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慢性痛に苦しむ女性が”花を活ける”喜びに出会った日《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》


2025/12/1/公開

記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※一部フィクションを含みます。

 

痛みが消えることはない。だけど、忘れる瞬間があった。「このお花、今日の気分にぴったりだね」慢性痛で表情が曇っていた彼女が、花と向き合う時間だけは、どこか柔らかな顔をしていた。

——

 

山本恵子さん(仮名・55歳)は、5年前から慢性疼痛に悩まされていた。最初は腰痛だった。整形外科を受診し、レントゲンを撮っても「特に異常はない」と言われた。でも、痛みは消えなかった。それどころか、次第に悪化していった。腰から背中へ。背中から肩へ。首、頭、そして全身へ。痛みは広がり続けた。複数の病院を回った。MRIも撮った。血液検査もした。でも、どこにも明確な原因は見つからなかった。「原因不明の慢性疼痛」そう診断された時、彼女は絶望した。原因が分からないということは、治る見込みもないということだった。

 

慢性痛は、生活のすべてを奪っていった。朝起きるのが辛い。痛みで目が覚める。服を着るのも、顔を洗うのも、すべてが痛みを伴う動作になった。掃除も、料理も、以前のようにはできない。長時間立っていられない。重いものが持てない。「何もできない」その思いが、彼女を蝕んでいった。

 

慢性痛の恐ろしさは、身体的な苦痛だけではない。心まで蝕むことだ。できないことが増える度に、自己肯定感が下がる。外出も億劫になる。人と会うのも辛くなる。次第に、家に引きこもるようになっていった。「私、何のために生きてるんだろう」そんな言葉を、何度口にしただろう。家族は心配してくれた。でも、痛みは誰にも分からない。どんなに説明しても、「見えない苦痛」は理解されにくい。

 

 

恵子さんと出会ったのは、ペインクリニックに併設されたデイケアでだった。慢性痛を抱える人たちが、リハビリやカウンセリングを受けながら、少しずつ社会との接点を取り戻す場所。私は、そこで作業療法士として働いていた。初めて会った時、恵子さんの表情は硬かった。警戒するような目つき。触れられることを極端に嫌がった。「痛いんです。どこを触っても」彼女は言った。「もう、何をしても無駄だと思ってます」その諦めにも似た言葉を聞いて、私は自分の経験を思い出した。

 

私自身も、病気で痛みと向き合った時期があった。動かない身体への焦燥感、終わりの見えないリハビリへの絶望感。あの時の痛みは、今でも忘れられない。恵子さんの痛みは、私が経験したものとは質が違うかもしれない。でも、「痛みと共に生きる辛さ」は理解できる気がした。

 

 

私は恵子さんに、様々な活動を提案した。絵を描く、音楽を聴く、編み物をする。でも、どれもピンと来ないようだった。ある日、デイケアの受付に飾られた花を見て、恵子さんが足を止めた。「綺麗ね」ぽつりと呟いた。その表情は、少しだけ柔らかかった。「お花、好きですか?」私が尋ねると、彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。「昔、華道を習ってたんです。結婚前に」その言葉を聞いて、私はひらめいた。

 

翌週、私は恵子さんに提案した。「デイケアで、お花を活けてみませんか?」最初、彼女は戸惑った。「でも、痛くて……腕を上げるのも辛いし」「無理はしなくていいです。座ったままで、自分のペースで。ただ、お花と向き合う時間を作ってみましょう」私の言葉に、恵子さんは少し考えてから頷いた。

 

用意したのは、小さな花瓶と季節の花。バラ、カスミソウ、ユーカリの葉。彼女が扱いやすいよう、茎の短いものを選んだ。「どれから活けてもいいですよ。正解はありません」私はそう言って、彼女に花を託した。最初、恵子さんの動きはぎこちなかった。バラを手に取る。花瓶に挿す。抜く。また角度を変えて挿す。その動作は、決して滑らかではなかった。痛みがあるのは明らかだった。でも、不思議なことに、彼女は止めなかった。一輪、また一輪。ゆっくりと、花が花瓶に納まっていく。

 

 

10分ほど経った頃、私は恵子さんの表情が変わったことに気づいた。眉間のしわが、少し緩んでいた。肩の力も、わずかに抜けていた。そして何より、目が生き生きとしていた。「このお花、今日の気分にぴったりだね」彼女は、バラを見つめながら呟いた。「ピンクって、優しい色だわ」その言葉を聞いて、私は確信した。この時間は、彼女にとって特別なものになっている、と。

 

恵子さんにとって、花を活けることは機能訓練ではなかった。それは、痛みに支配された日常から解放される、貴重な時間だった。花と向き合っている間、彼女は痛みを忘れていた。少なくとも、痛みが背景に退いていた。活け終わった花を見て、恵子さんは小さく微笑んだ。「久しぶりに、何かを完成させた気がする」その言葉には、達成感が滲んでいた。

 

 

その日から、恵子さんは週に一度、デイケアで花を活けるようになった。毎回、違う花を用意した。季節に合わせて、色や種類を変えた。時には彼女自身が、「今日はこの花を使いたい」とリクエストすることもあった。そうした選択をすること自体が、リハビリだった。自分で決める。自分で選ぶ。それは、痛みに支配された受け身の生活から、能動的な生活への転換だった。

 

3ヶ月が経った頃、恵子さんに変化が見られた。表情が明るくなった。デイケアに来る足取りが軽くなった。他の利用者さんとも、少しずつ話すようになった。ある日、彼女はこう言った。「先生、家でも花を活けたいんです」その言葉を聞いて、私の胸は熱くなった。デイケアでの活動を、家でも続けたい。その思いは、生活への意欲の表れだった。痛みは、まだあった。完全に消えたわけではない。でも、恵子さんは痛みだけの人生ではなくなっていた。「花を活ける時間」という、痛みから解放される時間を手に入れたのだ。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

 

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