週間READING LIFE vol.339

夜明け前の静けさに、手放す覚悟を問う 


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2026/1/15 公開

記事:川瀬健二(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)

午前4時半。

目覚ましが鳴る前に、ふと目が覚める。布団の中はまだ温かく、身体は正直に「ここに留まりたい」と訴えてくる。けれど、その声を一旦脇に置き、ゆっくりと布団から出る。足の裏に触れる床の冷たさが、容赦なく現実へと引き戻す。最初に何をしたらよいかを色々と試したが、僕のおすすめはスクワットだ。最も大きな筋肉を動かすことで身体が早く目覚めて、息が途切れる頃には下半身が温まってくる。冬の夜明け前はまだ空が暗く、冷たく透明な空気が張り詰めている。音はほとんどなく、あるのは風が木々を揺らす微かな気配と、自分の足音だけだ。雨が降る朝は、水が落ちる音ですぐにわかる。

 

昨年の夏、僕は鎌倉に引っ越した。妻の実家は高野山真言宗のお寺で、住職を務める義兄さんと義母さんが住んでいる。義兄さんは、歩いて5分ほどの距離にあるもう一つのお寺の住職も兼ねているが、こちらは20年ほど前から誰も住んでいなかった。このお寺に住んでみないかというのは、妻からの提案だった。僕は迷わず賛成した。義母さんは93歳と高齢なことも理由の一つだったが、何より僕自身がお寺に興味があったのだ。東京にある会社は十分に通勤圏内だし、何よりお寺に住みたいと望んでも、誰もが経験できることではないから。

 

僕は引っ越してから毎朝4時半に起きて、20分ほど坐禅をするようになった。正確に言うと、高野山真言宗では坐禅のことを「阿字観」という。朝起きたら、そこに本堂がある。その幸せを感じながら阿字観を繰り返し、半年が経とうとした頃に秋が終わり、冬がやってきた。冬のお寺は、特に寒い。コンクリートや断熱材に守られた都会の建物とは違い、木造建築特有の逃げ場のない寒さに包まれる。本堂に入ると、さらに空気が変わる。冷気は外にあるのではなく、すでに内側に入り込んでいる。建物が、雨と風をただ凌いでいるだけ。冬のお寺で暮らすのに必要なのは、耐えることでも、拒むことでもない。ただ、受け入れるしかない。

 

座布団を置き、静かに正座する。目を閉じると、湖のほとりに佇んでいるようだ。自然と自分との境界線が曖昧になっていく感覚だ。背筋を伸ばし、静かに呼吸を整える。鼻から入る空気は、驚くほど冷たく透明だ。その冷たさが、胸の奥から腹の底へとゆっくり沈んでいく。白い息を吐くごとに、身体が浄化していくような錯覚を覚える。深い呼吸に耳を澄ませ、たしかに「今ここ」にある自分だけを感じていく。昨日あの人が呟いたひと言、今日の予定、大切なあの人に連絡したいことなど、浮かんでは消える雑念を、ただそのまま見つめる。やがてそれらが、冷たい空気の中で輪郭を失っていく。

 

最近流行りのサウナはわからないけど、「整う」とはこういうことなのだと気づく。何かを足すことではない。新しい知識や肩書き、安心材料を積み上げることでもない。むしろ逆だ。余計なものを手放し、削ぎ落とし、ただ呼吸だけが残る状態になること。整うとは、静かに「減っていく」プロセスなのだ。

 

現代社会で私たちは、増やすことで安心感を得ようとする。モノを買い、情報を集め、経験を詰め込み、未来への備えを築く。50代ともなれば、その蓄積は相当な量になるだろう。家族が何人いるかにもよるが、家の中を見渡せばよくわかるはずだ。知識も、経験も、人間関係も、そして責任も。気づけばそれらが自分を支えているのか、縛っているのか、わからなくなっている。

 

この本堂で座っていると、それらすべてが「仮のもの」に思えてくる。役割も、評価も、資産や所有物も、ここでは一切通用しない。ただ一人の人間が、冷たい空気を吸って、吐いているだけ。サステナビリティという言葉を、最近よく耳にする。けれど、本当の持続可能性とは何だろうか。モノを溜め込むことだろうか。効率を追い求めて無駄を削ることだろうか。それらも、ある一面では正しい。だが、この本堂で向き合う時間は、僕に別の答えを示しているように思える。

 

持続可能性とは、人間、自然、もっと言えばこの星の「循環」を受け入れることではないだろうか。冷たい空気が身体に入り、やがて温められて外へ出ていく。緊張が生まれ、やがて緩む。夜があって、朝が来る。そこには、無理に何かを保持し続ける力は働いていない。ただ、巡っているだけだ。

 

阿字観を終えて本堂を出る頃、東から空がわずかに明るくなっていく。夜明け前の光は、決して派手ではない。けれど、その微かな変化を見逃さない心が、たしかにここにはある。寒さは相変わらずだが、どこか清々しく、気持ちが軽くなった気がして、今から始まる一日にわくわくしてくるのだ。

 

50代は、選択の年代だと思う。

これから何を増やすかではなく、何を手放すか。何を守るかではなく、何に執着しないか。具体的な未来の形がまだ見えなくても構わない。ただ、新しい生き方を選び取る覚悟だけが、静かに芽生えていればいい。夜明け前の静けさは、いつも問いを投げかけてくる。あなたは、何を手放す準備ができていますか、と。

 

≪終わり≫

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2026-01-22 | Posted in 週間READING LIFE vol.339

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