週刊READING LIFE Vol.344

この漢字を読むことが出来るのは、全て彼の御蔭 《 週刊READING LIFE Vol.344 「 涅槃 」 》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2026/02/19公開

記事:山田THX将治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

 

 

 

『涅槃』

 

この見掛けることが少ない漢字を、“ねはん”読むことが出来るのは、或る男優の御蔭だ。1983(昭和58)年の事だった。

その派生で『涅槃』とは、仏教の最終目標を意味し、原語であるサンスクリット語では“ニルヴァーナ”と発音すること迄知るに至った。

 

それは何故か。

『涅槃』を知らしめた男優のニュースが、衝撃的だったからだ。

ネットが無かったその時代、漢和辞典で『涅槃』を調べ様にも儘ならなかったのが事実だ。何せ、読みが解らず部首の想像も付かなかった。

ニュースで、『涅槃』を見掛けた私は、メモ用紙にその字を書き留め、図書館に急いだ。

確か、百科事典か何かで、何とか『涅槃』を見付けることに成功した。

その様な訳で、『涅槃』の意味や原語の発音迄知ったのだ。

 

 

私に『涅槃』を知らした男優で歌手は、沖雅也(おきまさや)と謂う芸名で活躍した。

当時、同じ俳優で歌手に仲雅美(なかまさみ)氏が居り、よく混同されたり間違われたりしていた記憶がある。どちらかと謂うと仲雅美氏の方が、認知が高かった筈だ。ヒット曲も有って(『ホルシュカ・ポーレ』日本語版)、俳優としても『同棲時代』と謂う作品で、由美かおるさんと共演していた位だからだ。

 

一方の沖雅也氏は、映画界(日活)の出身で、テレビに進出したりレコードデビューした際は、

 

『仲雅美のパッチもの』

 

と、陰口を叩かれたものだった。

混同される二人を良いことに、或るテレビドラマでは兄弟役を任せられた(沖雅也氏が弟役)。

 

そんな沖雅也氏だったが、1976年に人気テレビドラマ『太陽にほえろ!』にレギュラーで登場すると、人気に火が点いた。

何故なら、ドラマでの設定がそれ迄の『太陽にほえろ!』に登場する、若手刑事とは一味違っていたからだ。

長身の体躯を常にベスト付きスーツで包み、新任では無く転勤してきた刑事と謂う設定だった。『太陽にほえろ!』の登場人物に付き物の呼び名は、‘スコッチ刑事’と風変りだった。

しかも、ドラマを去る際には殉職が常だった『太陽にほえろ!』では初めて、転勤と謂う形を取った。半年と謂う、短い出演だった。

何でもそれは、沖雅也氏の意向だったそうだ。

 

何れにしても、どちらかと謂うとカジュアルな服装で、血生臭い最後(殉職)を遂げて去るのが定番化していた『太陽にほえろ!』では、特別扱いだったのかも知れない。

沖雅也氏と謂う男優は。

 

 

『太陽にほえろ!』出演後、特段目立った活躍が少なかった沖雅也氏が、注目を集めたのは、1983年6月末の事だ。

即ち私に、『涅槃』と謂う字を知らしめた時だ。

従って、私と同じ時期に『涅槃』を読むことが出来る様に為った人は、優に50代半ばを超えて居ると思われる。

 

 

その日、突然のニュースが日本列島を駆け巡った。

スマホのニュースが無かった時代のこと、テレビでは速報が流れ、街中では電光掲示ニュースが、盛んに‘沖雅也’の名を上から下へ、又は、右から左へと流していたものだ。

 

そのニュースとは、人気俳優の沖雅也氏が、西新宿の高層ホテルから飛び降り自殺を図り、警備員の制止を振り切った末に亡くなったと謂うものだった。

享年31。

沖雅也氏は自宅に、二通の遺書を残して居り、その中の一通に、

 

《おやじ、涅槃で待つ》

 

と、記されて居たとの報が有った。

 

『涅槃』と謂う聞き慣れない言葉は、この時日本中に広まった。

直後には、落語のまくら(噺前の短いトーク)で、

 

「何でも、沖雅也さんの自宅には、必死に何度も『涅槃』を書く練習した紙が残されてまして……」

 

と、何とも不謹慎な噺家さんが出て来る始末だった。

 

 

唯、沖雅也氏の遺書は、『涅槃』を知らしめるだけに留まらなかった。

遺書に在った‘おやじ’とは、誰の事だとの疑問を残したからだ。

 

疑問の答えは簡単だった。

沖雅也氏の遺書に在る‘おやじ’とは、勿論、実の父親のことでは無く、養子縁組した義父で在り所属事務所の社長でも在った日景忠男氏の事と直ぐに判明したからだ。

沖雅也氏は、日景社長の事を慕って居り、戸籍の名も‘日景’に変更していた程だった。

 

その上、自殺の原因としては当時、沖雅也氏が双極性障害を患って居り、処方された精神安定剤の副作用との説が出た。

 

 

然し乍ら、噂好きの日本人は、それに留まらなかった。

沖雅也氏と事務所社長である日景忠男氏との関係を、噂し始めたのだ。

 

それも、養子縁組の目的として、同性愛隠しの疑惑を立てたのだ。

沖雅也氏が亡く為って仕舞ったので、事の真偽を確かめることは出来ない。それ以上に、個人の嗜好に関してトヤカク言うことは憚られるものだ。

現代では。

 

ところが1980年代前半では、同性愛には世間的な許容は無く、単に忌み嫌われる存在だった。気持ち悪い存在として。

当時は未だ、同性愛雑誌が隠れる様に発行されて居るのがオチで、新宿2丁目界隈だって、一般人には全く知られて居ない存在だったのだ。

 

挙句の果てには、

 

『エイズ(免疫不全症候群)は、ゲイに対して神が与えた罰』

 

と、何とも根拠が薄い断定をして来る者迄出る始末だった。

実際は、アメリカ・ニューヨークを中心に、ゲイのエイズ患者が多かったことに依る偏見だった。

 

事程左様に、当時は同性愛者に対する差別が強かったのだ。

 

それと同時に、人気男優の同性愛疑惑は、二重の衝撃を以って世間を駆け回って仕舞ったのだ。

 

多様性が認められつつある21世紀の現代では、そのような偏見は考え難い。

そればかりか、在っては為らないこととされて居る。

他人の嗜好に対して、個人的価値観を押し付けることは、逆に“前時代的”との誹りを免れることは出来ない。

同時に、同性愛を含めた嗜好の多様性こそが、開かれて文化的だとされている。

 

 

こうして考えてみると、もし、沖雅也氏が当時の姿の儘現代を生きることが出来たら、自ら命を絶つ決断はしなかったと思えて為らない。

 

そう為ると、私が『涅槃』なる言葉を読むことが出来たり、知ることは無かっただろう。

これ全て、沖雅也氏の御蔭である。

 

それも、身を以っての御蔭だ。

 

 

以上の理由に依って、私にとって『涅槃』という言葉に対する印象は、新宿の高層ホテルと沖雅也氏と謂うことと為るのだ。

 

 

そして、初めて同棲愛に対して、真剣に考える切っ掛けに為ったのだ。

 

 

御釈迦様には、少々申し訳無いことだが。

 

 

 

 

 

 

 

〈著者プロフィール〉

山田THX将治(天狼院・新ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター)

1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役

幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余

映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を45年に亘り務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る

これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿

ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている

本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」

映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり

Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載

続けて、1970年の大阪万国博覧会の想い出を綴る『2025〈関西万博〉に伝えたい1970〈大阪万博〉』を連載

加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する

更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている

天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeason Champion

 

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2026-02-19 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.344

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