【連載第49回】 《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「娘には、もう頼まない」―洗濯機に残された一枚のシーツ―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※本作は、作業療法士としての経験をもとに、個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。療法士の内面や、関わりの中で生まれた変化を小説として描いています。
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家族に頼ることを勧めるのは、支援者にとって自然なことです。けれど、「頼む」には返事を待つ時間があり、「断る」にもその後の痛みがあります。洗濯機に残された一枚のシーツを前に、私は干し方と連絡方法を整えようとしました。母と娘の声をそれぞれ聞くほど、簡単な解決策は見つからなくなります。これは、予定表にない木曜日に、二人の答えを私が急いでいたことに気づく物語です。
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「娘には、もう頼みません」
Bさんは、洗濯機のふたに手を置いたまま言いました。
洗濯機の中には白いシーツがありました。脱水が終わってから二時間近くたっています。ふたを開けると、湿った布と洗剤の匂いが上がりました。
「干さないんですか」
「今日はいいです」
Bさんは退院してから、立ったまま両手を使う動作に不安がありました。小さな衣類なら室内の物干しへ掛けられます。けれど、水を含んだシーツを持ち上げ、向きを変え、ベランダの竿へ広げるときには足元が揺れました。
娘さんが来るのは毎週火曜日と土曜日です。シーツやタオルをまとめて干していました。その日は木曜日でした。
前の晩、Bさんは飲み物をこぼし、シーツを洗いました。娘さんへ電話をかけると、「今日は行けない」と言われたそうです。
「仕事ですから、仕方ないですよ」
Bさんの言い方は静かでした。
「でも、もう頼みません。頼まなければ、断られることもないでしょう」
私はすぐに別の方法を考えました。小さいシーツに替える。低い室内干しを使う。家事の支援を担当者に相談する。娘さんへ連絡しやすい時間を決める。私は洗濯物から目を離さないまま、案を並べていました。
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私が初めてこの家へ来た日、娘さんは冷蔵庫に一枚の予定表を貼りました。
火曜日は買い物。土曜日は掃除と洗濯。通院の日は送迎。
「母は遠慮するので、決めておいた方が頼みやすいんです」
私はよい工夫だと思いました。家族の負担も見えるし、Bさんも助けを求めやすい。支援者として安心できる予定表でした。
Bさんも、その場ではうなずきました。
ただ、予定表には書かれていない日がありました。飲み物をこぼす日。いつもより体が重い日。暮らしは火曜日と土曜日だけでは収まりません。
私は、娘さんが予定表の外でも来られるような気でいました。
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翌週、娘さんもいる時間に訪問しました。
「木曜日のこと、聞きました」
私が切り出すと、娘さんは台所で手を止めました。
「行けなかったんです。会議中に三回電話が来て」
Bさんが顔を背けました。
「三回もしていません」
「着信は三回あったよ」
「つながらなかったからです」
二人の声が、少しずつ硬くなりました。
私は間に入り、予定外の頼みごとの方法を決めようとしました。電話に出られなければメッセージにする。娘さんが難しいときは、家事の支援を別に相談する。二人の声が硬くなっているのに、私は手順を説明しました。
娘さんは言いました。
「方法の問題じゃないんです」
「というと」
「断るたびに、母を見捨てたみたいになるんです」
私は黙りました。
娘さんは、行けない日にも行きたいと思っていました。
「行ける日は行きたい。でも、行けない日もあります。家族なんだからって言われたら、行けないとは言えなくなる」
私は今度は娘さんの側に立ち、Bさんへ別の方法を勧めたくなりました。
片方の言葉を聞くたびに、そちらを正解にしようとしていました。
Bさんが私を見ました。
「先生も、私が我慢すれば済むと思っているでしょう」
否定できませんでした。
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私たちは、一度だけ試すことを決めました。
予定外の洗濯が出たら、Bさんは一度だけメッセージを送る。娘さんは来られるかどうかを短く返す。返事がなければ無理に待たず、家事の支援について担当者に相談する。二人が同意したのは、そこまででした。
私は、それで次の木曜日を迎えられると思いました。
次の訪問でBさんが話してくれたのは、また予定にない木曜日のことでした。雨が降り、Bさんはベッド脇のタオルを洗いました。
昼過ぎに娘さんへメッセージを送りました。午後三時になっても既読はつきませんでした。
Bさんは洗濯機からタオルを出し、居間の椅子へ一枚ずつ掛けました。最後の一枚を持ち上げたとき、腕が疲れ、タオルを床へ落としたそうです。
拾おうとして体が傾き、テーブルへ手をついたと聞きました。
その話を聞いて、私はまず転倒の危険を確かめました。メッセージの決め方だけでは、木曜日の洗濯を安全にはできません。
娘さんから返事が来たのは、午後七時を過ぎてからでした。
「今見た。明日の朝なら行けます」
Bさんは返信しませんでした。
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Bさんが語り終えたとき、椅子に掛けたタオルは乾いていました。床へ落ちた一枚だけ、もう一度洗われていました。
「返事、来たんですよね」
「来ました」
「明日の朝なら、と」
「もう終わったことです」
Bさんは携帯電話を伏せました。
私は二人で話す機会をつくり直そうとしました。けれど、Bさんは首を横に振りました。
「話せば、あの子が困るだけです」
「このまま頼まないと決めると、Bさんが困る日もあります」
「困りますよ」
Bさんは、はっきり答えました。
「でも、頼んでも困るんです」
私は返す言葉を持てませんでした。
娘さんへ頼まないと決めても、Bさんが危ない動作を一人で引き受ける必要はありません。家事の支援や干し方を、Bさんの意向を確かめながら担当者と検討することにしました。
その一方で、頼んだあとの返事を待つ時間も、断った娘さんに残る思いも、連絡方法だけでは消えません。
私は、話し合いを重ねれば二人が分かり合えると急いでいました。けれど、今すぐ同じ結論にたどり着くことまで求めるのは、私の都合でした。
その日、私は新しい予定表を冷蔵庫へ貼りませんでした。娘さんへ電話をかけることもしませんでした。
濡れたものをどうするか。誰に頼むか。安全をどう確保するか。話すべきことは残っています。Bさんと担当者への相談は続けます。
ただ、二人の関係まで、こちらの予定表で決めることはできませんでした。
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家族へ頼む内容を一つに絞り、相手が断ってもよいと先に伝えることはできます。同時に、返事がないときの安全な方法を担当者と相談しておきます。負担の大きい家事や転倒につながる動作を、本人だけで抱えないでください。家族が応じる義務を負うという意味でもありません。
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帰り際、洗濯機のふたは閉じていました。冷蔵庫には、火曜日と土曜日の予定表が残っていました。
Bさんが次にシーツを洗った日、娘さんへ連絡したかどうかを、私は知りません。
木曜日の欄は、まだ白いままでした。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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