メディアグランプリ

 【連載第47回】《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「歓声は、病室まで届いた」―スタジアムへ戻れなかった男性が、もう一度ユニフォームを着た夜―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。

 

 

——

好きだった場所へ行けなくなったとき、私たちは「代わりの楽しみ」を探そうとします。けれど、本人が失ったのは場所だけではありません。そこにいた自分、誰かと声を重ねる役割、次の週を待つ理由まで、遠くなることがあります。その喪失へ、すぐに代用品を差し出してよいのでしょうか。スタジアムへ戻れない男性へ、私は病室での中継を勧め、拒まれました。これは、一枚のユニフォームが教えてくれた、参加の形を選び直す物語です。

——

「それは、慰めだろ」

Kさんはテレビを消し、リモコンを布団の上へ置きました。

その夜は、彼が長年応援してきたサッカーチームのホームゲームでした。私は試合の時間を知り、よかれと思って尋ねたのです。

「病室でも中継が見られます。つけましょうか」

「スタジアムに行けない俺を、テレビの前に座らせて。それで参加したことにするのか」

声は静かでした。だからこそ、私は返す言葉を失いました。

「そういうつもりでは……」

「今日は、サッカーの話をしないでくれ」

私は「わかりました」と答えました。その日の支援は、試合開始を知らせる時計の音を聞きながら終わりました。

——

Kさんは三十年近く、同じチームを応援していました。ホームゲームの日は青いユニフォームを着て、首にタオルを巻き、試合開始よりずっと早く家を出る。仲間と合流し、売店で同じ飲み物を買い、選手が入場すると立ち上がって歌う。それが季節を測る時計でした。

入院してから、Kさんはスタジアムへ行けなくなりました。移動に耐えられる体力や、長時間座っていられる見通しが立たず、外出はすぐに実現できる状態ではありませんでした。

息子さんは試合結果を伝えようとしましたが、Kさんは「聞きたくない」と断りました。スポーツニュースが始まるとテレビを消し、仲間との連絡にも返事をしなくなりました。

私は、好きなものに触れれば気持ちが動くかもしれないと考えました。だから中継を勧めました。けれど、それはKさんにとって、失った席を画面で見せられることでもありました。

私が見ていたのはサッカーという娯楽でした。Kさんが失ったのは、観客席で声を出す自分でした。

——

数日後、ベッド脇の棚を一緒に整理していると、底から青い布が見えました。

折りたたまれたユニフォームでした。背中には十二番。息子さんが「いつか着るかもしれないから」と持ってきたものの、一度も袋から出していなかったそうです。

「しまっておきますか」

私が尋ねると、Kさんはしばらくユニフォームを見ていました。

「十二番は、選手の番号じゃない」

「サポーターの番号、ですよね」

「あそこにいるときは、患者でも、父親でも、仕事を辞めた人間でもない。十二番目の選手だった」

その言葉で、私の提案に足りなかったものがわかりました。私はKさんに、試合を見せようとしていました。けれど彼が戻りたかったのは、見る側ではなく、加わる側だったのです。

私は中継を勧め直す代わりに、一つだけ尋ねました。

「そのユニフォーム、着てみますか」

Kさんは鼻で笑いました。

「着たところで、行けるわけじゃない」

「はい。行けたことにはなりません」

私はそこで言葉を止めました。別の価値を説明して説得すれば、また私の答えを押しつけることになります。

やがてKさんは、青い布へ手を伸ばしました。

「着るだけならな」

——

体調と動かし方を確認しながら、袖へ片腕ずつ通しました。ユニフォームは以前より大きく見えました。肩から布が余り、背中の十二番が低い位置へ落ちました。

Kさんはベッド脇の鏡を見ました。

ほんの数秒でした。

「脱ぐ」

私は理由を聞かず、ユニフォームを脱ぐのを手伝いました。Kさんは青い布を丸め、棚の奥へ押し込みました。

「こんなの、俺じゃない」

痩せた体に余るユニフォームは、スタジアムにいたころとの距離をはっきり映しました。好きなものは、いつも人を励ますとは限りません。思い出が鮮やかなほど、今との違いを突きつけることもあります。

私は、ユニフォームを着られたことを成功にはしませんでした。Kさんが脱ぐと決めたことも、その日の大切な選択でした。

——

次のホームゲームの日、私はサッカーの話をしませんでした。

夕方、Kさんの方から尋ねました。

「今日、何時からだ」

「七時です」

Kさんは棚の方へ目を向けました。

「鏡を伏せてくれ」

私は鏡を裏返しました。

「それから、十二番を出してくれ」

二度目に袖を通したユニフォームも、体には大きいままでした。何も元には戻っていません。それでもKさんは裾を伸ばし、胸のチームマークを右手で一度押さえました。

試合開始の少し前、息子さんから音声が届きました。スタジアムの仲間が歌う声を、短く録音したものでした。

Kさんはスマートフォンを耳へ近づけました。小さな機械から流れる歌に、何万人もの足音が混じっていました。

聞き終えると、Kさんは自分でテレビの電源を入れました。

「音、少し上げてくれ」

選手が入場し、画面の向こうで青い旗が揺れました。Kさんは歌いませんでした。ただ、布団の上で握った手が、応援歌の拍子に合わせて動いていました。

——

試合は思うように進みませんでした。前半の終わりに失点し、味方のパスが外れるたび、Kさんは顔をしかめました。

「下がりすぎだ。もっと前へ出ろ」

その声は、病状を説明する患者の声ではありませんでした。いつもの席から選手へ文句を飛ばす、十二番の声でした。

けれど後半に入るころ、Kさんのまぶたは重くなりました。画面を見続けることが負担になり、音量を下げて横になりました。

私は、せっかくの試合だから最後まで、と励ましませんでした。参加することを、新しい我慢にしてはいけないと思ったからです。

Kさんは目を閉じたまま、時々尋ねました。

「今、何分だ」

私は時間と、画面で起きたことだけを短く伝えました。

試合終了の笛が鳴りました。チームは一点差で負けました。

Kさんは目を開け、しばらく天井を見ました。

「負けたか」

「はい」

「病室でまで、負け試合を見せられたな」

そう言いながら、Kさんは少し笑っていました。

——

中継を見たからといって、スタジアムへ行けたことにはなりません。仲間と肩を組むことも、冷たい夜風を受けることも、帰り道で試合を語ることもできませんでした。

病室での観戦は、スタジアムの代わりではありません。けれど、偽物でもありませんでした。代わりではない、別の本物だったのです。

参加とは、ある場所へ自分の体を運ぶことだけではありません。誰かと同じ出来事を待ち、役割を持ち、自分の言葉を返すことでもあります。

Kさんは試合を最後まで見られませんでした。それでもユニフォームを着ると決め、歓声に耳を澄ませ、選手へ文句を言い、負けを悔しがりました。その一つひとつが、彼をチームとの関係へ戻していました。

 

【今週の再起動実験】行けない場所にある「役割」を、一つ探す

好きだった場所へ行けないとき、「家で同じことをすればよい」と急いで置き換えず、その場所で自分が何をしていたかを一つだけ探してみてください。応援する。選ぶ。感想を伝える。誰かと同じ時間を待つ。その役割の一部なら、今いる場所へ持ち帰れることがあります。

外出、長時間の視聴、衣服の着脱などが体の負担になる場合は、その日の状態を確かめ、必要に応じて医療・介護の専門職と相談してください。途中でやめることも、音だけを聞くことも、本人が選んだ参加の形です。

——

翌朝、青いユニフォームは棚の奥へ戻されていませんでした。ベッド脇の椅子に、背中の十二番が見えるように掛けられていました。

Kさんの再起動スイッチは、スタジアムへ戻れた瞬間にはありませんでした。戻れない現実を抱えたまま、「今日は着る」と自分で決めた瞬間にありました。

歓声は、勝手に病室へ入り込んだのではありません。Kさんがもう一度、チームとつながる扉を開いたから届いたのです。

あなたが今、行けなくなった場所には、持ち帰れるどんな役割が残っているでしょうか。

——

 

 

 

 

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

 

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