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私は、運の話なんてしたくない《週間READING LIFE Vol.78「運」は自分で掴め》


記事:谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「今朝、おばあちゃんが亡くなりました」
 
母からメールを受け取った時、私はストックホルムの小さな安宿にいた。
 
宿の部屋には窓が無く、昼でも夜でも穴蔵のように暗い。
スマートフォンの液晶が、やけにまぶしく感じられ、どこか現実ではないような気がした。
 
スウェーデンの首都であるこの静かな街に来たのは、三週間前のことだ。
友人が、留学でこちらにいることをいいことに、北欧観光の拠点にしようと一ヶ月ほどこの宿に滞在することに決めていた。
 
帰国まではあと一週間。
やりたいことは、ほとんどやり尽くして、時間を持て余し始めていた。
貯金の底も見え始めている。
そんな時、受け取ったのが母からのメールだった。
 
旅行に行く前から、祖母の命がそう長くはないことは知っていた。
 
「なんだが調子が悪い」と祖母が言い病院に行ったのは、半年ほど前のこと。
検査入院をすると、胆管というところにガンがみつかった。
 
そこから祖母は、入退院を繰り返した。
体力的に、手術は難しいだろうということで、ガンで詰まった胆管に、人工的に管を通すという治療を何度か行った。
管を通した直後は、調子がいいけれど、詰まりだすと途端に調子を崩した。
排泄ができなくなり、体中がむくむ。
そして、全身の皮膚が見たこともないほど黄色くなった。
入院をして治療をしては元気になり、自宅でしばらくすると体調を崩す。
そんなことを繰り返しているうちに、医師から余命が告げられた。
 
祖母には、余命もガンであることも知らせてはいなかった。
それでも、繰り返す体調の変化に祖母はすっかり疲弊をしていた。
何度もやってくる入院生活に慣れない気持ちもあったかもしれない。
 
仕事帰りに、病室による機会が何度かあった。
1時間ほど話し、「じゃあ、帰るね」と言うと、「もう帰るの?」と心底さみしそうな返事をした。
それを聞くと結局帰りそびれて、毎回、面会時間終了のアナウンスを病室で聞くことになった。
 
その度に、小さな頃は、逆の立場だったのにと思った。
 
私は、いわゆる「おばあちゃん子」だった。
外に働きに出ていた母に代わり、祖母の後ろをついて回った。
畑仕事をしている最中も、祖母の横で草取りの真似事なんかをしていた。
保育園児のくせに「私は、中学を出たら高校なんて行かないで、おばあちゃんの手伝いをするから」と宣言したほどだ。
 
祖母が、疲弊していくのと比例して、祖母の実の娘である母も、どんどん疲れていった。
 
治療方針の決定から、自宅での介護、入院時の付き添いまで、母は一手に背負っていた。
特に治療方針を決めるという重責は、大きく母を苦しませていた。
具合が良くなればいいけれど、体調を崩すと、「あの判断は正しかったか?」と祖母のいないところで、悔しそうに涙を流した。
うちは割と仲のいい家族だったが、父も私も弟も、母の苦しみを軽くすることができなかった。
 
病気の祖母と、疲れ切った母。
家には、重い空気が流れていた。
 
スウェーデンへの旅行の計画を立てたのは、祖母が体調を崩す、ずっと前のことだ。
祖母のことですっかり忘れてしまっていたが、気がつくと出発は目前に迫っていた。
今は、明らかに旅行に行けるような状況ではない。
それでも、私は、旅行を中止することを悩んでいた。
 
長期の休みが取れる職場ではなかったので、この旅行のために仕事は退職してしまっていた。
格安サイトで予約をしたので、航空券のキャンセルも払い戻しもできない。
 
「旅行、行かない方がいいよね?」
二人きりになったタイミングで母にそう聞いてみた。
それを聞いて、母は言った。
「あんたは、おばあちゃんの病気のことなんて気にする必要はない。先生が言っていた余命だって、まだ時間はあるの。気にせずに行きなさい」
母がそういうならと、胸を撫で下ろして、出発を決めた。
 
決めたはいいが、祖母の体調は少しずつ悪くなっていった。
退院をして自宅に帰ってきてはいたが、顔色も悪く、もともと痩せていた体がますます細くなった。
立ち上がることもままならず、ほとんどの時間をベッドで寝たきりの状態で過ごすようになった。
 
私が出発する当日も、祖母はベッドから起き上がることができなかった。
 
「おばあちゃん、行ってくるね」枕元でそう声をかけた。
「気をつけてね。気をつけて」
 
飛行機の時間が迫っていて、それ以上言葉を交わす時間はなかった。
慌てて、玄関を飛び出した。
庭では、駅まで送ってくれる母が、車のエンジンをかけて待っていた。
 
トランクをひきながら、ふと、祖母の部屋を振り返える。
しまっているレースのカーテンが、ゴソゴソと揺れていた。
祖母が、ベッドの中からカーテンの端を引いている姿が浮かんだ。
カーテンを開けて私の姿を見ようとしてくれているのだとわかった。
 
時間は、もうギリギリだった。
車の窓から、揺れるカーテンが離れていくのを見続けた。

 

 

 

宿で、母からのメールを受け取り、大急ぎで空港へ向かった。
航空会社の柔軟な対応のおかげで、できるだけ早い便にチケットを変更することができた。
それから13時間、飛行機を乗り継いで自宅に着いたのは、出棺の2時間前。
 
祖母は、真っ白い衣装を身に付け、棺におさまっていた。
それでも、まだ、実感がわかない。
 
祖母に渡すはずだった、北欧製の赤いハンカチを広げ、棺の中の膝にかけた。
母の目も、父の目も泣き疲れてすっかり腫れていた。
 
こんなはずではなかった。
こんな形で、祖母に会うはずではなかった。
頭の中が真っ白で、何も考えが浮かばない。
ただ、心の中だけが、ザワザワとさざ波を立て続けていた。
 
葬儀のために、自宅には、家族だけでなく、親戚も集まっていた。
ある人が、私に声をかけた。
「旅行中に、亡くなっちゃうなんて運が悪かったわね」
 
その言葉に、私は動揺をした。
運? 私が、祖母の最後に会えなかったのは、運?
 
さざ波は、突然大きなうねりとなって私を飲み込んだ。
 
違う。これは、運じゃない。
揺れたカーテンを見て、引き返さなかったのは私だ。
あれが、最後のタイミングだった。
逃したのは、私だ。
いや、そもそも、旅行になんて行かなければ良かったのだ。
本当に行く必要があっただろうか。こんな時期に。
こうなる可能性があるってわかっているはずなのに。
最後の機会を捨てたのは、私だ。
運じゃない。
運のせいなんかじゃない。
私は、運の話なんかしたくない。
これは、私の話だ。
全部捨てたのは、私だ。私のせいだ。
 
悲しみよりも、ずっと大きな罪悪感が私を飲み込んだ。
 
突然、祖母との思い出が蘇る。
一緒に畑で過ごした時間。
弟と何度もねだって、描いてもらった星の王子様。
少し裏返った小さな歌声。
学生時代、アパートに届いた一枚のはがき。
コタツに入って、一緒に見た歌番組。
 
生まれてから、今までずっと一緒にいた大切な思い出がある。
その思い出を全部、踏みにじってしまった気がした。
もう、取り返すことのできない大きな失敗。
ああ、充分大人だというのに、私は、「死」というものを理解していなかったのだ。
祖母は、もうこの世にいない。
どんなに後悔をしても、もう祖母に会うことは叶わない。
 
あれから、10年近く月日がたった今でも、あの時、旅行に行ったことが良かったとは思えない。
あの日に戻ることができるなら、旅行に行くことを辞めてしまいたい。
そして、祖母の側で、家族と一緒に、祖母の最後を見届けたい。
 
そんな思いとは裏腹に、あの旅行で出会った人たちとは、いまだに交流が続く。
何かの転機には、いつも相談をする特別な友人たちだ。
あの時、あの瞬間にあの場所にいなければ、出会えなかった大切な人たち。
 
このことをどんな風に受け止めるべきか、どう表現していいかもわからない。
 
こんな私に「運」なんてものがなんだかわかるはずがない。
「運」を掴む話なんてできるはずもない。
 
ただ、「運」という言葉を聞くと、私はいつもあのカーテンを思い出すのだ。
 
祖母の揺らした、あの白いレースのカーテンを。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1982年栃木生まれ。
建築士。インテリアコーディネーター。
一級建築士事務所アトリエタイチ代表。
明治大学理工学部建築学科卒業。
設計事務所、工務店、ハウスメーカー勤務を経て、150組以上のお客様の注文住宅設計に携わる。2019年、「くらす」ことをゆっくりみつめたいと独立。
曽祖父の建てた築90年の古民家を改築し、住まい兼事務所として「くらす」について考える日々をおくる。
2019年より、半径3メートルの世界を綴るためと、書くことを学び始める。
好きな言葉は、食う寝るところに住むところ。

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2020-05-04 | Posted in 記事, 週刊READING LIFE vol.78

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