「逃げない」という構え《週刊READING LIFE Vol.341「今年必須のビジネススキル」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2026/01/29 公開
記事:秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私は迷っていた。
毎週水曜日と土曜日にその場所を訪れては、「私もやろう」と思う。だけれども、一晩経つと「やっぱりやめておこう」と思う。そんなことを、かれこれ半年以上繰り返している。今日は水曜日なので、「私もやろう」の日である。
小学校3年生の次男が、1年生から剣道に通い始めた。この道場では保護者が持ち回りで役員をしていて、今年は私もその1人になっている。入会前から承知していたことではあるが、週に2回2時間という時間が取られるのは、なかなかに大変だ。平日の夜などは、仕事から帰って、すぐに出発しなければならないし、毎月の練習場所を確保したり、各種事務連絡をしたり、引き受ける前に想像していた倍の仕事量はあったと言っていい。
それでも、私は週に2回のこの時間を楽しみにしている自分に、気がついている。
少し早めに道場に向かい、準備を整えていると、
「お願いします!」
と、入口の方から子どもたちの元気な声が聞こえてくる。イヤイヤくる子も、やる気あふれるおじさんも、スッと一礼して道場に入ると顔つきが変わる。
19時ぴったり。
開始時刻ちょうどに号令がかかり、大人も子どもも関係なく、真っ直ぐ並んで正座する。ピリッとした空気の中、無音で空気が澄んでいくような気がする。
この時間が、1番好きだ。
稽古を始める前には、先生の短いお話がある。今日は先日の試合についての講評だ。団体戦だろうが、個人戦だろうが、試合は一対一の勝負なので、勝つ子もいれば、負ける子もいる。うちの次男は、正直あまり強くはないので、まぁ……、なんというか……、残念な結果であった。こういう時、母も経験者なのは本当に良くないと思う。家でもついつい、声が小さいだの、足が動いてないだのブツブツ言ってしまった。それを思い出してか、前に並ぶ次男の背中がさっきよりも丸まっている。
「いいですか。試合は、たまたま勝つことはあります。けれど、たまたま負けることはありません」
あ……れ?
先生のきっぱりした言葉に、心の奥がざらりとした。
「負けてしまった子は、基本の構えや打ち方がちゃんとできているかどうか、もう一度しっかり意識して、今日の稽古をしてほしいと思います。また、今回勝ったという子も、勝てたんだから、もうこれでいいんだと思わず、さらに工夫をし、よく考えながら稽古に取り組んでください」
手のひらがじっとりとする。まるで、今日の私じゃないのか。うまくいかなかったことを他部署のせいにして、同僚たちと仕方がないんだとヘラヘラ笑っていなかっただろうか。あれは、本当に他部署のせいだったのか? 思い返すほど、まばたきが早くなる。
稽古が始まった道場の片隅で、1人難しい顔をしていたら、同じ役員のお母さんにどうしたのかと心配された。
「いや、さっきの先生の話を聞いて、自分の仕事ぶりを反省しまして……」
さらに眉間の皺を濃くして答えると、
「今の話を聞いて仕事に結びつけちゃうの秋田さんだけだよー」
と笑われた。
「もう、剣道再開するしかないんじゃない?」
そっと耳打ちされる。
この頃は、誰から聞いたのか、私が剣道経験者なのだと知る先生が、やたらと増えたような気がする。「いつから始めるんですか!」と、ニコニコ詰め寄ってくる先生が大量発生している。稽古に行くたびにその包囲網が狭まってきているのを感じる。
「いやー、役員が終わってからですよ!」とそつなくかわし続けてきたというのに、それは突如やってきた。「合宿」である。
よりによって、コロナ禍で取り止めていた合宿を今年度から再開するのだという。当然ながら役員に逃げ場なし。1泊2日の合宿に、私も同行することになってしまった。けれど、私は知っている。楽しげなレクリエーションの存在によってカモフラージュされているが、合宿の目玉は、2日目早朝の「1000本素振り」だということを。
そして今、私の左手にはしっかりと竹刀が握らされている。
なんで!
楽しく大人たちでお酒を飲む中で、まんまと「明日の1000本素振りに参加しようかな」なんて口走ってしまったのがいけない。なんと愚かな。私は、高校卒業からまともに竹刀など握っていないのだ。竹刀どころか、ろくに運動だってしていない。無理、筋肉ない。よし、次男の軽い竹刀を使って……。
「私3本持ってるから貸すよ!」
ママさん剣士のご好意により、立派な竹刀が手渡された。
えぇ……、えぇ!! 断れるわけがない。
青空の真下に、ぐるりと輪ができる。
「1000本素振り、始め!」
号令とともに、50本の竹刀が一斉に振り下ろされた。空気が一瞬にして熱を帯びる。
「いーちっ!」 「めん!」
「にーいっ!」 「めん!」
「さーんっ!」 「めん!」
号令に合わせて、輪の中心に向かって竹刀が振り下ろされる。一振りごとに昔の感覚を思い出しながら、何度も左手を握り直す。ちょうど正面に並ぶ先生に値踏みされているようで、変なところに力が入ってしまう。
最初のうちは、軽かった体も数字が増えるにつれ、腕に鉛のような疲労が溜まっていく。100本ずつの小休止がなければ、もうギブアップしているところだ。
決して楽じゃない。大人になって、なんでこんなキツいことしなければならないんだと頭をよぎる。みんな辛そうな顔をしている。
でも、誰も脱落しない。
小学生も一生懸命振っている。ここで大人の私が士気を下げるわけにはいかないような気がした。
ひたすらに、まっすぐに竹刀を振り下ろす。
一本振るたびに、頭の中は澄んでいく。
竹刀を振り下ろす音が重なり、静かな連帯感が生まれる。
もう体は限界だ。
汗は滝のように流れ、もう腕は大きく振りかぶれない。それでも、子どもも、大人も、同じリズムを刻み続けている。苦しすぎて、ついに笑いがこみ上げてきた。
「めんっ!」
残り10本。心なしかスピードを増していく。全員が最後の力を振り絞る。
「めんっ!」
もう、あと少し。号令の声もうわずってしまう。
「めんっ!」
これで、最後。
「めんっ!」
最後の号令が終わった瞬間、満面の笑みがこぼれた。
1000本……振れたじゃん、私。
何も考えず、ただ真っ直ぐ振ることだけを考えた30分。全力を出したのは、一体いつぶりだろうか。そういえば「涙を流すなら汗をかけ」って言ってた先生がいたな。
なのに、私はまだ迷っていた。
頭でも理解した、体でも実感した。だけれどもまだ、私は剣道の再開を決意できずにいた。身近に感じれば、やりたい気持ちは、むくむくと湧いてくる。次男の稽古を見ながら、左足のかかとがつい上がってくる。でも、まだ迷っている。
あの真剣な大人たちの中に入って、私はやれるのだろうか。経験者とはいっても、私は所詮1級までしか頑張らなかった。高校生までのらりくらりと続けていたというのに、段へ挑戦することはなかった。そもそも強くはないし、試験には木刀での審査や筆記もあるのだと聞いて、すっかり怯んでしまった自分。道場では中学生が果敢に段へ挑戦しているというのに、何故私はあの頃やらなかったんだろう。
「初段を取る」
それは私の中にずっと残った、立ち向かわなかった自分への小さな後悔だった。
水曜日の稽古終わり、今日も先生が1日の稽古を締めくくる。
「試合で相手と向き合うのは怖いです。大人でも怖いと思います」
大きく息を吸って、先生が言葉を続ける。
「けれど、そこで下がってしまってはいけません。そういう時こそ、しっかり構え直して、『さぁ来い!』と相手に立ち向かわなければいけません」
言葉がグサリと突き刺さる。稽古で腰が引けている次男に向かって「逃げるな! 前に出ろ!」なんて偉そうな言葉を飛ばしていた自分。その言葉の剣先が私の喉元にぴたりと止まる。
「お前こそどうなんだよ」
どうしたって、気がつかずにはいられない。今の私がうっすらと感じている、自分への「もの足りなさ」の正体はここにいる。ぬるま湯を心地よいと思いながら、確実に抱いている焦りの原因。
もう、覚悟を決める時だ。
頭も体も、心も、理解した。
学生以降、ろくに運動もしてこなかった41歳が、急に動けるとは思わない。中学生にもボコボコにされるだろうし、下手したら小学生にも負けるだろう。肉離れとか、やっちまうかもしれない。だけれども、道場に通う大人たちの顔は、オフィスでみる「現状維持」に慣れてしまった私たちより、ずっと清々しい。私も、そちらの道は引き返して、こっちの道へ進みたい。
だから、私は剣道を再開する。
あの頃は逃げた「初段」を、もう一度目指す。
一歩前に出て構える力。これこそが、私の人生に必要な「必須スキル」なのだ。
さぁ……来い!
❏ライタープロフィール
秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
1984年愛知県生まれ。会社勤めの2児の母。子どもの習い事をきっかけに、41歳で剣道を再開することを決意。2026年は「逃げない」をテーマに、初段取得を目指している。
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