もできない自分」を認めることだった。だからこそ、田中さんの気持ちが痛いほど分かった。彼に必要なのは、機能訓練だけではない。「自分にもできることがある」という実感だった。

 

ある日、デイサービスのレクリエーション後、椅子が散らかっていた。スタッフが片付けようとした時、田中さんが立ち上がった。「俺が拭こうか」その一言に、私は驚いた。いつも「何もできない」と言っていた田中さんが、自分から何かをしようとしたのだ。私はすぐに、この機会を逃してはいけないと思った。彼の中に芽生えた小さな意欲。それを、どう育てるか。

 

田中さんの場合、手の震えがあるため、細かい作業は難しい。でも、椅子を拭くという動作は、大きな動きで済む。布巾を握るのにも、それほど精密な力はいらない。私は、彼に適度に湿らせた布巾を渡した。握りやすいように、少し大きめのものを選んだ。「では、お願いします。ゆっくりで大丈夫ですよ」田中さんは布巾を握った。案の定、手は震えた。でも、彼は諦めなかった。震える手で、一脚目の椅子を拭き始めた。

 

動作は遅い。拭き残しもある。でも、その姿には明らかな「意志」があった。私は口を出さず、見守った。必要なのは、完璧な掃除ではない。「自分でやり遂げる」という経験だ。一脚、また一脚。彼は黙々と椅子を拭いていった。五脚目を拭き終えた時、彼は少し息を切らしていた。でも、その表情には充実感があった。

 

 

椅子を拭き終えた田中さんは、席に戻ってお茶を飲んだ。しばらく黙っていたが、やがてこう呟いた。「久しぶりに、人の役に立てた気がする」その言葉を聞いた時、私の胸は熱くなった。彼にとって、椅子を拭くことは単なる掃除ではなかった。それは「自分にもまだできることがある」という証明だった。

 

パーキンソン病という診断を受けてから、彼はずっと「できないこと」と向き合ってきた。毎日が喪失の連続だった。でもこの日、久しぶりに「できること」を体験した。それも、誰かのために。人は、誰かのために何かができた時、最も強く「生きている」と感じる。それは、どんな高度なリハビリよりも効果的な心の薬だ。

 

 

その後、田中さんは週2回のデイサービスで、毎回椅子を拭くようになった。最初は5脚だったのが、次第に10脚、15脚と増えていった。手の震えは相変わらずあった。でも、以前より確実に動きがスムーズになっていた。何より、表情が明るくなった。「今日も椅子、任せてください」デイサービスに来ると、彼は真っ先にそう言うようになった。

 

ある日、奥様が迎えに来られた時、こんな会話があった。「最近、主人が明るくなって。デイサービスに行くのを楽しみにしてるんです」「そうなんです。椅子を拭くのが、田中さんの役割になって」「椅子を? まあ、家でも昔はよく掃除してたんですよ。几帳面な人で」奥様は嬉しそうに笑った。「また、あの頃の主人に戻ってきたみたい」

 

田中さんの手は、今も震える。パーキンソン病の進行を完全に止めることはできない。でも、彼はもう「何もできない」とは言わない。「椅子拭きのプロになろうかな」そう冗談を言いながら、今日も布巾を握る。震える手で、一脚ずつ丁寧に拭いていく。その姿を見る度に、私は思う。リハビリの目標は、症状を完治させることではない。病気や障害を抱えながらも、「自分らしく生きる」方法を見つけることだ。田中さんは、椅子を拭くことで、その答えを見つけた。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



関連記事