水だった朝に、ホットコーヒー。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事: 小島 香奈子(ライティング・ゼミ25年11月開講コース)
今日は二ヶ月ぶりに、バイトの「まさと」と朝から同じシフトになった。
私は子育てが一段落し、子どもたちはそれぞれの生活を営んでいる。平日は会社員として働き、知人が営むこのカフェには、人手が足りない時の「助っ人」として立っている。この場所は、私にとって日常のすぐ隣にある、かけがえのない居場所だ。
OPEN前の店内は、まだ静かだ。
コーヒー豆の香りがほのかに漂い、カウンターの向こうでは準備の音だけが響いている。マシンが温まり、食器が重なる音が、ゆっくりと朝を知らせる。
そこに、やさしい音楽が静かに流れ始める。この時間帯が、私はけっこう好きだ。
まさとは、高校二年生の頃からこのカフェで働いている。
もう五年になる。
始めた頃のまさとは幼さが残り、制服も身体に馴染んでいなかった。言葉数も少なく、指示に「はい」と短く返すのが精一杯。分からないことがあっても、周りの動きを見て必死に覚えようとしていた。不器用で、失敗もたくさんした。オーダーを間違えたり、忙しくなると動きが止まってしまったり。それでも彼は一度も投げ出さなかった。注意されると悔しそうな顔をして、次は黙々と同じ作業を繰り返す。そんな誠実さがあった。
私はたまにしか店に立たないため、まさとの成長を毎日眺めてきたわけではない。けれど、久しぶりに会うたび、「あ、また一つできることが増えている」
そんな変化に気づいた。
今もふとした瞬間に子どもっぽさは覗くが、落ち着いた立ち居振る舞いは確実に大人びてきている。いつの間にか、彼はこのカフェに欠かせない、頼もしい主力メンバーになっていた。
開店前のミーティングが終わり、私はいつもの調子で声をかけた。
「まさと、何飲む? いつもと一緒でいいよね」
水か、オレンジジュース。
それが五年間、変わることのなかった彼の“いつもの一杯”だった。
しかし、まさとは少し間を置いて、こう言った。
「あ、俺、ホットコーヒーでお願いします」
私は思わず顔を上げた。
「え、まさと、コーヒー飲めるようになったの?」
すると彼は、少し照れたように視線を逸らし、ぶっきら棒に答えた。
「練習っす。4月から社会人なんで」
チーフがにこにこと教えてくれる。
「まさとね、ここ二ヶ月くらい前から、朝だけはホットコーヒーなのよ」
二ヶ月。
ちょうど、私と一緒にシフトに入っていなかった時間だ。
私の知らないところで、彼は彼なりの決意を持って、大人への準備を進めていたのだ。ああ、本当に卒業なんだな。私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
まさとの就職が決まったのは、去年の10月だった。お祝いは、まさとの大好きなラーメンだった。マスターが厨房の材料で、インスタントの塩ラーメンをベースに、牛乳と粉チーズを加えた「カルボナーラ風」の一杯を作ってくれた。お祝いだからと、ゆで卵は贅沢に三つも乗っていた。
「残り物の材料でお祝いですか?」
なんて生意気な口を利きながらも、まさとはあの夜、誰よりもおいしそうに麺をすすっていた。あの無邪気な笑顔を思い出すと、今の彼の「ホットコーヒー」という選択が、よりいっそう感慨深い。
淹れたてのホットコーヒーを手渡すと、まさとはそれを両手で包み込むようにして持った。そして、覚悟を決めたように一口飲む。
「……にが」
案の定、という顔で眉間に皺を寄せた。間を置いて、もう一口。
「ああ、やっぱり、にが」
それでも、カップは置かない。
まさとは今、その途中にいる。苦いと分かっているものに、あえて手を伸ばす。誰かに言われたわけでもなく、自分で選んで。
「まだ、水の方が好きっすけどね」
そう言って笑うまさとを見て、私も少し笑った。
無理に大人ぶらなくていい。それでも、確実に前に進んでいる。
振り返れば、私も二十年以上前、社会人になったばかりの頃はコーヒーが苦手だった。無理をして飲むうちに習慣になり、今では豆を挽く香りだけで心が整う。あの頃の私は、社会という仕組みの中に、自分の居場所を作る練習をしていたのだ。
四月から、まさとは社会人になる。このカフェで過ごした五年間とは、まったく違う世界に入っていく。
私は助っ人として、これからも変わらずこの場所に立つだろう。
開店の時間が近づき、まさとはコーヒーを最後の一口まで飲みきり、
「ごちそうさまです」と静かにカップを置いた。
それは、彼が五年間親しんできた「子ども時代」との、静かな決別の音のようにも聞こえた。
ホットコーヒーを飲む朝。
それは、静かで、ささやかだけれど、一人の青年が新しい自分へと脱皮するための、確かな節目の時間だった。
まさとは、もうすぐ社会人になる。
いつか彼が、スーツ姿で「いつものホットコーヒー」を注文しに来てくれる日を、私は今から楽しみに待っている。≪おわり≫







