リペアは、モノを修理することではない——良いものを長く使うという選択
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:川瀬健二(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)
その鞄を、私はまだ手放せずにいる。角は擦れ、金具は曇り、誰が見ても「そろそろ寿命」だと言うだろう。それでも私は、買い替えられなかった。会社に入って間もない頃だった。大きな仕事が決まり、帰り道にふと立ち寄った店で、その鞄に出会った。今の自分には少し分不相応かもしれないと思いながらも、「これから長く使う」と言い聞かせて手に取った。
あれから十数年。角は白く擦れ、持ち手は柔らかくなり、金具は曇っている。雨の日も、真夏の出張も、重たい資料を詰め込んだ日も、この鞄は黙って隣にあった。ある日、知人に言われた。「もう買い替えたらどうですか? 今はもっと軽くていいものがありますよ」
たしかにそうだ。機能だけを比べれば、新品の方が優れている。軽くて、強くて、傷ひとつない。けれど私は、その場でうまく答えられなかった。買い替えることは簡単だ。
だが、手放すことは、自分の過去をどこかで切り離すような気がした。
数日後、私はリペアを依頼した。工房の中は静かだった。革の匂いと、乾いた木の香りが混ざっている。職人は私の鞄を両手で持ち上げ、しばらく眺めてから、ゆっくりと口を開いた。「ずいぶん使われていますね」
そこには、時間への敬意があった。角は補色され、持ち手は補強され、金具は磨かれた。だが、すべてが新品のようになったわけではない。傷はうっすら残り、色むらも消えきらない。それでも、戻ってきた鞄を手にしたとき、私は気づいた。
直されたのは、鞄ではなかった。
私の中の「迷い」だった。
私たちは壊れたものを前にすると、無意識に計算を始める。修理代はいくらか。新品との差額はどれくらいか。あと何年持つのか。合理的な判断だ。だが、その計算の中には「時間」が入っていない。共に過ごした年月。そのモノを持っていたときの自分。あの時の決断や覚悟。それらは数値化できない。けれど確実に、私たちの内側に積み重なっている。
ふと思い出すのは、日本に古くから伝わる「モノへの敬意と循環」という感覚だ。かつて私たちは、道具を単なる物質とは考えなかった。長く使い続けた道具には魂が宿るとされ、「付喪神(つくもがみ)」という言葉まで生まれた。九十九年という時間は、「ほとんど一生」に近い。そこまでの時間を共にした道具は、やがて単なるモノではなく、関係を持つ存在へと変わる。
一方でヨーロッパには「パティナ」という言葉がある。長年使い込まれたアンティークの家具を思い浮かべると分かりやすい。それは、劣化ではなく価値として受け止める文化だ。傷や変色は、その家が長い時間を重ねてきた歴史の証になり、それを受け継ぐことが誇りとなる。
付喪神が“魂の宿り”として時間を感じるなら、パティナは“歴史の証明”として時間を誇る。どちらも、新品の完璧さよりも、時間の積層に意味を見出している。放置された古さには価値は宿らない。丁寧に使われ、手入れされ、受け継がれたものにだけ、時間は深みを帯びる。リペアは、その深みをもう一度立ち上げる行為だ。
新品はいつだって魅力的だ。最新機能、軽さ、合理性。市場は常に「新しさ」を推奨する。だが新品には、時間がない。時間は、共に過ごすことでしか生まれない。そしてある瞬間から、時間は機能を超える。
擦れた革の手触り。何度も握った持ち手の柔らかさ。少しだけ傾いた椅子の脚。それらは不完全だ。だが、その不完全さの中に、自分の時間が刻まれている。壊れたときこそ、問いが生まれる。
「まだ使うか?」
「手放すか?」
その問いに向き合う時間こそが、実は豊かなのではないか。リペアは、単なるアフターサービスではない。それは、自分の選択をもう一度引き受ける儀式だ。良いものを長く使う。それは節約でも、懐古でもない。それは、自分の人生に責任を持つ態度なのではないか。
消費は速さを求める。だが、成熟は時間を求める。壊れたら捨てる社会は、選択を軽くする。壊れたら直す社会は、選択を重くする。重い選択は、面倒かもしれない。だが、その重さの中に、静かな誇りがある。鞄を直してから、歩き方が少し変わった気がする。
新品の光沢ではなく、時間の重みを携えている感覚。
リペアは、モノの延命ではない。時間を丁寧に扱うという宣言だ。そしてもしかすると、これからの豊かさは「どれだけ持つか」ではなく、「どれだけ引き受けられるか」で決まるのかもしれない。
あなたの身の回りにも、少し傷んだモノがあるだろう。もし迷っているなら、問いを急がなくていい。そのモノと過ごした時間を、思い出してほしい。そこには、あなたが歩んできた道のりが、静かに刻まれている。
直すか、手放すか。どちらを選ぶにしても、その選択があなたの時間を尊ぶものでありますように。そしてもし、もう一度使うと決めたなら。それは、モノだけでなく、あなた自身を整える時間になる。リペアとは、単にモノを直すことではない。これまで共に歩んできた愛着や感謝とともに、これまでの時間を、もう一度引き受けることなのだ。
≪終わり≫
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