週刊READING LIFE Vol.343

決意した、浅い呼吸の帰り道《週刊READING LIFE Vol.343「あのとき、私は大人になった」》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2026/02/12公開

記事:秋田 梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

 

まるでそこに足跡がみえるようだった。

玄関からリビングへ続き、さらにお風呂場の方へ進んで、そこでようやく、いなくなっている。完全に消えたわけではない。ほんの少しだけ薄まって、またリビングへ戻り、今まさに私の目の前で、大変かぐわしい臭いを放っている。

 

めっちゃ臭い!

 

臭いの主は、長男のこの足だ。小学校6年生の彼は、今バスケの練習から帰ってきたところで、着替えだけを済ませて、ソファでごろんと横になっている。絶賛お疲れ中なので、しばらくはこのまま体力と精神の回復のため、ここでゴロゴロするだろう。それはいい。

ただ、問題はこの足だ。冬とはいえ、何時間も練習して帰ってきた足である。汗の染み込んだ靴下で歩いた道筋は、依然として微妙な臭いを放っており、異変を感じたウチの猫が、おそるおそる床の臭いを嗅いでいる。

 

なんだこの臭いは! おまえか!

という顔をして猫がこっちをみる。いや、私じゃないですよ……。

 

この濡れ衣を晴らすべく、問題の解決を行いたいのだが、相手は思春期の少年である。伝え方次第では、バッドエンドまっしぐらなのだ。長男の不機嫌な返事に着火した私が、家の中を焼き尽くす未来だけは避けたい。セリフ選択を間違えないように、ハッピーエンドへ正しい分岐を進まねばならないのだ。それも、夫や次男がこの状況に気がついて、余計な一言を発する前に終わらせたい。

 

「ちょっとお兄さん、運動した後はさすがに汗めっちゃかいてるから、シャワー浴びろとまでは言わないけど、足洗ってきたほうがいいよ」

 

母は様子を見ている。我ながら、なんとも遠回りなセリフだ。ただ、「臭い」という単語は使えない。以前うかつに「臭い、臭い」と連呼した夫は、盛大に睨みつけられたうえ、しばらく口を聞いてもらえなくなった。

「俺だって気にしてるわ!」

と長男は怒り、当然、夫は私に叱られる羽目になった。臭いの自覚があるかどうかはともかく、「臭い」ことは、本人だって気にしていないわけがないのである。

 

「あー、はいはい」

 

やはり面倒そうな返事が返ってくる。ちょっと腹が立つ。

「あと、バッシュ干しといてねー」

できるだけ平静を装って提案する。

「あー……、うん」

若干の沈黙が彼の不機嫌を物語っている。「はぁ? いつも帰ってきたらすぐにやるように言ってるでしょうが!」というセリフが喉まで出かかっているのだが、ここで私の戦闘民族にスイッチ入れてしまっては互いに疲弊する。不機嫌には気がつかないふりをして、キッチンへ移動して距離を取ることにした。

 

しばらくして、スマホ片手にのっそりと起き上がった長男は、素直にリュックからバッシュを出し、ダラダラと2階へと上がっていった。少しして、上からファブリーズの音がシュッシュと聞こえると、そのまま部屋のドアが閉まる音がした。

 

おいこら、足を洗うのはどうなったんだよ!

追いかけて問い詰めようかと思ったが、バッドエンドしか見えなかったので、階段の3段目でなんとか踏みとどまった。臭いの元と距離ができたのでよしとする。

 

振り返ると、まだ、猫が床を嗅ぎ回っているので、長男に気づかれないうちに慌ててクイックルワイパーをかける。もはや気持ちの問題のような気がするのだけれど、見えない足跡が消えていくような気がする。彼の名誉のために言っておくが、長男が特別臭いというわけじゃない。遊びに来る男子達もそれなりにいい臭いをさせてくるし、この頃のママ達の会話の中心は「男子の臭い問題」である。いつかの消臭剤のCMで、3兄弟の臭いに苦しむ母親をみて、そんな臭いことある? と思っていたがあれは真実だったのだ。

 

 

 

いつからこんなに臭うようになったのだろう。

もちろん赤ちゃんの頃は、みんないい匂いだ。進んで吸いに行きたくなるくらい、赤ちゃん特有のミルクのような香りがする。汗をかけばそれなりに酸っぱいこともあるけれど、鼻が曲がるような臭いではない。失って初めて気が付く癒しの香り。今では我が家でその匂いを感じることができないので、姪っ子が来た時にこっそり嗅いでいるくらいには、いい匂い。あぁ、懐かしい。

 

臭いの境目は、おそらく10歳だ。

誕生日のお祝いをして、「ついに年齢が二桁! 大きくなったね!」なんて話しながら、ふと頭皮の臭いが気になったのだ。最初こそ、汗をかいたに違いない、お風呂でしっかり洗ってきて、なんて笑っていたが、一向に消える気配がない。すると今まで気にならなかった靴の臭いも気になるようになり、いつの間にか中敷の洗濯が毎週のルーティンとなった。

 

長男のいなくなった隙を狙ってやってきた次男が、入れかわりでソファに寝転がっている。心配になって、こっそり頭の臭いを嗅いでみるが、まだ大丈夫。けれど、小3の次男もタイムリミットはもう近い。あと半年というところだろう。

 

 

 

そんな終わりのない臭いとの戦いを繰り広げていたある日、帰宅すると、夫がやけにニヤニヤとしている。これは、なにかいいことがあったに違いない。

「今日コンビニで『香水、何使ってますか』って聞かれた!」

と話し出した。近所のコンビニで買い物をしていたら、大学生くらいの男性店員さんに質問されたのだと言う。

「え、それどういう状況で?」

コンビニで店員さんに、ポイントカード以外の質問をされることなど、まず起こらない。

「レジで会計終わった後に『あの!』って突然聞かれてさ、あんまり覚えてなくて『今日はフェラガモだったかな……?』って答えたんだけど」

さっぱりわからないが、今、夫からしてる香りがそれなのだろう。

「そしたら『ふぇらがも……それはカタカナで検索したら出てきますか?』って言うの」

なにそれ、思ったより可愛い。絶対に、その場ですぐに検索したかったに違いない。

「しかもね、レジには、もう女性の店員さんが1人いたんだけど、わざわざ走ってきて、もう1つレジ開けてまで『こちらへどうぞー』って呼ばれたんだよ」

その店員さんは、今思えば夫が商品を選ぶすぐ後ろで品出しをしていたらしく、夫がレジに向かうのを見て、急いで後ろから走ってきたのだそうだ。品出しをしている間、この匂いなんだろう、なんて香水だろう? 話しかけようかな、でも、急に店員が話しかけたら変だよな……とか悩みながら仕事していたのか。なんと、可愛い生き物か。

 

 

 

「いやー、びっくりしたよ。そんなにいい匂いしたかな」

 ご満悦な夫の顔を見ながら、私は2階にいる「足跡の主」のことを思った。長男も、いずれはその店員さんのようになるのだろうか。そう考えると、あの強烈な足の裏の臭いも、永遠に続くわけではないことに気づく。当たり前のことだけれど、子どもは大人になっていってしまうのだな、ということに。

 

赤ちゃんの匂いは、最初の1段階目。いい匂いをさせて、みんなにお世話してもらわなければならない。そこに、だんだんといろんな香りが調合されていった。保育園の頃の砂場の匂いや小学校の給食の匂い。彼の匂いを嗅ぐことは、今日彼がどんな世界で過ごしてきたのかを答え合わせするような、母としての密かな楽しみがあった。

 

そこからは突入する第2段階。

赤ちゃんの匂いは、すっかり消えて、激臭を放ちながら、母を遠ざける面倒くさい思春期の開幕だ。家の中よりも外の世界で過ごす時間が長くなるにつれ、匂いは少しずつ輪郭を変えてきている。自分でも持て余しているような、エネルギーが、汗と一緒に溢れ出しているような強い香り。それは、親の知らない場所で、彼が彼自身の足でしっかり地面を踏みしめて戦ってきた証拠なのかもしれない。

 

だから、この臭いは、「子離れ」の香りなのだ。

臭い臭いと逃げ回って、物理的に子どもとの距離が生まれていくことが、そろそろ手を離していきなさいよーという合図なのだ。

 

ここからは、あっという間に、香水の香りがする第3段階がやってきてしまうのだろう。今はまだ、一歩歩くごとに強烈な臭いを振りまいて、猫に不審がられている彼だけれど、いつか彼も自分の好きな香りを纏い、どこかの誰かを「いい匂いだな」と振り返らせるような、日が来るのだろう。

 

その時が来たら、きっと、

「あんた香水つけすぎ! 臭いんだけど!」

と、私は言うに違いない。そうやって、どんどん息子と私の距離は離れていく。

でも、きっとそれは、いいことだ。

 

この悪臭のおかげかは分からないが、今のところ、思春期まっしぐらの長男とも、なんとか上手くやれている。中学生になれば、小学生のようにはいかないかもしれない。子どももずる賢く成長していくだろうし、私も勉強だのなんだの口を出したいことも増えてくるに違いない。

 

 

 

そんな時は、

この悪臭を思い出すことにする。

 

「今日の晩ご飯なに?」

 

バスケのお迎えに行った帰り道、窓を全開にしようか本気で悩みながら、浅い呼吸で、今日はカレーだよ、と答えたのだった。

 

 

❏ライタープロフィール

秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1984年愛知県生まれ。会社勤めの2児の母。思春期の入り口に立った長男と、まだ無邪気な次男の放つエネルギーに鼻をつまみつつ、文章修行に励んでいる。

 

 

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2026-02-12 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.343

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