週刊READING LIFE Vol.32

女は40歳を過ぎてから、ホントの自分の人生の計画が立てられる《週刊READING LIFE Vol.32「人生の計画を立てる」》


記事:相澤綾子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

幼稚園の頃、将来の夢は「およめさんになること」だった。ある意味それが人生で初めて立てた人生の計画だったと思う。
「およめさんになりたい」というのは、正確には、ウェディングドレスを着たいということだったのだけれど、そんな夢を抱きつつも、現実は甘くもなかった。ただひたすらモテない人生を送ってきた。浮いた話などない。好きな人がいた時期もあったけれど、告白すらできず、もちろん告白されることなんて、皆無だった。
だから女性が少ないところを、と狙ったわけではないけれど、女子の少ない大学に入ることになった。すぐに彼氏ができるんじゃないかと妄想していたけれど、この女子の少ない状況においても、現実は甘くはなかった。憧れの先輩もいたけれど、一度ランチに誘ってもらっただけで、あっけなく終わった。
とはいえ、さすがに女性の少ない大学だけあって、この私にもようやくチャンスが巡ってきた。サークルの先輩が集まりに友達を連れてきて、その友達とメールをやりとりするようになり、2カ月後にはクリスマスイブのデートを約束するまでになった。ようやく幼稚園時代の夢がかなう可能性が、ぼんやりではあるけれど見えてきた。
もちろんこの歳になってからは、将来の夢は「およめさんになること」だけだったわけではない。結婚はしたいと思っていたけれど、就職して、結婚してからも仕事は続けたいと思っていた。
ここで悩むのが就職の時に「総合職」で応募するか、「一般職」で応募するかということだった。一般職で応募すれば補助的な仕事を充てられることになり、やりがいを感じられないかもしれない。総合職で応募すれば、勤務先が全国どこになるか分からない。結婚して、別々に暮らすことになってしまうのか。それを避けるために自分は仕事をやめるのか。相手が転勤になったらどうするのか。だったら一般職にしておくべきか。
女子学生の間では、就職活動が始まる前から、その話題で持ちきりだった。私も夫候補ができたことで、その問題が現実味を帯びてきたのだった。それまでは、彼氏のいるイケてる女子学生のそんな悩みを聞きながら、まあ私は総合職かな、とぼんやり考えていたのだけれど、やっぱり遠距離はきついから、一般職にしておいて、最悪の場合はやめるしかないのかな、なんてことまで考え始めていた。そして男はそもそも一般職という選択はほぼないし、なんでこんな違いになるのだろうと不満にも思った。
悩んだものの、最終的には地方公務員という道を目指すこととなった。転勤がないわけではないが、非常に範囲が狭く、引っ越しの必要はない。
就職して3年目の時に、夫候補の転勤が決まった。夫候補は、私が市役所をやめて一緒についてくると思ったらしい。
「申し訳ないけれど、仕事はやめられない」
と答えた。夫候補は別に私に家庭に入って欲しいと考えていたわけではない。ただ、新しい仕事を見つけるチャレンジをすればと考えていた。でも私は仕事の愚痴を言ったこともあったけれど、本当はやりがいも感じていた。2年と期間が区切られていたこともあり、行かない決断をした。別々に暮らすことになるのは寂しかったけれど、何よりもショックだったのは、お互いが分かり合えていなかったことだった。この現実に一抹の不安を感じつつも、モテない人生を送ってきた経験から、この程度のことで諦めるという選択はなかった。これを教訓として結婚生活に生かそうと考えつつ、夫候補は夫となった。
次に浮かんだアイデアは、結婚後すぐに妊娠すれば、少し遅れてだけれど、育休をとっている間に一緒に暮らすことができる、ということだった。この件に関しては、完全に夫と考えが一致した。出発までの4ヶ月はその幸運には恵まれず、その後も行き来する度に妊娠したいと考えていたけれど、そんなにうまくコウノトリはやってきてくれなかった。
長いようでも振り返ればあっという間の転勤の2年は過ぎて、また一緒に暮らし始めた。それでもなかなかコウノトリはやってきてくれなくて、私もだんだんイライラしてきた。友人や職場の女性の妊娠のニュースを聞くと、落ち着かない気持ちになった。素直に喜べない自分が嫌だったけれど、どうしようもなかった。産婦人科に通い始めたり、ネットや本で情報収集すればするほど、この先どうなるのだろうと不安になった。毎月排卵後の高温期が続いている間はひょっとしたら期待し、基礎体温がぐっと下がるとまた生理が来るという憂鬱とともに落ち込んだ。毎月この繰り返しだった。これをいつまで続くのだろうか、いつの段階で次のステップに進まなければいけないのだろうか、どこまで進めたら諦めるべきなんだろうかとそればかり考えていた。夫の転勤が決まった時の経緯を踏まえてよく話し合っていたからか、不妊治療についての考え方も夫とすり合わせできていた。
産婦人科に初めて通ってから1年経った時、友人に勧められた評判の良い2つ目の病院に変えた。すると、数ヶ月で、妊娠することができた。1年半後に二人目を妊娠、そして、それから3年後に3人目を妊娠した。3人目は想定外だったけれど、38歳で最後の出産をして、子育てをして、もう子どもは十分と思った。
 
そこからだった。急に人生にワクワクするようになったのは、そこからだった。まだまだ子育ては大変だけれど、もう子どもは3人いるし、この子たちが日々成長して、少しずつ手がかからなくなっていって、それと同時に自分のやりたいことに少しずつチャレンジしていこうという気持ちになった。もちろん自分の病気や家族の関係で、何か諦めていかなければいけないこともあるかもしれない。自分自身も体力・能力がなくなって、無理をしてはいけないと思うようになることもあるだろう。
でもどう人生を畳んでいくかは、畳まなければいけない原因を大事にすることであって、ただ寂しいことではないような気がするのだ。例えば、病気になって、仕事を休まなければいけなくなったとしたら、自分を大切にすることでもあるし、家族の看病が必要になったら、家族を大事にすることでもあるということだ。
女は40歳を過ぎてから、ホントの自分の人生の計画が立てられる。自分がどう生きたいかについて、冷静に考えられるようになるには、大体その先が見えてくる年齢の頃からなのではないか。別にそれは人によっては35歳かもしれないし、45歳かもしれないし、50歳かもしれない。
でも本当はもっと若い時だって同じように考えることができたかもしれない。夫が転勤するならついていく、というのは夫との関係を大事にすることかもしれない。子どもができないことは、大人だけの楽しみが続けられたり、仕事に専念できるメリットもあると考えられるかもしれない。でも家族は一緒にいた方がいいとか、結婚したら子どもがいた方がいいという考え方は、何となくしっかりと刷り込まれてしまっていて、思い通りにならないことは悲しいことのような気がしてしまう。今後どうなるか分からないのは不安になってしまうのだ。そもそも、夫の仕事が優先されて妻の仕事は優先されないというのもおかしな話だ。この辺りが同じような感じになったら、女だけじゃなくて男性も、人生設計について悩むのではないか。
だからこそ、色んな働き方や生き方ができた方がいいと思うのだ。私もささやかながら、夫が転勤になっても仕事をやめずに別々に暮らすという選択をとった。それぞれの選択が尊重されるようになれば、自分がどう生きたいのかについても冷静に考えられることができるような気がする。
とにかく、今はこれからの人生にワクワクしている。

 
 
 

❏ライタープロフィール
相澤綾子(Ayako Aizawa)

1976年千葉県市原市生まれ。地方公務員。3児の母。
2017年8月に受講を開始した天狼院ライティングゼミをきっかけにライターを目指す。
 


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2019-05-13 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.32

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